第2話 お年寄りに空席を

 すでに閉じかけていた扉は、猫背気味のなだらかに下がった肩を両側から挟む。

 障害物を確認するとドアは再び全開になった。老人は何事もなかったように我が物顔で乗車する。その後ろではもう一人お婆さんがスタンバイしており、一度扉が開いたのをいいことに、非常にゆっくりとした動作で車内に乗り込んだ。

 すぐにドアが閉まる。


『駆け込み乗車は危険ですのでおやめください』


 発車してすぐアナウンスが注意喚起した。だが当の本人たちは我関せずとした態度で辺りを見回す。駆け込んでいないどころか、トロトロとしたペースで乗り込んだ二人には、その指摘が自分たちに向けられているという認識もなかっただろう。或いは知っていてわざとやったか。どちらにしても質が悪い。

 ドアに体を挟んだ音に周囲はもちろん、真名たちも目を向けた。夫婦だろうか、二人は早速座れる席はないかと視線を彷徨わせている。


「ああいうの見ると、大人も子どもとそんな変わらないって思うよね。むしろ私の方が大人って感じする。だって私、あんなこと絶対しないもん」


 先程の摩訶不思議な出来事を忘れるように咲は毒づいた。なによりも咲の正義感に障ったのだろう、周囲の迷惑を顧みない老夫婦に軽蔑の視線を向ける。

 お婆さんは早速空席を見つけると腰を下ろした。だがそれが最後の一席だったのか、お爺さんは空席を見つけられず、一人突っ立ったままの状態となる。

 今なお首を巡らす夫に、お婆さんは声を上げた。


「ありゃ、これじゃ座れないね。ちょっとあんた、席を譲ってくれるかい?」

「へ?」


 突然の申し出に、お婆さんの隣に座っていたサラリーマンの男性は戸惑った。

 マスク越しでもわかるこけた頬と、白い生地で目立つ目の下のクマ。咄嗟に振り返った拍子に、まるで台所洗剤で洗ったようにごわごわで頭皮の目立つ線の細い短髪が揺れた。膝の上に置かれたカバンを抱える腕に力が入る。

 その反応に相手が気の弱い人間だと確信したのか、お婆さんは図々しく言う。


「ごめんねぇこっちは年寄りなもんだから。体力がなくて」

「すまんな。と言っても、二駅で着いちまうんだが」


 お爺さんが近づくと譲ってもらえる前提で話を進めた。長年使用しているのであろう色褪せたキャップから覗く相貌はじっと男性を見つめ、目元と頬のたるんだ肉でできた影は視線を鋭くさせる。

 周りの人たちは最初からなにも起こっていないと言った様子で、閉口したまま携帯や文庫本に目を落とす。中には目を閉じている者もいた。

 だが聴覚はしっかり三人の会話を聞き取り、胸の内では声をかけられたのが心底自分でなくてよかったと安堵していた。

 男性は眼前の老人の眼光に肩を竦めながらも、おずおずと切り出す。


「ゴホッ……すみません、今日僕ずっと外回りで足を痛めてまして……。あと僕、風邪も引いていて、まだ降りる駅先なので」

「年上は敬えと教えてもらわなかったのか!?」


 お爺さんは突然声を荒げると強い口調で叱咤した。表情筋が動かないのっぺりとした顔こそ涼しげだったが、その分相手の考えが読み取れず男性は恐怖を覚える。

 抑え気味の怒声は、それでも狭い空間ではどこにいても全員の耳に行き届いた。にも拘らず周囲はちらりと目を上げただけで、すぐに視線の位置を戻す。それは面倒事に関わりたくない、他人事だからどうでもいいという意思の表れ。

 そんな一瞬の視線に気づきながらも、実際足を痛めていた男性はどうしても席を死守するために言葉を返す。


「で、でもあなたは疲れているようにも、体が悪そうにも見えない

じゃないですか」

「健康、不健康の問題じゃないでしょ」


 すると今度は真横から抗議の声がした。お婆さんが説教めいた口調で語る。


「老人はね、健康だったとしても体は弱ってるんだから、もし電車が急に揺れたら簡単にバランスを崩すし、それで倒れたら大怪我になるの。ちゃんと考えて」


 諭すように言うお婆さんにサラリーマンは絶句した。

 その表情からは、声にしなくても言いたいことが伝わってくる。なぜ老人だからとここまで図々しくできるのか、優先席でもないのに席を譲られて当然という態度なのか、これ以上関わり合いになりたくない、と。

 その結果男性の導き出した答えは、この場を離れることだった。

 男性は我慢ならず席を立つ。すると入れ替わりですぐに老人が席に座った。当然お礼の言葉などない。


「次の駅で降りよっか」

「え?」


 咲がサラリーマンを不憫に思っていると、不意に真名が言った。

 丁度窓を流れる景色もスピードを落としており、すぐに電車が停車する。

 やがてドアが開くと少数だけが電車を降りて行った。真名は立ち上がると、例のゴミ捨て場で拾った箱を持ったまま素早くそれに続く。


「あ、ちょっと!」


 咲は慌てて立ち上がると急いで真名を追った。

 視界の端で先程のサラリーマンが一緒に電車を降りるのを認める。あとから老人たちの悪態が聞こえてきた。


「なによ、この駅で降りるんじゃない。なんでまだ降りないなんて嘘ついたの?」

「くだらんプライドだろ。一駅くらい立ってても変わらんだろうに」


 急いでいたため咲は話の内容までは聞き取れなかった。それよりも真名と逸れてしまったことの方が気になり、咲は顔を巡らせる。その間に電車のドアが閉まる。

 降りた場所は無人駅と思えるほどひっそりとしていた。快速なら通過してしまう、利用客が近所の住民たちに限られる駅である。人も疎らで、お陰ですぐに真名を見つけられた。

 真名は改札口近くにある女子トイレから体を覗かせていた。咲が出てくるのを待っていたのだろう、こちらを見ている咲に気づくと手招きする。


「ちょっと、なんで急に」

「しっ。大声出すとバレちゃうよ。咲ちゃんも隠れて」


 口に人差し指を当てるや、真名は咲の腕を取ってトイレに引っ張った。片腕には相変わらず機械の入った箱を携えており、離す様子はない。

 何事かと真名の視線を追うと、先程老人に絡まれていたサラリーマンがいた。見るからに疲労感に苛まれており、あからさまに肩を落としている。

 男性はマスクを外すと、疲れ切った表情でプラットホームに設置された椅子にどさりと座り込む。前のめりになると膝の上に肘をつき、大きく息を吐いて両手で顔を覆った。水で洗うようにゴシゴシ擦って二度目のため息をつく。

 そんな、おじさんが黄昏ているだけの地味な風景に、咲は眉を顰めた。


「あの人がどうかしたの?」

「もう少し待ってて。そろそろ面白いものが見られるから」


 期待に満ちた自信満々の声音に咲は気圧される。特別急いでいる用事もない。もう少しというなら待ってもいいかと、咲は仕方なく真名につき合うことに決めた。

 と、すぐにアナウンスが次の電車を告げる。だが依然として男は項垂れたままピクリとも動かなかった。その間に快速電車が駅を通過しようとする。

 瞬間、男は立ち上がると同時に線路に飛び込んだ。

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