第2話 二人の母親

 先日ことを思い出しながら掌をじっと見つめていると、不意に前から伸びた両手にそっと包まれる。顔を上げると、心配そうに母親が覗き込んでいた。


「大丈夫、明? 嫌なら無理に思い出さなくてもいいのよ……?」


 慈しみの瞳で見つめる母。だが明はその視線よりも、今自身の手を包む片方の手首につけられた腕時計を見て、はっとして目を丸める。


「すみませんが、私はこれで失礼します」


 早口で言うと、明は早々に席を立つ。すると母親は弾かれたように立ち上がった。


「待って明! まだ話が終わってないっ」

「申し訳ありませんが、帰りが遅れると叱られてしまうので……それに、あなたも人を待たせていますよ?」

「え?」


 言っている途中、明は向かいの席の横で立ち尽くす人物に気づいて促す。

 母親は慌てて後ろを振り返り、目を丸くした。そこにはビシッとしたスーツを着た眼鏡の男性が、タイミングを見計らう様子で立ち尽くしていた。


「直哉さん!? やだ、もうそんな時間だった?」

 

 事前に約束していたのだろう、母親は焦った様子で腕時計を確認する。そんな母親を尻目に、男は席に近づくと、明に挨拶する。


「こんにちは明君。1週間ぶりかな?」

「そう、ですね……。申し訳ありませんが、私はこのあとすぐに家に帰らなくてはいけないので、これで失礼します。それでは」


 手短に済ますと明は男に会釈し、通学カバンを持って足早に去って行った。


「あ、明!」


 母親が声をかけたのも束の間、明は急ぎ足で喫茶店を出てしまう。

 明の姿が見えなくなると、母親はため息を吐いて呟いた。


「……昔はあんな感じじゃなかったのに……」

「大丈夫。もうすぐだ。今日、このあとまでの辛抱だから、頑張ろう」


 男はそんな母親の肩にそっと手を置くと、落ち着いた声音で宥める。

 するとポケットから携帯を取り出し、どこかへと電話をする。


「今、帰路に着きました。はい。ではタイミングはあとから連絡しますので……」


       ◇


「早く帰って風呂の掃除しろっつっただろ! このグズが!」

 

 マンションに帰り、明が玄関に入ったときに聞いた第一声がそれだった。

 怒鳴り散らすのは茶髪の女。いつものようにだらしない恰好で憤怒すると、心底苛ついた様子で前蹴りを繰り出し、明の腹部に足を叩きつける。


「ぐっ……!」


 明は盛大に尻餅を着くと腹を抑えた。だが茶髪の猛攻は終わらない。


「あーもうむしゃくしゃする! あの甲斐性無しはまた風俗だし、そのガキはまともに掃除もできねぇ! お前ら親子はどんだけ無能なんだよ!」


 ヒステリックに叫びながら、茶髪は荒々しくポケットから煙草を取り出す。と、中身が残り少ないことに気づくと、じろりと明を睨みつける。


「おい。掃除はあとでいいから煙草まとめ買いしてこい」

「え!? いや、あのっ……」

「今すぐに行け。まさかお使いもできねーっつうんじゃないだろうな?」

「わ……私は未成年なので買うことができません! それに制服姿じゃなおさら――」

「ガタガタ言ってねーでさっさと行けっつってんだよ!」

「ブッ!?」


 茶髪は怒声を上げると、明の頭を勢いよく蹴り飛ばした。

 女性の力だったとはいえ、容赦のない一撃に明はその場に倒れる。明が怯えて肩を竦めると、茶髪は明を幾度も蹴りつけて床に這い蹲らせ、屈服させる。

 ただでさえ痩せこけて筋力のない明は、小さく丸くなることくらいしか抵抗の手段がなかった。明はこのままでは体が持たないと思うと、咄嗟に玄関を飛び出して外に出る。


「あたしがパチンコから帰って来るまでに家事全部終わらせとけよ!? 煙草も勝ってこい! あの店の店員は生意気だから大嫌いなんだよ!」


 開け放たれた扉からそんな叫びが響く中、明は無我夢中で走った。

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