終話――見せばやな。
「見せばやな雄島の
君を待ち続けて待ち続けて、はや百数十年が過ぎた。
もう疲れてきてしまって、くたくたで。涙はとうの昔に色を変えてしまって。
でもこの激情ばかりはどうしても抑えられず、今日も憎悪と愛情渦巻く潮に溺れながら何とか息をしている。
嗚呼。
着物が焦げ茶で助かった。
びしょ濡れになった袖を夜毎絞っては、深海で息を吐く。
月だけが水面を揺ら揺ら泳いでこちらを見つめ返すばかりだ。
君は今もその
俺達は時空を超えて繋がれているか……。
* * *
ドガッ、ドガッ!
バキッ!!
『やめろ、こおろぎ!』
『ソイツに罪はねぇだろ!』
『やめな、こおろぎ!!』
『死んでしまう!!』
『……っ、ごめんなさい、ごめんなさい』
『ごめんなさい……っ!』
「うぁぁーん!! あああーん!! 爺ちゃんのばかー! パパのばかばかー!!」
ハッと気付けば夜の森。
甲高い少年の泣き声で目が覚めた。
また気を失っていたのか。慌てて口元を拭えど血は一滴も付いていない。歯間に髪の毛も挟まっていない。
そこでようやくほっと胸を撫で下ろした。次いでさっきからギャアギャア五月蠅い少年の泣き声に意識が向く。
「ンだ、こんな時間に」
月の傾きから察するにもう深夜に近い。
……迷子か? こんな所で野垂れ死にされて仕事が増えても困るだけなんだが――なんて嫌味やら愚痴やら言ってみるが。それでも最近は小さく可憐な姫の用心棒、兼、世話係としての生活を過ごす日々。子どものピンチに気付かない振りはもう出来ない体になっていた。
「ったく。しゃーねーな! おい、坊主!」
舌を盛大に打ちながらも少年の心配をせずにはいられない鬼。
大木の上から急に降って来た男に最初はびっくりした彼だったが、助けが来たとでも思ったのか直ぐに「あぁーん!!」と泣きついてきた。
おかげで昨日クリーニングから帰って来たばかりの白いスーツは涙と鼻水と涎まみれになってしまった。
……仕方ない。帰った時の仕事が一個増えただけだ。
「おいどうした坊主」
「びーっ!!」
「あんまり泣くな。いいから答えてくれ。迷子か」
「うううー、うううああーん!」
「おい。迷子なのか家出なのか」
「……」
体を引き剥がされ肩を抱かれながら、目を矢で射貫くように真っ直ぐ見つめられた少年。しゃくりあげながらも無理矢理自分を落ち着かせた。
「……いえ、で」
ちっちゃく呟いた。
「そっか、家出か」
「だからまいごじゃない。まいごはチビがすることだから!」
「そんなの誰に習ったんだよ」
これは家出と迷子が半々だな。頭をカリカリ。
「……寒いか?」
こくんと頷く。
着ていたジャケットを被せてやる。
「腹も減ったろう」
また頷いた。目から同時に涙がぽろぽろ溢れてくる。
「鶏肉は好きかい」
「からあげ、好き」
「そうかいそうかい。一緒に買いに行こうか?」
「……でも」
「でも?」
「先生が知らない人には付いて行っちゃだめだって」
「……、……まあ、そうだよなぁ」
「……」
「でもお腹はぺこぺこ?」
またじわ、と涙が滲み出す。でも暫くはそのまま押し黙って我慢をしていた。
しかし五分を超えたところで声が堰を切ったように心から溢れ出て来たらしい。
「お腹減ったよー……でもついてっちゃ駄目だよー……早くお家帰りたいよー、早くねんねしたいよー! わぁぁーん!」
遂にはしくしく泣きだしてしまった。
これには鬼もほとほと困ってしまった。夜の人寂しい森の中でぴゃんぴゃん泣いてる子どもとその子を連れ出そうとする髭親父。こんなの傍から見ればどう考えたって誘拐直前である。
どうしよう。
「じゃ、じゃあ俺がダッシュでコンビニ行って買ってくるからちょっと待っとけ」
「えええーっ! やだやだ置いてかないでー!!」
「じゃあ一緒に来るのか?」
「え……でも、知らない人に付いてったらだめって先生が……」
「うんんんんんんー!」
頭を抱えた! 鬼ですけれども分身は出来ませんから!
や!? 本当はね!? 本当はできるんだけどね!? 違うんです、理想の形ではないんです!!
あああもう、何で話しかけてしまったんだろう! こんな事になるんなら無視してさっさと帰っておけば良かった!
……でもそうしたらそうしたで後悔しちまいそうだなぁ。
「ずっとそばにいてー、いっしょにいてー!」
「そ、そうは言ってもなぁ、俺にも小さな女の子が!」
「お腹減ったよー! お家に帰りたいよー!」
「家出なら自分の足でお家に帰りゃあ良いじゃねぇかよ!」
「お家どこか分かんなくなっちゃったんだもんー!」
「やっぱ迷子なんじゃねぇか!」
「ちがうもん! まいごはチビがすることなんだもん!」
「あああああー! もう分かったよ!」
ここで突然大きな声を出されて肩を震わせた男の子。
「警察のとこまで送り届けてやるから付いてこい!! ……一応言っておくが唐揚げはただのついでだからな。ついで! 分かったか坊主! それで決定!」
しかしそう言ったらぱっとお花でも咲いたような笑顔になりやがった。
単純な奴だ。
自然に頬が緩んだ。
「やったー! だっこ、だっこ! おんぶ、おんぶ!」
「どっちが良いんだよ」
「だっこしてほしい!」
「だっこ?」
「あ。じゃなくってやっぱおんぶ!」
「どっちなんだよ!」
「だっこは危ないからおんぶ」
「危ない? 何で危ない?」
「腰砕けちゃうの」
「ふーん……」
ここで一頻り考える。
「……じゃあだっこだな」
「ほぇ? ど、どして――おわっ」
「ごめん。今俺がだっこの気分」
「ほ、ほぇぇ」
男の子の口から変な声が漏れ出る。照れてるような恥ずかしがるような。それにまた頬がほろっと緩んだ。
良いんだ、それで。
「ど、どうやったらいいの? 重くない? 痛くない? 腰砕けてない?」
「うるせぇなぁ。あんまり体ガチガチにされると持ち上げにくいんだけど」
「え、え、え。ご、ごめんなさい。すぐ降りる」
「そうじゃなくて。変な遠慮はもうしなくて良いから。ソファにごろんってするみたいにさ、俺に全体重預けてくれ。その方が楽」
「え、えと……こ、こう?」
「そう。力を抜いて。手は首に回すか自分の体の前にしまうかする」
「こう?」
「そう。分かってるじゃないか」
「本当? ふふふ、えへへへ。だっこなんて初めて」
「へー。そりゃ良かったじゃないか」
もじもじしながらも肩の辺りに頬をすり寄せる男の子の温かさを感じながら森を出た。近くに知り合いが店員をやっているコンビニがあった筈。
* * *
「あざっしたー」
「わぁ! 良い匂い!」
「ありがとう! おじさん!」
「どういたしまして」
車が一台も止まっていないコンビニ前で揚げたての唐揚げを二人でもぐもぐ頬張る。蛍光管に虫が当たる音がカツカツ鳴っている。
「寒くないか」
「ずずっ。平気だよ」
「……もっと近く来い。鼻かんでやるから」
ちーん!
「へへ。ありがとう」
「どういたしまして」
自分に寄りかかりながら不器用に肉汁垂れ流している横顔をじっと見つめる。時折口の周りや手も拭いてやった。
「なぁ坊主ー」
「んぐんぐ。なぁに?」
「聞き辛い事聞いて良いか?」
「んむ?」
「何で家出なんかしたんだ?」
そこでもぐもぐしていた彼がぴたっと止まる。その後、分かりやすく落ち込んだ。
暫く待つ。ブラックコーヒーをちょっと啜ってふぅと白い息。男の子はあたたかいコーンポタージュをちびちび飲んだ。
「……この前参観日があってね? 他のお家はママやパパが来てたの」
すぅっと目を見開いた。鷲の瞳がきょろりと泣きそうな彼の顔を見る。
「俺んちは爺ちゃんと婆ちゃんが来たんだ」
「……」
「俺は全然そういうの気にしてなかったんだけどね……りっくんが言ったの」
『何でお前んち、パパもママも来ねーの?』
『何で爺ちゃん婆ちゃんなの? 爺ちゃん婆ちゃんはな、ケイロウの日にしか来ちゃだめなんだよ!』
『何? もしかしてリコンしたの?』
『えー、かわいそ』
「何か。恥ずかしくなっちゃったの」
「……」
「だから俺、今日たまたま来てたパパについひどいこと言っちゃった。そしたら爺ちゃんからめちゃめちゃ怒られたの」
「……」
「パパは一年に一度しか戻ってこれないのにー! って。なんてひどいこと言うんだー! って」
「……」
「急に悲しくなって。思わずここまで逃げてきちゃったの」
「で、迷子か」
気まずそうに小さくこく、と頷く。
「おじさん。俺、悪い子?」
「何とも言えないな」
「……やっぱ俺、悪い子なのかな」
「そうとも言ってないさ」
またコーヒーをちびり。男の子はくすんくすん、とまた泣き始めていた。
「ね、おじさん」
「何で皆にはママがいて俺にはいないの? 何でパパは一年に一回しか帰ってこないの? 何で参観日の日に来てくれないの?」
……正直、そんなことを俺に聞かれても。そう思わずにはいられなかった。
所謂返答に困る質問、家庭の事情とかいうやつだ。
でも……でも。
そんな弱々しい姿を見ても不思議と突き放す気にはなれなかった。
寧ろ――
「おいで」
腕を優しく引いて膝に乗せてやる。
ぎゅっと抱き締め、ちょっと強張る
「大丈夫、大丈夫。俺がいるから怖くない。大丈夫の魔法かけたからもう何も怖くない」
「……」
「だからちょっとお話しようか」
こくんと頷いてくれた男の子に笑顔を見せれば彼も返してくれる。
「俺な、パパやママがどうしてお前のそばにいないのかとか、どうしてそれを爺ちゃん婆ちゃんが教えてくれないのかとか。そういう事情は何にも分からない」
「……」
「でも、今お前が胸に抱えてるそのモヤモヤの正体はちょっと分かるかも」
「そうなの?」
「おうとも。そしてそれは今お前が気にしてるとことは全く違うとこにある」
「ちがうとこ……」
「よし、一緒に見つけてみよう。だからまずは最初から順番に考えてみよっか」
またこっくんと頷いた。
「今回お前が悲しくなったのはママのせいでもパパのせいでも、ましてや爺ちゃん婆ちゃんのせいでもなかった。りっくんがお前にヘンなこと言ったから。ここまでは良いかい?」
「……ん」
「りっくん、ちょっと意地悪だったかも。俺も聞いててカチンときたし」
「……だよね!?」
「うん。でもお前がパパに同じようなことしてお前まで意地悪になるこたないさ。そこは分かるな?」
「うん」
「でも羨ましかったし、もっと構って欲しかったし。パパや爺ちゃん婆ちゃんにその気持ちは伝えたかったよな」
「うん」
「とゆーことは今回自分の気持ちがモヤモヤしちゃった原因っていうのは、自分の伝えたいこと上手く伝えられなかったが為に怒られちゃって嫌な気持ちになっちまったからってことになる。どーだ?」
「……そーなのかも」
「うむうむ。そしたらさ、帰ってから皆にあったことをありのまま伝えてこうして欲しいって改めて言ってみるのはどうかな。もちろん、爺ちゃん婆ちゃん・パパだけじゃなくってりっくんに対しても」
「……でも怒られちゃうかもしれないよ?」
「そりゃー意地悪言った上に勝手に夜遅くまで出かけちゃったからなー」
「げんこつとかもあるかも」
「怖い?」
「ん……」
「はは、そうだよな! 俺だったらコラァ! とか若しかしたら言っちゃうかも」
「ひぃ!」
思わず頭を抱えて下を向いた男の子。その顎にそっと手を添え、持ち上げながら頬に手を滑らせた。
「でも、さっき言ったろ? 俺がいれば怖くないってさ」
「……ほんと?」
「ああ! なんせ大丈夫の魔法かけてやったんだからな!」
「ま、ほう?」
自分と彼の視線が真っ直ぐ交わる。
何も知らない無垢の瞳の男の子は目を潤ませながら首をかたんと傾げた。
「……良い事教えてやろう」
わざと声量を下げて内緒話。
「これ、りっくんも知らない内緒の話だけど……それって愛してくれてる証拠だって知ってたか?」
「あ、い?」
「だーいすきってこと」
「……ほんとかなぁ。爺ちゃんはきっと俺が嫌いになったから怒ったんだよ?」
「よくよく考えてみろ。だって、『怒らない』ってことは『無視されてるから気付かれない』ってことなのかもしれないぞ? 大事にしてくれないなんて、参観日に見に来てくれないよりよっぽど寂しいぜ」
「……」
「君には優しく強い子でいて欲しいから爺ちゃんは悪いことに対して叱ったんだ」
「そうなの?」
「そ。それ以上でもそれ以下でもないのさ」
「……」
「それに嫌いだったら、俺なら無視するか意地悪してぽかぽか叩いたりするかも。でも爺ちゃんはそれはめ、だよ! ってちゃんと怒ってくれたんだよな?」
「……うん」
「そしたらお前が大好きだー! だからそれはしちゃだめなんだー! って叫んだも同然じゃねぇか」
「……そっか。そーなのか」
「おうともさ! ……物凄い秘密だから、爺ちゃん達には内緒だけどな」
「うん!」
そう言って手で口元を押さえる彼。自分がお育てしている姫はこうやっても三分後には必ず相棒にばらす。……彼はどこまで黙っていられるかな。彼の言う祖父がこんなとんちみたいな話に寛容な人なら良いのだが。
「ね、おじさん」
「ん?」
「俺、ごめんなさいしてみる! それで、それでね?」
「うん」
「気持ち、も、伝えてみるよ!」
「ああ、それが良い!」
「……でもまだちょっと怖いから一緒にいて?」
「うーん。見守るぐらいなら良いかもだけど……見ず知らずの俺が突然隣にでん! ていたらそれこそ爺ちゃん達びっくりしちゃうかもなぁ」
「そう?」
「じゃあ……分かった。俺は例えば庭の木とかの影に隠れたりして応援しておいてやる! もちろん、大げさには出来ないから心の中でになっちゃうけど」
「じゃあお家に来てくれる!?」
「こんな方法でも良いのなら」
「いーよ、いーよ! そしたら俺んち案内するね!」
こっそりだっちゅーてんのに。これだから子どもは大好きだ。滅茶苦茶で。
「じゃーねー、ごめんなさいの言葉考える」
「お、頑張れー」
「おじさんも手伝って」
「はいはい」
そうして言うべきを二人で考え、練習もしたところで遂に少年の限界が来たらしい。彼の腕の中でうとうとし始めた。仔犬みたいに温かな頭が小さくて可愛らしい。ジャケットをかけ直して自分はゆっくり立ち上がった。
「家まで送って行ってやるよ。お名前教えてくれるかい」
「かじゅ、き……」
「苗字は」
「やま、くさ」
目を、見開く。
* * *
そこでまどろみの中から目覚めた。
風呂の中で冷たくなっていた自分の体を摩る。
忘れていた筈の記憶を久々に見た。きっと彼も忘れている筈のなんでもない思い出、しかしその名を聞いた途端全ての意味がひっくり返ってしまった自分にとっての「忌み名」。
すっかり安心しきって自分に体を預けるあの忌々しい家の血をひく彼を、寝ているのをいいことにそのまま黄泉まで連れ去っても良かったかもしれない。――これであの家は絶えるのだから。
でもできなかった。
……どこかであの「可能性」を期待していたから。その「可能性」を拭い去ることは出来なかったから。
「叶歌」
広い浴室に呟いたその名はよく響いた。
嗚呼、君の甘い香りとその柔らかな腰を思い出すよ。笑顔の素敵なハキハキとした女性だった。
……。
もしも本当に誰かが言うように彼が君の子であるのなら。彼を傷つけてしまえば君が悲しむんだろう。
だからこそ瞼の裏に浮かんでくる怯えた様子の彼。
傷だらけで、肩に刀傷を受けてしまった彼。
自分の顔を見てびくりと体を震わせる恐怖に慄く顔。
やったのは自分だ。その時意識が無かったとはいえ、その支配に溺れたのは自分だ。言い逃れをすることも言い訳をすることも絶対に許されない永劫の罪。
……死神の正装とされる「仮面」に支配魔術がかかっていることに気付いたのは大分経ってからだった。
だがその時にはもう遅い。吾々戦闘一族は何者かの手によって操られる堕した一族と化していた。――余りに巧妙、かつ、自分には昔からそういう傾向があったために。気付くべきは己であったと、重苦しい責任を感じる。
抵抗するかのように大事な席以外では蛇に仮面を付けさせなかったのが不幸中の幸いか。でなければあの小さき姫への特別な感情すら、今頃は絶えていたかも分からないのだ。
……あの仮面にそれを仕組んだのはきっと、最後に魔術師を助けたあの協力者でほぼ間違いない。
コツ。コツ。コツ。
『ふふ。怖い顔をしてらっしゃる』
ふとブーツが石の床の上を歩いてくる音がしてそちらを見た。
垂れた黒い三つ編みが背中で揺れ、人形の相貌、天使の容貌が美しく笑う。
……ベゼッセンハイト。
「人の湯浴みを覗きに来たのか」
『私達、おともだちだもの』
眉間に皺を寄せる。コイツのパーソナルスペースというものは狭すぎるとかそういう次元ではない。
マイナスをぶっちぎって最早ブラックホールだ。
『また、あの少女のことを思い出していたのですか?』
「……」
『それとも……傷つけたあの少年』
風呂の縁に頭を乗せた彼の結った髪をほどき、手櫛で梳く。頭頂部に口先がじっくりと押し当てられた瞬間、ぞわりと寒気がして爆発的に手刀を彼の腹めがけて放った――が、当たらない。
……。
声がどうりでおかしいと思った。
当たる訳が無い。また幻影だ。
自分の心身が弄ばれている。
相対した彼の滑らかな手が鬼の右頬を撫で、湯気でぺたりと張り付いた長い前髪を掻き上げた。古い刀傷が十字に交差した白濁の右目。
『美しい白』
頬に紅梅を咲かせてうっとりと見つめる黒い蛇の瞳。
『少女を一途に想う余りに何も経験できない純白な白』
『……私色に染め上げたい』
湯が跳ねた。
男が暴れたために湯船から追い出された湯が波の満ち引きのように進退を繰り返す。首を掴む白い手がほどけない、息が出来ない、息が出来ない、息が――!
「ガハ――ッ! グ!!」
ゴボゴボ!!
そのまま何度も浮き沈みを繰り返し気も遠くなった頃、鯉が如くの大きく開いた口にピンクのナマコのようなものが入り込み、空気の代わりに大量の汚濁が突っ込まれた。最後の力を振り絞って藻掻き抵抗してみたけれど、石の床に頭を強く打ち付けてからはもう何もできなかった。
湯船に侵入してきた彼の濡れて張り付いた服が裸に擦れて気持ち悪い。
ああ、大蛇が馬の体に巻き付いて骨を折って喰らい尽くすようだ。
ああ、情けない。
情けない、情けない、情けない。
……。
――ある時、右目に傷を受けた。
殆ど見えないその目に涙を滲ませながらふと考える。
余りの衝撃に柔な臓器は転瞬ぶっ潰れたが、その時はまだ食人鬼だったのが幸いし凄まじい生命力で目玉は復活した。
だが後天的なオッドアイと視力の低下だけはどうも免れることができず、鷲の面影をすっかり失った白濁の瞳がそこに残ったのだった。
……叶歌、許してくれ。自分はこの傷を直視出来ないままに日々を過ごしてきた。
自分が君を守れなかった痕跡、君が苦しんでいる間だらだらと家の前で待機していた愚かな男が受けた罰だ。
この禍根を塗り潰せるだけの強さを手に入れる必要がある気がして、自分は何百という時間を全て修行にぶっこんだ。
それでも力は満足に得られず落胆した自分の肩に手を置いたのがこの黒魔術師だ。絶望の淵で溺れていた自分は死ぬまい死ぬまいと必死に藻掻いてはその手を取った。そうして絶大な力を頂き、今では戦闘一族トップに君臨するまでとなる。
『少女を助けたいの?』
しかしそれは本当に自分がしたかったことだったか。
『なら力を得なければ』
それは本当に君を助けられるのか。
『元凶となった山草の血を絶やすんだ』
それは本当に君のためなのか。
『私と友達になろう、狭化西』
そうすれば本当に火の消えた蝋燭にもう一度灯りをともせるのか。
もう一度、もう一度。
もう一度……。
君の笑顔が見たかった、ただそれだけなんだ。
……。
* * *
「斧繡鬼、斧繡鬼!」
「シュウ、シュウ!」
光の溢れる世界にぼやけた頭が二つ揺れる。
「シュウー!! 起きてよー!! 死なないでよー!!」
「姫様がこう仰ってるだろうが、早く起きろやこの泥酔鬼!!」
ぱかんと頭を思いっ切りはたかれたところでようやく重たい瞼は開いた。
「いってー……病人は大事に扱えや……」
「シュウゥゥー!!」
「どわっ!!」
花の香りの小さな体がぽすっと胸に飛び込んできて、やっと起き上がった体はくるんっと再びひっくり返ってしまった。
コアラみたいにちっちゃい女の子がひっついている。
「シュウー……今度こそ本当に出てっちゃったのかと思ったよ……」
「全く、これだから不摂生の酒飲み男は……」
彼らの様子から察するに全然部屋に帰らない自分を心配して風呂場まで見に来てくれたらしい。
そうして救われたのだ、きっと。
彼らの手によって。
「あのね、あのね、あのね。姫ね、怖い夢見たの! シュウがあのわるーいひとにやっつけられちゃう夢!」
「俺が?」
「それでね、怖くなってね、見に行ったらね、見に行ったらね……ううう、うわぁん!!」
――俺がいなかったから蛇に助けを求めたってことか。
何という事だ。
「よしよし、もう大丈夫。大丈夫だよ雛鳥ちゃん。今、しゃらりーんって大丈夫の魔法かけたし何より俺がいるから。な? もう怖くないよ」
「ほんと?」
「おうとも。俺はいなくならないし、誰かにやっつけられたりもしない」
「ほんとだよね!」
「ああ、もちろんだとも! 今回は酒飲んだ後に風呂入っちゃったってだけ――」
「そういうのが姫様を悲しませると言っているのです、いつもいつも!」
ズダーン! とガラスのコップをサイドテーブルに叩きつけ、水の入ったピッチャーでコップにぐわん! と勢いよく注ぐ。
シュールだなぁ。
「はい、お水です。今度酔ってるのに長風呂したら唯じゃおきませんから、しっかり自己管理しておいてくださいね……今回は姫様からの依頼でしたから特別に免除として差し上げます。ですが次はありませんから」
「……偉そうだなぁ。蛇の癖に」
「何ですって?」
「いーやいやいやいや! 何でもないです!!」
「ふん」
きっと彼らは俺を引っ張り出したあの湯に紛れた一滴の塩辛い雫には気付かなかったろう。
それでも。それでも良いさ。
自分のけじめは自分できっちり決着をつける。
もう直ぐ八月。
彼女の命日が近い。
何としてもあの末裔を、
自分の手で。
(第三話 了)
(第四話へつづく)
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