雪と雪ねことねこキラー

あかいかわ

前編


 その特徴のない住宅街を貫くように、車二台がやっとすれ違えるていどの幅の道が、不思議なほどまっすぐに伸びている。その道のおわりがどのくらい先にあるかもわからないし、その始まりがどのくらい先にあるのかもわからない。幅は広まりもしないし狭まりもしない、一定の間隔のまま、世界の果てまでつづいているようにも見える。

 その道を、ひとりの女性が歩いている。遠くのほうからこちらへ向けて、彼女は静かに歩いている。ほかに人影はないし、道を走る車もない。ひっそりと静かで、まるで彼女以外のすべての時間が止まってしまったようにさえ錯覚させる。

 そして雪が降っている。この地方にはめずらしい大粒の雪が、どこか急ぐようなスピードでつぎつぎに落下している。それがこの閑静な住宅街をさらに無音の世界にかえていた。こんな日には誰も外に出ようとしないし、車でさえ、エンジンを加熱させる意欲をうしなう。

 雪は手のひら二枚分くらいの厚さにつもっている。雪の粒はそれをさらに厚くさせる意欲にみちていた。道をゆく女性は、足跡というかたちでささやかにそれを妨害していた。彼女の足跡以外にこの雪の道を穿つものはなかった。そして、その足跡もすぐに雪に覆われてしまうだろう、そういう降りかたを雪たちはしている。

 彼女は長い黒髪の美しい女性だった。灰色のカシミアコートのポケットに両手をしまい、傘もささずに歩いている。その肩とあたまにはすでに雪が薄くつもっている。それでも彼女はまるで寒さを感じていないかのような、どこかほぐれた表情をうかべていた。かすかにもちあがったくちびるの端には、なにかを期待するかのような気配さえ宿っている。楽しいことが始まるのを待ちわびるような、やや幼ささえ感じる表情。彼女の背丈は女性にしてはやや高く、体のラインは細い。安定したよどみのない歩きかたから、鍛えるというほどではないにしろ、定期的な運動を日常に組みこんでいるタイプの人間であることが容易に想像できる。彼女のからだのどこにも、その身のこなしにも、無駄と呼べるものはなにひとつ見いだせそうになかった。


   ❅   ❅


 彼女の名前はねこキラー。彼女はもちろんねこを殺す。


   ❅   ❅


 無音の住宅街に存在感をもっているのは、ただねこキラーと、降りしきる雪たちだけだった。

 でも、もちろんそれ以外にもたくさんのものが存在している。目には見えないたくさんの存在が、息を潜めて見つめている。もうずっと前から、ねこキラーは気づいていた。雪の道をすすむ自分の跡をつけているものの存在を。ねこキラーは、だから楽しげな顔をしていた。自分を追跡するものの正体を、彼女ははっきりとつかんでいるわけではない。でも、こうしてついてきているのだから、きっとなにかをしてくれるのだろう。彼女はそれを期待していた。

 楽しみにそれを待つ。でも、どれだけ歩いても一向になにかが起こる気配はなかった。ねこキラーの安定した歩みに、それはただついてくるだけだった。それ以外になにもしない。ねこキラーはときどき、自分のあたまと肩につもった雪をはらうために立ちどまった。きっかけを与えるために。でも、なにも起こらない。跡をつけるなにかは、彼女に合わせて足をとめる。そしてねこキラーが歩き出すと、おなじ間隔を保ってふたたび跡についてくる。ねこキラーとの距離は、狭まることも広がることも、けしてない。


   ❅   ❅


 しばらくして、ねこキラーはちいさな公園を見つけた。住宅の海のなかに打ちこまれた楔のようにそれは孤独な空間だった。葉を落とした樹が二本だけ植わり、ブランコ一基とベンチが一脚、そしていまは雪に埋もれたささやかな砂場があるだけの、みずぼらしい公園だった。

 金網フェンス越しに、ねこキラーは足をとめてその公園を見やる。誰もいない。ひたすらに降下する雪の粒以外に、動くものはなにひとつない。彼女はなかに立ち入る。真っ白な雪を踏みしめて、彼女はベンチのところまでいく。やわらかにつもった無垢な雪をどけてから、そこへ腰をおろす。あどけなささえ感じられる微笑を浮かべながら、彼女はじっと、目の前の雪におおわれた砂場を見つめる。なにかが起きることを期待するように。なにかが起こることを、知っているかのように。

 無音はつづく、まるで空気の震えをひとつ残らず雪が吸い取ってしまっているみたいに。静寂はまるで液体のように空間を満たしている。静寂の均質な肌触りさえ感じ取ることができる。ねこキラーはその静けさに加担するようにじっと動かなかった。鹿の子編みのマフラーにあごをうずめ、白い息を吐きながら、待ちつづける、さあ。

 さあ。

 砂場をおおう雪のいちぶがわずかに蠢いたとき、ねこキラーのあたまと肩にはふたたびうっすら雪がつもり始めていた。彼女はかるく雪をはらい、そして動きのあった箇所を注意深く見つめる。何ごともなかったかのように、砂場の雪は平らなままだった。でもそれが見間違いなどではないことをねこキラーは知っている。彼女は口の端に期待を宿して見つめつづける。さあ、さあ。雪はふたたび蠢いた。もくり、もくりと脈打つように盛りあがり、そしてそのなかから白い雪の塊が姿をあらわした。

 雪ねこだ。


   ❅   ❅


 雪ねこは表情のない顔をねこキラーへ向け、ちいさく身ぶるいをすると音もなく彼女のほうに歩み寄る。立ちのぼる煙のようにまっすぐにしっぽを立てている。そして彼女からすこし離れた位置に立ち止まると、音もなく腰をおろす。長いしっぽを自分のからだに巻きつけて、輪郭だけの顔でねこキラーを見つめる。彼女もじっと、雪ねこを見つめる。

 雪ねこは雪そのもののような質感で、淡く白い。ねこの形をしているが、そのシルエットしか識別することはできない。表情もなければ模様もない。そのからだは半透明で、かすかに向こう側が透けて見える。雪を踏みしめて歩いても、足跡は残らないし音もしない。目を閉じればすぐにその存在はおぼつかなくなるだろう。それでも雪ねこの視線には、不思議なほど具体的な質感がこめられている。手に触れてその温度を確かめられそうなほど、視線は肉感的で排他的だった。そしてそれは純粋でさえあった。人間の向ける視線のように、多義性や不純物は含まれてはいなかった。

 視線を感じて振り向くと、そこにも別の雪ねこがいた。一匹は枯れた樹の陰から顔だけを出してこちらをうかがい、もう一匹は慎重な足どりでこちらに近づいている。あたりを見回すと、ほかにも数匹の雪ねこの姿が目にとまった。ブランコのそばに二匹、金網フェンスのところに一匹、隣の住宅の塀のうえに三匹。雪ねこたちは思いおもいのペースで静かにねこキラーとの距離を詰めた。足音も立てず足跡も残さず、ねこキラーの座るベンチを目指して雪ねこたちは近づいた。

 ねこキラーは脚を組んで、雪ねこたちに微笑みかける。雪ねこたちはそれに対してなんの反応も見せない。いちばん初めにあらわれた雪ねことおなじように、ある距離まで近づくとそこに腰をおろしてじっとねこキラーの顔を見つめた。雪ねこたちはねこキラーを囲う。そしてなにもせず、静かに彼女へ視線を向ける。ねこキラーは雪ねこたちの数をかぞえてみた。十一、というのがその正確な数だった。十一匹の雪ねこたちが、無音で彼女を見つめている。そこに二十二の瞳が存在するかどうかは、わからないけれど。

 ねこキラーは最初にあらわれた、からだにしっぽを巻きつけている雪ねこに視線を向ける。薄くつめたい微笑をくちびるのすみに残したまま、ささやくように尋ねる。仕返しをしたいの? 声をかけられた雪ねこは微動だにせず、打ちつけられた鋲のようにその視線を固定していた。ねこキラーはそっとくちびるに触れ、そしてもういちど尋ねる。わたしをとめたいの? 雪ねこたちはなにもこたえない。十一匹の雪ねこたちは、無言で彼女を見つめつづけるだけだった。ねこキラーは苦笑して、幼い子どもがいやいやをするように首を左右に振る。あたまにかかっていたわずかな雪が、ハラハラとこぼれ落ちる。

 あなたたちになにができるの、とねこキラーはいう。そんなからだでなにができるの。なにができるつもりでいるの。それともなにかをしたいわけでもないの? こうして、わたしの前に姿をあらわして、じっとわたしを見つめていればそれで満足ということ? なるほど。でもそれって、なにか意味があるのかな? そんなことをされたって、わたしはなにも感じないしなにも思わない。わたしはなにも変わらない。ねえ、それよりももっと面白いことをしようよ。なんならもういちど殺してあげてもいいんだよ。どんな死にかたが好みかな? 前とおなじがいい? 別のほうがいい? それともこんどは、あなたたちがわたしを殺す? いいよ、それでも。面白そう。もちろんわたしは抵抗するよ。殺せるものなら殺してごらん。わたしを痛めつけて、痛めつけて、やり返してみなよ。わたしはそれでもいいんだよ。どっちだっておなじことなのかもしれない。でも、すくなくともそっちほうが、動きがある。ねこキラーは最後にやや翳りのある微笑を浮かべてちいさくつぶやく。いまの世界には、動きがない。

 雪ねこたちはなおも動かなかった。雪ねこたちはひげ一本動かしはせず、十一種類の視線を猫キラーに押し当てているだけだった。雪の粒でさえ、雪ねこたちのからだを通りすぎて地面に落ちる。ねこキラーはため息をつく。静かに立ちあがると、鹿の子編みのマフラーの位置を整えて、お公園の外へ目を向けた。雪ねこたちは彼女の動作を目で追う。

 どうせこのあともついてくるんでしょう、なにもできないくせに? ねこキラーは視線を変えず、低い声でいった。ついてきたいんなら、ついてくればいい。わたしがすることを見ていたいんなら、見ていればいい。勝手にどうぞ。でもそんなことでわたしはとまらない。わたしはわたしのしたいことを、つづけるだけだから。

 その言葉にも雪ねこたちは反応を見せない。それを見定めてから、ねこキラーは真っ白な雪を踏みしめて公園のそとへと歩き出す。雪ねこたちはからだを起こし、静かに、というよりは無音でその跡にしたがう。しっぽを立てて歩く雪ねこを先頭に、十一匹の雪ねこたちは空気ほどの重さも感じさせずにねこキラーを追跡する。近づきすぎもせず、離れすぎもせず、一定の距離を保ったまま、彼女のゆくえを追う。そのひそやかな動きに生命の息づかいはない。あるいは意志さえも、そこにはなかったのかもしれない。雪ねこたちに存在感はない。不思議なほどまっすぐに伸びる雪の道に、存在感をもっているのはただ雪と、ねこキラーだけだった。


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