拾――お婆さんの大きなお口


 * * *


「シュウ!! 早く! こっち、こっちよ!」

「これこれ、そんなに走らなくったってお店は逃げないよ」

「わぁっ! シュウ、これは一体なあに? あ、あれも美味しそう! ねえシュウ! 早く来て!」

「あ、ちょ、待! ったくお嬢ったら……」

 そう言いながらも、つと口元に微笑を浮かべて彼女を追いかけてしまう。まんざらでもないのだ、その実。


 死神の姫は生まれて初めての「この世」に興味津々であった。


 次の作戦まで少しの時間が空いた。今は剣俠鬼が彼らを引き付けている所である。なので男自ら彼女を外に連れ出した。

 作戦が無事に終われば彼女に「この世」の甘味を一つ買ってやるという約束ではなかったか。

 その為の事前調査の時間を彼女に与えても問題は無いだろう。

 現に彼女はこんなにも大はしゃぎしている。

 目の保養だ。

 全く、愛らしい。

「これは?」

「クレープ」

「この白いふわふわは? 甘い良い匂い」

 目を閉じて鼻をふくふく動かしている。

 小動物みたいである。

「生クリームって言うんだ」

「黄色いふわふわは?」

「カスタードクリーム」

「この赤いのは?」

「いちご」

「この黄色い、薄いのは?」

「バナナ」

「凄い! 果物がいっぱいで、なんだかあんみつみたいね!」

 そう言ったかと思えば隣のケーキ屋さんが気になりだす。

「シュウ! ミルク入り饅頭というのは一体どれ?」

「シュークリームな」

「ふふふ! まるでシュウみたい名前ね!」

「俺とは違うよ、キャベツって意味だ。……聞いてるか?」

 その直ぐ後はまた違う所へ駆けだした。

 その背中をじっと見つめる。


 ずっと見ていた。


 宮の中で彼女の事をずっと、ずっと。

「箱入り娘」。その熟語がよくよく似合う小さき乙女の笑顔が彼は好きだった。――否、今までに限らず、今も、これからも。

 笑顔も声も挙動も小さな手も大きな瞳も。

 全てが愛らしい。

 だからつい、誰もかれもが甘やかしてしまう。

 それでいつも剣俠鬼に変な目で見られてしまうのだ。

「全く。困ったさんだよ」

 でもそれが男の幸福となり得る。


 暫くして歩き出した先。

 彼女はふと一軒の店のショウウィンドウに張り付いたままそこにじっと固まっていた。

 男が近付いてくるのをずっと待っている様子である。

 そしてちらちらとこちらを見てくる。

「お嬢」

「けーき……」

「ケーキがどうした?」

 そう問われると彼女は一生懸命身振り手振りを駆使してケーキの素晴らしさを必死に伝えようとしてくる。

「けーきってね! 美味しそうなの! ほら見て、ふわふわのくりーむでしょ? あと……ほら! 四角いおまんじゅう!」

「スポンジ」

「すぽ、んじ?」

「ふわふわ。お嬢のほっぺたよりくにゅくにゅ」

「んふふふ」

 ほっぺたを揉んでやると嬉しそうに体をくねらせ、喉の奥から笑う。

「で? ケーキが? どうした?」

「あ、でね! でね! その、あの、ね? あの、あの……その……」

「ん?」

「あ、おい、しそうだね?」

「そうだな。で?」

「ふわふわだよ」

「うんうん」

「あ。あ……」

 聞けば聞く程どんどん焦る。

 顔が赤くなり、もじもじしだす。

 この後の行動はもう決まり切っている。

 恥ずかしがりながら顔を手で覆いながら

「食べたいなって、思って……」

と小さく言うのだ。

「ふふ、よく言えました」

 それを彼は待っていた。何て愛らしい。

 言いながら彼はその小さな頭をすりすり撫でた。

「買ってくれる、の?」

「キョウには内緒な。約束できるか?」

 キザったらしくウインクしてみせた彼に顔をぱあっと輝かせて彼女は大きく縦に首をぶんぶん振った。

「うし! 実はな、向こうの方にとってもとっても美味しくて可愛いくまさんケーキを売ってる店を見つけたんだ」

「くまさん? え、どんな形?」

「こう、まん丸で」

 路地に小石で傷を付けてケーキの形を書いていく。

「うん」

「まん丸お目目がここにふたーつ」

「まあ」

「甘いチョコレートのお耳がここで」

「お口は?」

「こんな感じ」

「可愛い!」

「キョウには絶対に言わないって約束できるか」

「言わない!」

 こちらを見ていない。もうくまさんケーキに夢中である。

 これは後々自由になった彼に報告をするだろう、そしてまた彼だけが怒られるのである。

 それでも、良い。

 それが好きなのである。

「ほんとにー?」

 わざと意地悪い声で彼女の反応を乞う。

「ほんと! ほんと!」

「ふふ……じゃあ約束な。そら、おいで。近道を行こう」


 そのまま彼らは路地裏の奥へと消えていく。


 ――、――。


「まだー?」

「まだまだ」

「何だかご本で読んだ冒険みたいね。暗い所を進むの!」

「何だっけ。ロビンソン・クルーソーだっけ」

「それは海よ」


 ――、――。


「まだ……?」

「そんなに近くにあったらツマンナイだろ?」

「うん……」


 ――、――。


 そうして暫く経った。彼女の心は段々不安で満たされていった。

「この世」でなくとも彼女は「あの世」位ならこのように斧繡鬼とお忍びで出掛けた事はある。

 それも数回ではない。何度も何度も宮を抜け出して二人で剣俠鬼に怒られた。

 しかしどの時であっても決してこんなに暗い道は通らなかった。

 初めての経験に最初こそはわくわくしていたが余りにおかしい。

 もうそろそろ日も沈みそうである。


 死神の姫はふとその歩みを自ら止めて男に訊ねた。


「シュウ……? どうしたの……」

「どうしたって、何が」

 こちらにちらと首を曲げて小さく言った。

 豊かな茶髪に隠れてその顔はよく見えなかった。

「もう真っ暗だよ。そろそろキョウが帰って来る頃だわ」

「……」

「流石にもう遅いよ。早く帰らないと――」

「そんなに気にすることは無いよ。ケーキ屋まであと少しだ。ここを抜けたら直ぐそこだよ」

「で、でも。流石に時間が……」

 慌ててそう言った時からからと笑われた。

「どうして。初めての『この世』じゃないか。もっと楽しまないと。それに、そんなに心配しなくても良いよ。その為の俺だろ?」

「でっでも、何だか不安で」

「何で? 俺が付いてるじゃないか。いつでもを見ていた……だから今回も大丈夫」

「あな、た……?」

 些細な口調の変化に嫌な予感を感じ取った。

 思わず自分の手首を握るその力強い手を払いのけ、二、三歩後ろに下がった。

 払いのけられた本人は瞬間不思議そうな顔をして自身の手を一瞥し

「どうした?」

と首を傾げた。

「なあ、美味しい物食べたいだろ? そこに行くだけじゃないか。そこに何の問題がある?」

「……」

「何だ、どうしたんだよ? らしくないな」

 口には上手く出せない不安が彼女の心を染め上げていく。

 彼が一歩踏み出す度彼女は一歩下がった。

 何だろうか、何だろうか。

 いつもの斧繡鬼と違う気がしてならない。

「お嬢だって、美味しい物いっぱい食べたいんだろう? お菓子にケーキにシュークリーム。お団子だって、何なら綺麗なドレスも何でも買ってあげる。だからほら、戻って来てよ」

「う、ううん。私、大丈夫。だから早くキョウの所に行こう?」

「何が欲しい? お嬢は何が食べたい? そら。おじさんに言ってごらん」

「大丈夫、本当に大丈夫! 何もいらないから。お願い……戻ろう?」

「そんな、つまらないじゃないか。大丈夫、本当に直ぐそこだから、ね? ほら」

 わざわざ目線を合わせてこちらにその大きな手を差し出してきた。

 そのいつも通りの柔らかい微笑と周囲がミスマッチである。


「おいで」


 風が一迅吹く。

 存在感を増してきた大きな三日月が二人を照らし出した。

 後引く後光のような夕陽が山の奥へとその身を隠してゆく。

 涼しくなってきた薄暗さに、彼の顔が青白く照らされていく。


 その直後、アメジストの瞳に吸い込まれるように飛び込んできたのは黒い、黒い


「……! 誰かっ――わっ!!」

 目の前の人物の異変に気が付いて直ぐに駆けだそうとした姫の腕が強く掴まれ、そのままの勢いで近くの建物のレンガの壁に体ごと衝突する。

 後頭部を強く打ち付けてしまった。

 頭が、ぐらぐらする……!

「いや、助けて! シュウ!! キョウ!! 来て、来て! 来て!!」

 そこまで叫んだ時、口が強引に塞がれる。

「しー」と歯の間から空気を漏らし、こうべを振りながら男はにやけた微笑を口元に含ませた。

 覆い被さるように彼女に迫る男の肩からがすろりと垂れさがる。

「良い子」

 恐怖で何も喋れなくなったのを確認してから男は彼女の体をじろじろ眺め始めた。口を塞ぐ必要がなくなった手も好き勝手に行動し始める。

 きょろきょろ動く黒い蛇の瞳に、呼応して揺れる黒毛の三つ編み。

 どこかで聞いた事があった、どこかで聞いた事があった。

 どこだったかしら、どこだったかしら。

 必死で目の前のどろりとした恐怖に耐える。ただ自分の体を抱きしめて、守るしか出来ない姫は余りに無力だった。

 逆光でよく見えないその顔で、口が空の三日月の様に裂けていく。


『姫様。良いですか、お忘れなさいますな。グリム童話の「オオカミと七匹の子ヤギ」や「赤ずきん」といった狼が出て来る類話をどうか念頭に置いておいて下さいまし』


『悪いオオカミがか弱い存在を食べる時、必ず身内に変装して姫様に近付こうとするでしょう。黒い蛇の瞳や黒毛の三つ編みは昨今報告されている悪い奴の特徴とされております』


『こんなご時世にお外に出したくは無いのですが……黄泉様のご意志ですので致し方ありませぬ』


『どうか姫様は我々から絶対に離れませぬよう、そしてよくよく注意をして下さいまし』


 ――悪い、オオカミ。

 ――食べられちゃう……!


 鼓動がどんどん速くなり、過呼吸に陥る。

 耐えがたい悪寒が体の内側から、恐怖が地面から這ってくる。

 体をなぞるように滑らせる目の前の男の手が兎に角気持ち悪かった。

「愛らしい、愛らしくって可愛くってしょうがないんです、お姫様。その震える体も、揺れる瞳も小さな手も、何もかも愛しています。……貴女様をずっと見ていました」

 私は貴方の事なんか知らない。

「貴女様が私には必要なんです」

 頬を愛し気に撫でてくる。

 止めて欲しい!

「愛を下さいな、お姫様。私は貴女様の愛が欲しい」

 何をしてくるの、何をされるの。

 食べられるの? 殺されるの?

 もしかして、連れて行かれちゃうの?

 涙が一筋、垂れて男の手に落ちた。

「こんなに蒼ざめて……美しい、恐怖の色だ。白雪姫の肌もこれ位白かったことでしょう」

 彼の手が背中に回された。

 思いがけない男の行動に肝が冷えた。

「や、止めて……!」

「だからあのお姫様は愛された。弱々しく、一人では何もできない愛らしさの権化」

 どんどんその身を近付けてくる。

「貴女様もその一人。無償の愛をその身に宿す、女神様」

 吐息が耳に囁かれる。

 胸に手を置いて必死に抵抗した。

「正にヴィルヘルムが愛した女性像、私はそんな貴女が欲しいのです」

 角に追い詰められる。

 彼の香りが鼻腔に満ちた。


「お姫様、私と一緒に来て下さい」


「そして、私とキスして下さい」


 * * *


 月光がもかもかと照る。

 部屋が青白く、光る。

 二階の和樹の自室。剣俠鬼に逃げられた俺らは着替えも何もせずにただ呆然と、色々を反芻していた。


「不可思議な青い血」

「茶髪に髭」

「䘀螽と斧繡。そして最高幹部の死神の名前」

「巨大な戦斧」

「サングラス」

「異空間への出入り」

「……」

「向き合う時が、来た。準備は良い、和樹」

「……」

 何でだか答えられなかった。

 答える勇気を持っていなかったんだと思う。

 涼やかな風がふわりとそよいで部屋のカーテンを揺らす。

 大きくはためいたと思えば小さく揺れて、微かに止まる。

 日の光に照らされると中を見えなくするレースカーテンは俺の心まで隠してはくれない。

「和樹」

 黒耀が再度聞いてくる。

「大丈夫だよ、俺は大丈夫」

「……、……和樹」

「……」

「君を抱きしめられるのは何もこおろぎだけじゃないからね」

「……ありがと」

 この返答は模範解答だっただろうか。

 ちょっとよく分かんなかった。


「先ずは、彼のサングラス」

「いきなりとんでもない着眼点だな」

「当たり前。茶髪に髭だとか、巨大な戦斧だとか目立つ共通点は沢山あるけれど、それは逆に確証性が低いので今回はパス。多分他の大事な部分を隠すための目くらましだと思う」

「まあ、それ言いだしたら前回の怜とかも引き合いに出さなくちゃならなくなるもんな」

「それに戦闘に特化した妖は死神だけじゃないからね。今回特に語らなければならないのは不審点、及びそこから弾き出される真意だ。彼らにしかない特徴をピックアップしなければならない」

「ナルホド? それでサングラスか」

「どんな時もずっと着けっ放しだったから。――それこそ、朝も夜も異空間でも」

 蒲団に入った時のこおろぎさんをふと思い返した。

 月が今夜みたいに白く輝いていたとはいえ、それでも暗いものは暗い。

 そこでも彼は構わずサングラスをかけていた。

 出会った時も、異空間の真っ暗闇にぶち込まれた時も、まるでそれが体の一部であるように外すことはしなかった。


「そんな暗闇でサングラスなんて、すると思う?」


 黒耀の細い食指がこめかみをとんと叩いた。

「サングラスっていうのは日光とか雪の反射から目を守る為にかけるものだ。暗い所でかければ逆効果。夜の闇で上手く動けずに自身の体を害する可能性も出てくる。――仲間も勿論例外じゃない」

「無くても普通に過ごすことが出来る色眼鏡を夜闇でわざわざ付ければ……そうだな、確かにおかしい」

「それに相手は夜闇の中でも瞬間的に移動できる神速の持ち主だ。サングラスをかけない方が圧倒的に有効であるはず」

「ふうむ……」

「じゃあそれをどうしてしなければならなかったか」


「簡単。死神の特徴の一つであるを隠したかったからだ」


 突然核心に触れ、一同の息を呑む音がやたら大きく聞こえた。

「大輝にも指摘され、僕らにも注目されている。その特徴を茶髪と髭とセットで隠さずに出してしまえば仲間として振舞う事は至難を極める」

「ただでさえ茶髪に髭、で注目されちゃってるもんな」

「うん。でも、その色眼鏡による不都合を感じさせない戦闘能力、センス。……戦闘一族と謂われる彼ららしいとは思わないか」

「そうか? それは少し言い過ぎなような気もするが……」

「確かに、これだけ取り出せば少し不審に感じるけれど……相棒との戦闘と考えれば?」

「……ナルホド?」

「彼との戦闘における余りに自然なその動作。まるで彼の次の行動を分かり切っているようだった。だからサングラスが気にならなかった、こうやって取り上げるまで」

「それかこういうのは?」

「どうぞ?」

「サングラスは唯の瞳の色を隠す為の自分の術であるというの。術だから、気にならなかった」

「勿論あり得るだろう。そしてどちらにせよ、それは死神である証拠になり得る」

「うむ、ナルホド。得心がいった」

 月が雲に隠れ、僅かな光も、もやりと隠れた。

 部屋の中にこってり張り付く影が更に濃くなる。

「ただそうすると逆におかしな点が出てくる」

「何だ?」

「戦い方」

「戦い方?」

 とくんと心臓が波打つ。

「どういう事?」

「気になる? 和樹」

「ん……だ、だって、命懸けて俺らを守ってくれたのに――」

「だからだよ。全く、上手なもんだ」

「え……?」

 どういう事?

「命を懸けて二度もか弱い存在を守った。それだけ聞けばとても素敵に聞こえるけれど、一方ではとても無謀な事でもある」

「……?」

「分かるかな。血で戦うって事は同時にその量を調節しながら戦わなければならないって事の現れでもあるんだよ。人間の血液の量は体重の13分の1と言われている。その13分の1の内、3分の1でも失えば体に大きな負担がかかる。そして2分の1が失われるとその先にあるのは臨終だ」

「ふむ……?」

「……その顔はよく分かっていないな?」

「すまん、妖には余り関係のない話だからさ」

「まあ、そうだよね。えっと、よく出される例はね……ううむ、例えば、65キロの人間がここに居るとする」

「ふむ」

「それの13分の1とは即ち5キロ。ここまでは良い?」

「うん」

「その3分の1は約1.7キロ、そして2分の1は2.5キロ。即ち理科の授業で使ったあの1リットル計量カップ二つ分で人は簡単に重篤な状態になってしまうという事だ。人間は思ったよりも随分脆いんだよ」

「でも……そんなに一度に失血するのは流石に難しいんじゃない? こおろぎさんがあの時そんなに出血してたかも分からないし……」

「確かにそれは分からないだろう。それに失った水分量は直ぐに回復する事も出来る」

「それじゃあ――」

「でも二つの事が」

「……何だ?」

「先ず一つ、血液の水分量だけを回復させるっていうのなら簡単だけど、その成分までを十分に回復させるのには時間がかかるって事。サテ、どれ位かかると思う?」

「知るか」

「言うと思った。正解は――個人差や、その成分差はあるけれど――全て回復するまでには一番かかるもので二、三週間かかる。献血400cc程度での場合を指すけどね」

「んなっ!? おい、結構かかるな!」

「因みに日本赤十字社が正式に発表しています」

「よく調べたな……」

「やる時は徹底的にやらないと」

 そう言いながら少し申し訳なさそうに瞳を曇らせ、こちらを見た。

 このもやくやを、疑念を、完璧に晴らそうとしてるんだ、多分。

 俺の為に。

 多分。

「で、本題に入るけど……死神が設けた期限は五日。そして成分が完全回復するまでに必要な期間は二、三週間程度。これは即ち、もし一回目の戦闘で出血量が3分の1とかに達しなかったとしても、二回目の戦闘でその危険に晒される可能性はその分だけ高くなっていたって事」

「……」

「更に言えば長良家の一員ならば連戦が起こる場合も考えて行動するように躾けられていた筈だ、じゃないと命に関わるから。――和樹は覚えてる? 金花の一件での長良岳さんの戦い方」

「……うん」

「彼は親指の頭をほんの少し噛みちぎり、そしてそれだけで戦闘の全てをまかなおうとしていた。それは長良家の一員として生まれた限り付き合わなければいけない『失血死』の問題を十分わきまえていたからだ」

「……」

「なのに彼の戦闘にはその色は見られなかった。兎に角出来るだけ出血量を多くして、派手に戦ってみせた。何故か」

 拳を握りしめる。胸が既にいっぱいだった。


標的ターゲットである和樹から不信感を排除し、身内として親しく接し、さも味方であるかのように取り入って、自分に対して盲目的にさせる為だ。和樹に恩を被せる為だ」


 瞬間頭にぐるぐるとこおろぎさんの色んな姿が駆け巡った。

 お酒の力で虚ろな目をしただらしない姿から始まって、血を垂らしながら懸命に戦う横顔がよぎり、腕にしがみついた時の困ったような笑顔が迫って、肩を抱いてくれたあの満面の笑みが背中によっかかってきた。

 心臓の辺りをぎゅうと握りしめて、たぱたぱとその雫を畳に吸わせる。


 それも、全て計画だったって、事?

 大丈夫の魔法も、戦闘も、「英雄」の姿も。

 たった一人の一番近しい肉親の姿も。

 全部「運命の書」に書かれていた事の真似事だったって事?


「自分を疑う事が一番の悪のように見せかけて、和樹に問題なく近付き、隙を見て始末する手筈だったんだろう。だから彼は『狼』になりきった」

 胸が、苦しい。

 あの温もりも、あの笑みも、白い歯も、大きな懐も、大きな掌も。

 みんな、みんな――。

「逆に『狼』だったからこそ、和樹のあのピンチにもタイミング良く駆けつける事が出来た。じゃなければ異空間の入り口がどこにあったかなんて誰が知れよう」


 こおろぎさん……こおろぎさん……。


「和樹。結論を言うよ」


「彼の正体は『グリム童話の狼さん斧繡鬼』だ」

太好了見事だ!!」


 艶やかで張りのある声が瞬間、部屋に響いた。


 ドカッ――!


「うわあっ!!」

 急に体が太い腕に抱えられ、そのままは窓まで全力疾走した。

「和樹!」

 ガシャン!

 物凄い音を立てて派手に割れた窓から直下、地面に向かって落ちていく。

「あああああ!!」

 胸の前に抱えられたまま恐怖が肝の辺りから這いあがって来る……!

 落ちてる、落ちてる今落ちてる!!


 そのまま――。


 * * *


「ぐぁ!」

 和樹を抱えて突如地面に向かって落下した男を追った座敷童の体が思いきり地面と衝突した。

 霊体だが肩と頬とがずきずき痛んだ。

「大丈夫か!」

 トッカが慎重に窓から地面に降りてきた。

 そこに和樹と奴の姿は――無い。

「おい、大丈夫か」

「何とか。でもすっかりやられた。真逆暗闇に紛れていたとは……迂闊だった」

「和樹は? 和樹はどこだ!」

「分からない! ……多分異空間に、奴のテリトリーに連れ込まれた」

 想定外の最悪な事態に二人で顔を見合わせ、蒼ざめる。

「取り敢えず策を練らなきゃ! 彼が殺されるのを黙って見てるなんて御免だよ!」

「ちょ! 落ち着け!」

 慌てて家に戻ろうとする黒耀の肩にトッカが慌てて手をかける。

「何!」

「先ずは、これだろ」


 その手にはいつかの名刺。


『ソイツが現れたらどんな状況だろうが直ぐに電話しろ』


(つづく)

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