終話――翻弄
「戦闘発生。
はらり。
頁をめくる音が薄暗い部屋に響く。
幾つもの燭台に照らされて、エメラルドグリーンの長髪が妖しい照りを見せていた。
彼の男が読んでいたのは「運命の書」。
また書の改変が起きていた。顔を無意識にしかめる。
はらり。
頁がめくられる。
その時、部屋の外の廊下から苛立ち隠せぬ足音が響いてきた。
やがて部屋に入り、間髪入れず手にしていた戦斧を直線上――背の低い机と相方目掛けて振り下ろす。
バギバギッ!!
濁音だらけの凄まじい轟音で部屋を軽く揺らしながら机とソファが真っ二つになった。
一緒に切り裂かれる予定だった男はというと――斧を振り下ろした男の背中に先程と同じく悠々と座って書を読み続けている。
「テメェ!!」
斧を振り上げ、回し、下ろしても当たらない。その直後には違う所に居る。
部屋がどんなに滅茶苦茶になろうとも彼だけは無傷であった。
歯ぎしりがくぎぎと鳴った。
再度斧を当てる――素振りを見せ、瞬間的に次に逃げるであろう壁際目掛けて斧を投げた。
男の思惑通り、相手の鼻先掠めて斧は壁に突き立った。
そこ目掛けて向かっていき、高圧的に、彼の頭の隣に拳を突き立てた。
「
「壊れた家具の代わりは貴方のお給料で買っておきますね」
どすの利いた低音を無視しながら出納帳にさらさら書き込んでいく。この見立てで考えれば今月の彼の給料は最低賃金を下回る。――まあ彼はここに相方たる剣俠鬼と住み込みで働いている訳なので余り関係は無かったが。
問題とすべきは今はそこではないのだ。
「オイ聞いてんのか、蛇」
「フフ、野郎からの壁ドンなんて一ミリも高鳴らないですねェ」
「ハァン? 俺だってお前なんざこれっぽっちも興味ねぇよ」
「貴方は女の子……の方が良いんでしょう?」
一瞬見開いた糸目の下から覗いた鷲の瞳に顔を思いっきり歪めた。
「ケッ、やっぱりわざとなのかよ」
「女の子が
気付いた時には彼はもう壊れたソファの残骸に座っている。
彼の神速は誰にも見えない。観念して脅しだけは諦める。
自分は壊れていない方にどっかり座った。一日の疲れが全て柔らかなマットレスに吸収されていく。
因みに斧は壁に突き立ったままである。破れた壁紙も彼の給料から漏れなく引かれるだろう。
悲しい話、いつもの事だった。
「テメェこの野郎、本当に血の無い野郎だな! 女の子は万物の恵み、そして宝なんだって親父さんから習わなかったのかお前は!」
そう言って机を叩こうとしたが――そこに机は無く空振る。数分前に自身の手で壊したばかりである。
「……本当に貴方は何でここに来たんですかね」
「ハァ!? 今なんか言ったか!!」
「いえ、何でも」
そう言ってまた柔らかな笑みですり抜ける。こいつにはこういう所がある。
笑みだけで何でも解決できると思っているのか。
直後はらりと別の書が開かれた。表面に「報告書」と書いてあって、反吐が出そうな気になった。
「さて。首尾の報告をお願い致します」
「
「……」
ドカッ。
頬に一筋横線が入りそこから幾筋かの蒼が垂れた。
そのすぐ横で殺意揺らめく銀の刃が突き立っている。
剣俠鬼の太刀であった。
「報告を」
笑みを崩さず何て事しやがる。事前に結末知っている癖に。
そう考えると何だか知らんが無性に腹が立ってくる。今日ばかりはその絶対的冷酷に対峙したかった。
沈黙で構えてみる。
睨み顔を穏やかな笑みがじっと見守る。
そのまま暫く経過した。
と、つと彼が思い出したように言う。
「嗚呼これはこれは失礼致しました、眼球に突き立っていなかったんですね。道理で喋り出さない訳です。良いでしょう、今度は外しま――」
「わーった! わーったから!! 降参降参!! これ以上目を潰さないでくれ!!」
当然だが先に折れたのは斧繡鬼であった。
これに一度で良いから勝ってみたい。
「それでは報告をお願い致します」
「厄介だ!! あー厄介だ!! 機械人形はもうウンザリだ!!」
打って変わって思いの内を全力で吐露しだす相方を近所の餓鬼でも見るような目で見つめる剣俠鬼。
愛とはまた逆方向の感情である。
「……今回も失敗、と。最近本当に貴方は失敗続きですね。最強の名を冠する貴方らしくない。準備も生半可なものが多いし、戦闘でも本気を出していない。あんな一貫的な攻撃方法では破られても仕方ない」
「お前も失敗してたじゃないか」
「……」
黙る。
「そっちもあったのか、シナリオブレイク」
「そちらにシナリオブレイカーが集中しているから貴方にはそっちに行って貰ったんですがね……予想以上に干渉が大きかった」
「そんな事ってあるのかよ」
「現に眼前で起こったはありませんか」
「ふむ」
そのまま考え込んだ。が、疲れた頭では浮かぶ物も浮かばない。
「まぁ、良いか。俺らは運命の書とご指示に従うまでだ」
「……」
「……」
顔を持ち上げ燭台を眺める。ふと火が細やかに揺れた。
「変わったな、死神も」
「……」
相方は何も答えない。
そこにはただ疲労だけが濃く粘りついている。
――と、きいと扉が薄く開く。
二人がサッと構えた。
「誰だ」
剣俠鬼が短く告げる。
それに応じて扉から顔を出したのはほんの小さな眠そうな少女であった。
「けんかは、駄目だよ」
「……! 姫様!」
先程とは全く違う態度で彼は彼女の元に駆けてゆく。そしてぬいぐるみでも抱くようにその体を持ち上げた。
そこに冷酷の眼差しは見られない。
「姫様、相すみませぬ。起こしてしまいましたか?」
ゆっくりとかぶりを振る。
先程の喧嘩で間違いなく起きているのだろうが眠たい頭は彼の言葉を熱心に聞いてはいなかった。
「キョウ……シュウは帰った?」
「ええ、直ぐ後ろに」
ゆっくり振り返ってにこりと笑うその
堪らなくなって斧繡鬼はその体を剣俠鬼から受け取った。
「お嬢、起こして悪かったな」
「おかえりなさいのハグ」
「良いのか? 俺、力強いぜ?」
「良いの。私はその方が好き」
「えい」
「イタタタタタタ」
「斧繡鬼、いい加減になさい」
この血の無い鬼は姫様第一の男である。
頬をぐいっと引っ張った。
「イチチチチチチ! テメェお嬢の前で何て事してんだよ!」
「聞こえません」
彼らは超縦社会の長、「黄泉様」の配下に
総大将の一人娘の用心棒、兼教育係。
彼らの人生はこの小さな姫にも捧げられていた。
「ほら、優しくしてるから、ね? ね? 剣俠鬼ちゃん……」
太刀を振り上げた鬼の前で背中をぽすぽす叩き始める涙目の鬼。
姫と剣俠鬼が一緒の空間に居ると最強の名は一気にひっくり返る。
「分かればよろしい」
「……何でこいつここに来たんだよォ」
「何ですって?」
「いえ、何でもありません」
己の待遇の悪さがこういう時ばかり身に染む。
夜も大分更けてきた。
「そら、お嬢。もう自分の寝床で寝な」
「ん……」
鬼の懐の温かさに甘えて膝の上から降りようとしない。
「懐は寒い癖に」
「おい蛇、誰が上手い事言えっつった。――じゃなくて。ほら、お嬢。アンタには立派な足が付いてるだろ? それでさっきみたいに歩くんだ」
「……」
懸命に寝たふりをしてどうにか運んでもらおうと必死だ。
「お嬢ー。俺、これから見回りがあるんだけど」
「……」
「立ち上がったら落ちちゃうぞ」
「……」
「ほぅら! 立ち上がった! ……」
まるでコアラの体である。
肩に張った息をふっと抜いた。
「すまん、剣俠鬼。今日の見回り代わって貰って良いか」
「仕方ないですねぇ……明日じゃあ代わってください」
「すまんな。――あ、それと」
「ん?」
「その肩から掛けてるコート貸してくんない? 廊下はきっと寒い」
真意を汲み取り姫の背中を覆うように彼はコートを掛けてやった。
「本当、悪いな」
「いえ。また後で取りに行きます」
「おうよ。お前も早くに切り上げてさっさと寝な」
「お気遣い痛み入ります」
そのままぺこりと一礼して彼は足早に部屋を出て行った。
これから彼は警備に当たる部下達含めこの宮周りの様子を確認しに行く。
それとは反対方向に斧繡鬼は歩いて行った。
長く広い、見慣れた廊下を歩いていくと思考ばかりが捗る。
彼の頭には自分に言い返してきた男の言葉が反芻されていた。
『数多の命の上に立ってこれまでを生きてきた以上、俺は簡単に死ぬわけにはいかないんだよ』
『死ねないんだよ!!』
何て強い、と思った。
その時にはどこかで負けを確信していた。
自分は誰が思うよりもその実弱い。――それを自分が一番知っていると思っていた。
彼は最初から志願してここに居るのではない。
圧倒的な敗北を経て、守りたかったものも失って。
その負の歴史から逃げるように何もかもを捨てて一から人生やり直すつもりで修業を重ね、ここに流れ着いた。
その後は謀略と復讐の日々だった。
姫の部屋はこじんまりとしているものの、調度品は豪華そのものだった。
きっと彼女はそれが贅を尽くしたそれであるという事を知らないに違いない。
彼女は余りにも外の世界の汚さを知らなかった。自分が経験してきた圧倒的強者も、威厳も、理不尽も、痛みも、傷も、不幸も、孤独も、罪も。
何もかもを知らない。でも今は、今だけはそれでも良いとさえ思っている。
それだけ、自分が受けた痛みは余りにも大き過ぎた。
『事実だけを鵜呑みにして今から目を逸らそうなんて絶対に思っちゃ駄目だ。お前さんの言う通りだ、人間、付き合ってみなくちゃ分からないんだよ!』
姫を寝かしつけながらふと思い出して、顔をしかめた。
――死神はこの数十年で大きく変わってしまった。
冷酷に、そして狡猾に命を奪いにやって来る最悪の存在。
一度目を付けられれば逃げられない。
そんなのはここ数十年で突然語られるようになったものだ。
少なくとも自分がここに入りたての頃はそんな事等言われず、寧ろ魂の安寧を約束する者として称えられていたはずだ。
でなければ自身がここまで上り詰めようと思おうか。
「泣いてるの?」
呆っと考え事をしていた自分の顔を横になっていた姫が不意にそっと拭いた。――彼女は自身が後々まとめ上げる事になるこの組織の変化さえ、隠されたまま、知らないのだ。
自分の父親の変化であるというのに、だ。
「何言ってんだよ、涙は心の汗だぜ。俺は次の任務に燃えているんだ」
「また格好良く魂達を助けるのね?」
闇の中、彼女の笑顔が月光に照らされてぱあっと輝く。
彼女はいつか自分を白馬の王子様が迎えに来てくれると今でも信じている。
「ああ、そうさ。そうだとも。だからお嬢は早く寝な。いってらっしゃいのハグが出来なくなっちまうぜ」
彼女の体をそっと抱き締め自身の、涙に濡れる顔を隠した。
鬼は恵まれている。
住む所にも困らず、仲間にも恵まれ、尊敬する主にも愛する姫にも出会えた。
強くなり、その名を轟かせ、今申し分のない地位にその身を預けている。
しかし、唯一つ。
鬼には「助けて」と声高に叫び、涙を落としてその身を落ち着ける安寧の場所だけが無かった。
(第二話 了)
(第三話へつづく)
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