第8話:夕飯時に君を想う
楓は日が沈みきる前に帰っていった。もう少し残って欲しいという濱元の言葉を振り切って、門限があるからと家を出ていった。礼儀正しい人だなと思った。土橋家なんて、門限などあってないようなものだ。父親が帰ってくる時に家に居たら、絶対に怒られない。
さて……従姉妹の面倒を見終わった土橋は、ノートパソコンを開いた。大昔の型落ち版だが、ここには大事なデータが詰まっている。昼間検討していた対居飛車穴熊の検討資料だ。詳しい説明は神とてよくわかっていないので割愛するが、とにかく隙間時間を見つけて作戦を練っていたのだ。
別にプロ棋士じゃなくても、プロ棋士を目指さなくても、同じくらい時間をかけている人はいる。土橋の父がその例だ。その結果息子達はひもじい思いをしているのだが、土橋からしたら特に何とも思っていなかった。
「あーそっかあ……ここ端歩ついて待つ指し方あんのか……気づかんかったなあ……」
普段は自室に引きこもって独り言を交えつつパソコン上で盤面を操作するのだが、この日は濱元の面倒を見なければいけなかったのでリビングのテーブルでやっていた。その結果、こう言われてしまうのも必定である。
「おにい」
「どうした晴菜? 熱が上がってきたのか?」
「違う」
「お腹痛いのか?」
「違う」
「体の節々が……」
「うるさい違う。独り言うるさいから黙ってて」
独り言? 土橋は何を言われているのかわからなかった。土橋にとって検討中の独り言は言葉を発していると認識されていないのだ。
「何でピンときてないのよ……」
「とにかく黙ってたらいいのか?」
「将棋の検討しなかったらいいのよ! いっつもお兄の部屋からぶつぶつぶつぶつと聞こえてきて不気味なの!! お兄絶対独り暮らしする時は壁の厚い部屋にするのよ。レ◯パレスとか絶対ダメ」
「それレ◯パレスへの風説の流布だろ」
土橋はそう突っ込んだのだが、華麗にスルーされてしまった。本物の兄貴なら、ここでもっとくどくどと文句を垂れ流していたのかもしれない。しかしそこは従姉妹ならではの遠慮があった。
「お兄」
「どうした?」
「ご飯は食べないの?」
「パン派だからな」
「いやそういう意味じゃなくて……」
テーブルの上に置かれていたのは、近くのスーパーで売っていた値引き後のピーナッツクリームパン。
「他に晩ご飯食べないの?」
それだけだった。土橋はまた怒られるのかなと思い、パソコンをシャットダウンさせつつ寝転がる従姉妹を見た。
「?????」
「いや、お腹空いてないって」
「空いてない」
「本当に?」
「本当」
「毎回思ってたんだけどさ、痩せ我慢してないよね?」
「生まれた時からずっと、晩ご飯はパンだけだったし。なんならそれすらない日もあった」
土橋は同情など過去に置いてきたような口振りで、濱元にそう告げた。辛い経験の吐露ではない。単にそれが当たり前だったし、それを惨めとも思ってこなかった。それだけだ。
「お兄、りんごあげる」
濱元のその目は、同情とか憐憫とか不愍とか惻隠とか、そんな感情は一切入っていなかったのだが、それは土橋には伝わらなかった。
「他人を哀れむのはよせ」
「いやそういうんじゃないから」
土橋赤葉は他人の考えを察するのが下手だ。しかしこの特性に辛い過去など特にない。昔からずっと、彼は周りの意図と外した言動をとるのだ。わざとではなく、無意識的に。それを周りは可愛くこう評するのだろう。鈍感だと。
「ほら、せっかく楓さんが切ってくれたんだから、お兄も食べなよ」
「いやそれ晴菜のだし……」
「いいよ別に。私はもう十分堪能したんだし」
土橋は仕方なく爪楊枝を取ってきて、晴菜のいるソファに近づいた。そしてひとつ突き刺して口に含んだ。もう切られてしばらく経っていたから白い部分は黄色くなっていたが、それでも味は甘くて美味しかった。
「ねえ、お兄。あの人と付き合ってるの?」
土橋は首を振った。訝しげに見る濱元。
「付き合ってないのに家に来たの? しかも
「とても優しい人だなって思った」
「いやそんな慈善的なことじゃないでしょ!?!? 普通ありえないって!! いや例えばお兄が倒れてたんなら看病しようかなってくることはあるかもしれないよ!! 万が一だし億が一だけども!! でもこれ、私の看病だからね」
ここまでのやりとりを全て見てきたのなら、此処は笑いどころだろう。知っての通り、楓は土橋の看病にきたのだ。
「そうかなあ」
「そうだよ!!!」
しかしピンとこない土橋。
「だから私はこれを口実に明日の朝まで居座るのかなあとか、今日は耳栓でもして寝ようかなあとか思ってたのよ!! ちょうど明日は土曜日だし」
「耳栓買うほど独り言うるさいと思ってたのか?」
「いやそうじゃなくて……」
ばさり、布団をかぶる濱元。耳まで真っ赤にしながら、
「言いたくない!!」
と叫んでいた。無論のことだが、土橋には何も響いていなかった。
「……りんご、ありがとう」
土橋はよくわからなかったからお礼を言うことにした。
「それを言うのは楓さんにだよ」
相変わらず布団をかぶったまま、濱元は呟いた。そして土橋は、りんごひと切れでご馳走様になった。そのままテーブルに戻り、スマホを開いた。
(なんだ、土橋くんだって優しいね)
今日言われた言葉がリフレインして、いつまでも土橋の脳裏に残っていた。あの時の彼女の優しい笑顔が、いつまで経っても想起されては顔が赤くなった。胸の鼓動が早くなった。本当に、優しい人だ。
次会う時は、今回のお礼をしよう。あんなに優しい人なのだから、その感謝の気持ちを伝えよう。土橋はそう思って、自分の胸倉をぎゅっと握った。そして彼女の登録されていないLINEを、ずっとずっと見続けていたのだった。
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