第10節 研究という戦場
祝、幼女戦記2期!!!
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研究施設の会議室は、前線より静かだった。外に警戒兵が立ち、窓は厚いカーテンで塞がれている。机の上には図面と名簿、そして、まだ中身の薄い議事メモが一冊だけ置かれていた。
ターニャは、その薄さを嫌った。薄い紙は、後から厚くなっていく。厚くなる時に、余計な意図が混ざる。
対面の椅子に座っているのは、アーデルハイト・フォン・シューゲル博士だった。癖のある髪を指で梳き、楽しげに口角を上げている。背筋は伸びていない。だが目だけは鋭かった。
セレブリャコーフは壁際に立っていた。手帳を胸に抱え、ペン先だけを動かす準備をしている。呼吸が乱れても言葉が乱れない女だった。
ドクトルが、まだ始まっていない会議を自分のものにするように言った。
「私が欲しいのは、研究の司令塔だ。命令を出す場所だ。研究者は好き勝手にやる。軍需官庁は数字しか見ない。大学は肩書きの話をする。誰も同じ方向を向かない」
ターニャは椅子に深く座らなかった。机に肘もつかない。ここで楽をすると、相手が「長話」を許されると勘違いする。
「司令塔という言い方は便利だ。だが、便利すぎる。誰が責任を負う」
「責任なら私が負う。私が研究を動かすのだから、当然だろう?」
ターニャは首を横に振った。
「何度言えばいい、責任は言葉で負えない。署名と記録で負う。研究は成果が出るまで時間がかかる。途中で責任者が変わる。変わった瞬間に、司令塔は空になる」
ドクトルは不満そうに鼻で笑った。
「だからこそ、制度がいる。君は制度が好きだろう。私も嫌いじゃない。面倒だからこそ、他人が逃げられない」
セレブリャコーフの指が一瞬止まった。ターニャはそれを見て、内心で小さく舌打ちした。ドクトルは言葉の癖が強い。癖の強い言葉は、後でそのまま引用される。
ターニャは声を落とした。落とすことで、相手を黙らせる。
「ドクトル。研究者は親衛隊の制服を嫌う。嫌う理由は単純だ。自分が支配されると理解するからだ」
「理解が早いのは結構だ」
「結構ではない。理解が早い連中は、逃げ足も早い。研究者には逃げ道が多い。大学、学会、海外の知人。隙を見せれば、情報は外へ出る」
ドクトルが椅子にもたれ、わざとらしく腕を組んだ。
「君は恐れているのか。研究者を?」
「恐れていない。計算しているだけだ」
ターニャは机上の名簿を開き、指で線を引いた。肩書きが並ぶ。大学教授、研究所の所長、軍需官庁の担当者。いずれも癖がある。癖があるから、名が売れる。名が売れるから、扱いが難しい。
「この連中に制服を見せたら、会議が終わる前に胃が痛くなる。胃が痛くなると、協力ではなく保身に走る」
ドクトルは愉快そうに笑った。
「胃薬の出番だな」
ターニャは笑わなかった。
「胃薬では足りない。必要なのは、制服を見せずに支配する形だ」
「ほう。君がそんなことを言うとは」
「現場を動かすには、感情を刺激しない方が早い。研究者の感情は、研究の成果より手強い」
ドクトルは、机の上の紙を指で弾いた。
「では、君の案を聞こう。私は司令塔が欲しい。君は制服を見せずに支配したい。両方叶うなら、価値はある」
ターニャは待っていた。相手が「聞く」と言った瞬間に、こちらの土俵になる。
「研究評議会、軍需官庁、大学。その三つを一本の線で繋ぐな。一本にすると、切れた瞬間に終わる。外縁に調整室を置く」
「外縁?」
「国家保安本部の中ではない。隣だ。壁一枚分、距離を置く。表向きは連絡と調整の部屋だ。研究者に見せる看板は、学術と軍需の折衝機関にする」
ドクトルが眉を上げた。
「君が研究者に媚びるのか?」
「媚びない。選択肢を減らす。研究者が納得する顔を用意して、その顔の裏で条件を固定する」
ターニャは名簿の端に小さく四角を描き、その中に短い語を書いた。
情報。人事。記録。アクセス。
セレブリャコーフが視線だけでそれを追った。理解が早い。彼女がいると説明が短くなる。
「調整室の仕事は、研究内容に口を出すことではない。研究者は自分の領域に他人が入ると暴れる。だから、研究の中身は触らない。触れるのは入口と出口だけだ」
「入口と出口?」
「誰が参加するか。誰が会議に出るか。誰が資料を持ち出せるか。誰が予算を触れるか。誰が成果を上に報告できるか。そこだけを握る」
ドクトルが小さく舌を鳴らした。
「人事と情報、か。いかにも秘密警察の手口だ」
「手口だ。だから効く」
ターニャは言い切って、そこで一度止めた。止めることで、相手に反論を出させる。反論が出れば、そこを制度で潰せる。
ドクトルは反論ではなく、興味を出した。
「具体的に言え。研究評議会はどう扱う。軍需官庁はどう扱う。大学はどう扱う」
「研究評議会は形式だけ残す。議長は学者にする。学者が顔を立てると会議が回る。だが、議題は調整室が作る。議題の範囲を決めれば、議論の範囲が決まる」
ドクトルが口を挟みそうになったが、ターニャは続けた。
「軍需官庁は予算と資材だ。これは逃げない。逃げられないからだ。必要なのは記録だ。何を渡したか、いつ渡したか、誰が決裁したか。ここを一本化する。記録が一本なら、責任も一本になる」
セレブリャコーフが静かに言った。
「調整室の記録係が、受付印を持つ形ですか」
「そうだ、少尉。受付印は武器だ。押した者の責任が残る」
ドクトルが笑った。
「君は印鑑が好きだな」
「好きではない。必要だから使う」
ターニャは名簿の大学側に指を滑らせた。
「大学は、名誉が動力だ。名誉は金より扱いづらい。だから手続きで縛る。研究協力の形式を作り、参加条件を明文化する。条件を満たせば参加できる。満たさなければ参加できない。それだけだ」
「条件とは何だ」
「守秘、資料管理、移動制限、連絡の窓口固定。難しい言葉はいらない。やっていいことと、やってはいけないことを短く書く」
ドクトルは指を組み、目を細めた。
「君は研究の中身を理解していないのに、研究を動かす気か?」
ターニャは躊躇しなかった。
「理解していないから、触らない。触らない代わりに、逃げ道を塞ぐ」
セレブリャコーフが小さく息を吸った。ターニャは気づいた。言い方が少し荒い。だが、ドクトル相手に敬語は使わない。ここで柔らかくすると、相手が増長する。
ドクトルは満足そうに頷いた。
「いい。君は自分の役割を分かっている。研究者を操縦するのではなく、研究者の周囲を囲う。では、その調整室はどこに置く」
「RSHAの外縁だ。研究者が入ってきた時に、壁の中へ入った感覚を与えない場所にする。だが、出入りの記録は残る。入った者は、あとで逃げられない」
ドクトルが机を指で叩いた。
「誰が調整室を動かす。君か?」
「私が全ては動かさない。私が動かすのは枠だ。枠の中で動く担当を置く。記録係、連絡係、人事係。三つで十分だ。増やすと穴が増える」
セレブリャコーフがすぐに言った。
「人事係は、誰が任命しますか」
「任命権はRSHAが持つ。だが、表向きは軍需官庁と大学の推薦も受けた形にする。推薦という形式は、後で拒否できる余地にもなる」
ドクトルが笑いを漏らした。
「意地が悪いな」
「制度は意地が悪い方が強い」
ターニャは名簿を閉じ、次の紙を開いた。そこには地図があった。北方の海域、港、鉄道線、そして、輸送予定表の空欄。研究の話は研究室だけで終わらない。資材が動かなければ、研究は机の上で腐る。
「研究は戦場だ。戦場には補給が要る。補給が詰まると、研究は止まる。止まると、責任の押し付け合いになる」
「責任は私が負うと言った」
「言っただけでは足りない。負える形にする」
ドクトルは肩をすくめた。
「また形か」
「形だ。形がないと、最後に責任が蒸発する」
ターニャは地図の一点を指した。港湾だった。
「ここが詰まっている。北方の準備で燃料が優先される。研究側は後回しになる。後回しにされた研究は、成果が遅れる。遅れた成果は無価値扱いされる。無価値扱いされた研究者は、協力をやめる」
ドクトルは興味深そうに聞いていた。彼は研究そのものより、研究が人を動かす様子が好きだった。
「つまり、君は研究の補給も握るのか」
「握らない。握ると言うと反発される。調整室が握るのは、優先順位の記録だ。誰が何を優先したかを残す。残せば、後で嘘がつけない」
セレブリャコーフが頷きながら言った。
「優先順位の変更は、会議の議事録に残す形ですね」
「そうだ。議事録は短くていい。決まったことだけを書け。決まっていない議論を書くと、後で争いになる」
ドクトルが面白がるように言った。
「君は研究を信じていないな。成功すると思っていないのか?」
ターニャはすぐに否定しなかった。否定すると、相手が感情で押してくる。肯定すると、責任が飛んでくる。
「確定はしない。確定しないから、制度がいる。失敗した時に誰が何をしたかが分からないと、次の研究が始まらない」
「私なら、失敗を楽しめるが」
「楽しめる者は少ない」
ターニャは、ドクトルの顔を見た。笑っている。心底、戦争を娯楽の一部として扱っている顔だった。
(面白いと言えるのは、責任の外にいる者だ。責任の内側にいる者は、面白いとは言わない。言う余裕がない)
内心をそこで切り、ターニャは話を戻した。感情を長く引きずると、判断が濁る。
「仮に、研究が成功する可能性を少しだけ上げるなら、条件は二つだ。資材が早く届くこと。統制が少しだけ効くこと。だが、どちらも保証できない。だから、保証できない前提で組む」
ドクトルが頷いた。
「資材とは、例えば何だ。君の口から言え」
ターニャは一瞬だけ間を置いた。言葉を選ぶ。難しい言葉を並べると、読めない者が増える。読めない者が増えると、勝手に解釈する者が増える。
「重水の確保だ。研究者は、それが足りないと言う。足りないなら、確保する手続きが要る。誰が、どこへ、どの経路で、どれだけ動かしたか。そこを押さえる」
「君は北の話と結びつけているな」
「結びつく。北方が動けば、港も鉄道も軍も動く。その流れに乗せれば、早く届く可能性が上がる。だが、乗せすぎると反発が来る。研究者は軍の都合に乗るのを嫌う」
ドクトルは笑った。
「嫌うと言いながら、軍の金で生きている」
「矛盾は普通だ。矛盾が普通だから、制度で縛る」
セレブリャコーフが静かに手を挙げた。
「大尉。調整室の名称は、どうしますか。研究者が警戒する言葉は避ける必要があります」
ターニャは頷いた。
「名称は柔らかくする。連絡室、調整室、共同窓口。どれでもいい。重要なのは中身だ。中身は、情報と人事と記録だ」
ドクトルが口を挟む。
「君は司令塔を否定したが、結局、司令塔ではないのか。研究の入口と出口を握るなら、司令塔だ」
「司令塔ではない。指揮はしない。指揮は研究者にやらせる。調整室はルールを作り、違反を止める。役割が違う」
「違いを言い換えているだけだ」
「言い換えは重要だ。言い換え一つで、相手の反発の強さが変わる」
ドクトルは満足そうに頷いた。彼は言葉の力を信じている。信じているから危険だった。
ターニャは紙を一枚取り、簡単な枠組みを描いた。三つの箱。研究評議会、軍需官庁、大学。そこから一本ずつ線を引き、真ん中に小さな箱を置く。調整室。そこからRSHAへは細い線を一本だけ引く。太くしない。太い線は見つかる。
「これが形だ。研究者には、ここまでしか見せない。RSHAへの線は、必要な者だけが知る。知る者は名簿に残す。残せば、漏らした者が分かる」
セレブリャコーフが言った。
「名簿は二系統で保管しますか」
「そうだ。片方は調整室、片方はRSHAの記録係。欠落が出ても成立する形にする」
ドクトルが目を細めた。
「君はまだ、あの欠落を引きずっているな」
「引きずる。引きずらない者は、同じ穴に落ちる」
ドクトルは笑い、椅子から身を乗り出した。
「いい。私の司令塔は、君の調整室という形で作ろう。ただし条件がある。研究者を集める会議を、すぐに開きたい」
「すぐは無理だ」
「なぜだ」
「準備がいる。会議は準備で勝負が決まる。議題、出席者、資料、記録係、警備、移動経路。全部固定してから開く。固定しないで開くと、研究者が勝手に喋り、勝手に帰る」
ドクトルが不満そうに唇を尖らせた。
「君は慎重すぎる」
「慎重で十分だ。研究は一度漏れたら戻らない」
セレブリャコーフが小さく頷いた。
「出席者の移動経路は、二系統に分けますか」
「分ける。片方が止められても、もう片方が動く形にする。止めた者の所属は記録に残す」
ドクトルが楽しげに言った。
「君は本当に戦争が好きだな。研究の会議でさえ、戦術を組む」
「好きではない。必要だからやる」
ターニャは立ち上がった。話が伸びる前に切る。切らないと、ドクトルは勝手に夢を語り始める。
「調整室の設置案を文書にする。担当の役割を三つに限定し、任命権と解任権を明文化する。議題の作成権限と、議事録の管理権限も書く。余計な項目は入れない」
ドクトルが笑った。
「命令が上手いな。君の言葉は紙に向いている」
「紙に向いていない言葉は、現場を壊す」
セレブリャコーフが一礼した。
「大尉。文書の雛形は、私が作成しますか」
「作れ。条文の形にしろ。曖昧な形容詞を使うな。誰が読んでも同じ運用になる形に落とせ」
「承知しました」
ドクトルが椅子から立ち上がり、窓のカーテンに手を伸ばしかけ、途中でやめた。外を見ても意味がないと理解した顔だった。
「君の言う通り、制服は見せない方がいい。だが、見せない分、こちらの力は弱く見える。研究者は、弱い相手には平気で噛みつく」
ターニャは即答した。
「弱く見せる必要はない。規則を見せる。規則は強い。規則に従わないなら、参加資格を失う。それだけで十分だ」
ドクトルは肩をすくめる。
「研究者を追い出すのか」
「追い出さない。選ばせる。従うか、出ていくか。選んだ結果は記録に残る。記録が残れば、後で泣き言は言えない」
ドクトルは満足そうに笑った。
「いい。君の制度は冷たい。冷たい制度は、壊れにくい」
ターニャは笑わなかった。褒め言葉として受け取ると、余計な自尊心が生える。自尊心は判断を遅らせる。
会議室を出る廊下で、ターニャは一度だけ足を止めた。壁際にEVAが立っていた。いつからいたのか分からない。だが、いたことだけは確かだった。
EVAが短く言った。
「記録は残す」
「残せ。調整室の設置も、会議の名簿も、議題も。全部だ」
「了解」
EVAはそれだけで去った。
セレブリャコーフが小声で言った。
「大尉。研究者が本当に集まるでしょうか。警戒は強いはずです」
ターニャは歩きながら答えた。
「集める。集まらないなら、こちらが困る形を相手に作る。予算、資材、出入りの許可。どれか一つで十分だ」
「……強引です」
「強引ではない。条件だ。条件は最初に提示する。提示した上で参加するなら、後から文句は言えない」
セレブリャコーフは頷いた。
「分かりました。雛形、すぐに作成します」
ターニャは廊下の先を見た。研究は、まだ始まっていない。だが戦場はもうできていた。机と名簿と印章が揃った時点で、戦いは始まっている。
(成功は確定しない。確定しないから、余計に厄介だ。確定しないことを、誰も嫌がる。嫌がる者は、責任を押し付けたがる。押し付けを防ぐのが私の仕事だ)
ターニャは内心をそこで閉じ、歩幅を戻した。次は外の連中が噛みつく番だった。噛みつかせる準備は、もう始めている。
調整室の骨格が固まった翌日、ターニャは別の机を相手にしていた。会議室の机ではない。国防軍の参謀が使う、傷の多い机だった。天板に残った浅い切り傷は、鉛筆より先に苛立ちが突き立てられた痕だと分かる。
部屋に入った瞬間、レルゲンの機嫌は読み取れた。声を荒げてはいない。だが呼吸が浅い。左手が無意識に腹の辺りを押さえる癖が出ていた。胃の痛みは、彼の感情を隠す仮面にならない。
机の向こうに、レルゲンが座った。制服の襟元は整っている。整っているのに、目だけが荒れていた。
ターニャは席に着く前に、机上の書類の配置を確認した。議題、出席者名簿、要点だけの草案。紙の置き方が雑だと、話の順序が乱れる。乱れた話は、必ず誰かが都合よく拾う。
セレブリャコーフはターニャの背後に立った。手帳を開いて、視線だけを走らせる。
EVAは壁際にいた。そこにいることだけが主張だった。言葉は要らない。記録の担当が黙って立っているだけで、空気は一段硬くなる。
ドクトルは遅れて入ってきた。相変わらず、会議室を舞台だと思っている歩き方だった。
「いやぁ、参謀本部の空気は気持ちがいい。息が詰まるからね」
レルゲンが睨む。
「余計な冗談は要らない。ここは研究室じゃない」
ドクトルは肩をすくめた。
「研究室も会議室も、同じだよ。嫌な顔をされる場所だ」
レルゲンの左手が腹を押さえた。押さえる力が少し強い。苛立ちと胃痛は、彼の中で同じ配線に繋がっている。
「それで、デグレチャフ。君は研究を動かすと言っている。だが、そのやり方が気に入らない」
ターニャは椅子に座り、背筋を固定した。国防軍相手の口調は、感情で揺らさない。
「ご懸念の点を伺います、レルゲン中佐」
「兵器研究に秘密警察を混ぜるな」
レルゲンは言い切った。言い切った直後、短く息を吐いた。吐くことで痛みを押し込める癖だった。
ターニャは、そこで一拍置いた。相手の怒りを一度、机の上に落とす。落ちた怒りは、拾って形にできる。
「混ざっています。現実は、最初から」
レルゲンの眉が動いた。反発が来る。反発は想定内だった。
「詭弁だ。研究は軍の責任でやる。親衛隊の治安機関が手を出せば、研究者は逃げる。予算も歪む。輸送も歪む。現場が壊れる」
レルゲンの言葉は、兵站と軍規の語彙で固まっていた。彼が嫌うのは思想ではない。機能不全だ。
ターニャは資料の一枚を滑らせた。表題だけが見えるようにする。中身を見せるのは後だ。
「研究の指揮を奪いません。奪うと、まさに中佐の言うとおり壊れます」
「なら、何をする気だ」
「入口と出口だけを固定します」
レルゲンが鼻で笑った。
「それは支配だろう」
ターニャは頷いた。否定すると話が長くなる。
「支配です。ただし、研究内容ではありません。参加資格と守秘、資料の取り扱い、移動の手続き、成果の報告経路。それだけです。研究者は研究者のまま動けます」
レルゲンは机を指で叩きそうになり、やめた。叩けば痛みが増すと知っている手つきだった。
「それだけと言うが、それが一番嫌われる。研究者は束縛を嫌う」
「束縛は嫌われます。ですが、束縛がない研究は漏れます。漏れた時に、軍が責任を負います。中佐が負います。私はそれを避けたい」
レルゲンは一瞬だけ黙った。責任という言葉は、彼の胃に刺さる。
ターニャは畳みかけない。相手が黙った時に押すと、感情で返される。押す代わりに、紙を出す。
「調整室はRSHAの中ではなく、外縁に置きます。看板は学術と軍需の折衝窓口です。研究者に制服を見せません。見せない代わりに、規則を見せます。規則は短くします。読めない規則は守られません」
レルゲンが噛みつく準備をする。だが胃が先に止めたのか、喉の奥で言葉が詰まった。彼は腹の辺りを押さえ、少しだけ身体を傾けた。
「……胃が痛い」
それは独り言に近かった。弱みを見せたくない男が、うっかり漏らした声だった。
ドクトルが楽しそうに言う。
「君も胃薬が必要だな、中佐。私なら処方できるよ」
「黙れ」
レルゲンの声が低くなる。怒鳴らない。だが短い。短い声は、怒りより疲労を感じさせた。
ターニャは会話を戻した。余計な応酬は増やさない。会議の中で同論点は一往復で止める。その後は文書に落とす。
「中佐。研究者が嫌う点は理解しています。だから、調整室の運用は二つに分けます。研究者が触れる部分と、触れない部分です」
「曖昧だ。具体的に言え」
「研究者が触れるのは、会議の議題と予算枠の範囲です。触れないのは、出入りの記録と資料の持ち出し許可、参加者の身元確認です。後者は研究者に渡しません。渡さないことで、余計な感情を刺激しません」
セレブリャコーフが小さく言った。
「記録は二系統で保管しますか」
「する。片方が欠けても、もう片方で成立する形にする。欠落が出ても、責任が消えないようにする」
EVAが短く言った。
「欠落の型は残す」
「残せ。型が一致するなら、対策も一致する」
レルゲンの眉がわずかに動いた。彼は「欠落」という語を嫌った。軍の世界では、欠落は事故ではなく怠慢の匂いを持つ。
「君は、最近そればかり言うな。欠落、記録、責任。……軍は現場で動く。紙だけで戦争は終わらない」
ターニャは穏やかに返した。穏やかに返すことで、相手の熱を冷ます。
「承知しています。ですが、紙がない戦争は伸びます。伸びた戦争は補給を削ります。補給が削れたら、現場が死にます。私は現場を守るために紙を使います」
レルゲンはそこで一度、言い返す準備をした。だが、それ以上は続けなかった。応酬は一往復で終える。ターニャも終える。ここからは署名と期限だ。
ターニャは議題の草案を机の中央に置いた。見出しだけが読める位置にする。読み上げはしない。読み上げると、余計な議論が始まる。
「次に、研究体制の話をします。成功は確定しません。確定しない前提で、運用を組みます」
ドクトルが笑った。
「不確定はいい。人が焦る」
ターニャはドクトルを見ずに続けた。敬語は使わない。相手を立てると、調子に乗る。
「焦りは事故を増やす。事故は漏れを増やす。漏れは政治を呼ぶ。政治は研究を潰す」
ドクトルは楽しそうに指を鳴らした。
「だから戦争は面白い」
ターニャは顔には出さなかった。内心では、はっきりと嫌悪した。
(面白い、という言葉は嫌いだ。だが否定できない。否定できないから余計に腹が立つ)
レルゲンがドクトルを睨む。
「ふざけるな。研究は遊びじゃない。補給と時間が絡む。失敗すれば現場が死ぬ」
「だからこそ面白いんだよ、中佐。死ぬか生きるかは、いつだって刺激的だ」
「黙れと言った」
レルゲンの手が腹に行き、痛みを押さえた。怒りが増すほど胃が悪くなる。彼はその循環に慣れている。慣れているからこそ、顔がさらに険しくなる。
ターニャは話題を一本に戻した。研究の政治を、分かりやすい言葉で削っていく。余計な説明はしない。役割だけを固定する。
「研究を動かす線は三つです。学術の線、軍需の線、そして治安の線です。一本にすると切れます。だから三本に分けます」
「治安の線は要らない」
レルゲンが即答する。即答は、彼の本音だった。
ターニャは真正面から返す。ここは逃げない。逃げると、以後ずっと引きずる。
「要ります。研究者が嫌うのは制服です。ですが、研究者が恐れるのは漏れです。漏れが出れば、研究者は責任を負います。責任を負うのが嫌だから、余計に逃げます。逃げを防ぐ線が必要です」
レルゲンが眉をひそめる。
「逃げを防ぐのは軍の規律だ」
「軍の規律は軍人に効きます。研究者は軍人ではありません。規律ではなく条件で縛ります。参加するなら守る。守れないなら参加しない。それだけです」
セレブリャコーフが静かに補足する。
「条件は文書で配布し、署名を取ります。例外は増やしません」
ターニャは頷いた。
「その通りです、少尉」
レルゲンは紙を見つめた。紙の上には、調整室の運用案が簡潔に並んでいる。項目は少ない。少ないから、逆に逃げ場がない。
「君のやり方は、軍のやり方に似ている。だが、君は親衛隊だ。親衛隊がやるなら、別の目的が混ざる」
ターニャは呼吸を一つ置いた。ここが核心だ。彼の嫌悪は思想ではなく、混入だ。混入は制度で止めるしかない。
「混ざる余地を潰します。調整室が持つ権限を限定し、文書で固定します。研究の中身に口を出す権限は与えません。予算の配分は軍需官庁の決裁です。研究者の採否は評議会の形式です。調整室が触れるのは、身元確認と記録と出入りの許可だけです」
「許可だけで支配できる」
「支配できます。だから限定します。限定しておけば、逸脱した瞬間に分かります」
レルゲンは口を開きかけ、閉じた。胃が痛むのか、短く咳をした。咳の後に、苦い顔が出る。薬の味ではない。感情の味だ。
「……仮に、それが成立したとして。研究は本当に進むのか。君は重水だと言ったな。北の輸送線は既に詰まっている。燃料も港も鉄道も、全部だ」
ターニャは資料を一枚だけ差し出した。数字が多すぎない表だ。日付、出発点、到着点、担当部署。必要最小限に絞った。
「詰まっています。だからこそ、研究に回す分をはっきりさせます。曖昧にすると、最後に全部消えます」
「消える?」
「いつの間にか別の案件に化けます。優先順位が変わったと言われます。変えた者は責任を認めません。記録がなければ証明できません」
EVAが小さく頷いた。記録の話だけで、彼女は反応する。
レルゲンが腹を押さえながら言った。
「君は……本当に、そういう嫌な例を見てきた顔をするな」
「見ています。だから、同じ形を許しません」
ターニャはそこで短く切った。ここから先は、対策を話す。対策は制度の言葉で固める。
「輸送は一系統にしません。窓口も一つにしません。許可も一枚にしません。どれかが止まっても成立する形にします。その分、手間は増えます」
レルゲンが眉を上げた。
「手間は現場の負担だ。余計な手間を増やすと、軍は回らない」
「手間の増加は、期限で管理します。いつまでに誰が何をするか、文書に落とし、遅延が出たら責任者を特定します。責任者が特定できれば、遅延は減ります」
セレブリャコーフが頷き、手帳に走り書きをした。
ドクトルが面白がるように言う。
「君はまるで、研究の敵が研究者ではなく、紙の穴だと言っている」
「穴が敵だ。穴は偶然を装う」
ターニャの声が一段低くなる。感情が混じる。混じるが荒れない。削る方向に寄る。
「偶然が続けば、意図になります。意図になった時点で、研究は止まります」
レルゲンがそれを聞いて、目を細めた。彼も最近、似た種類の不自然さを嗅いでいる顔だった。
「……君は宗教じみたことを言うな。偶然だの意図だの」
「宗教ではありません。敵性の様式です」
ターニャは言い切り、すぐに戻した。感情を伸ばさない。伸ばすと議論が広がる。
「話を戻します。調整室の設置は、軍の研究を奪うためではありません。研究者を集め、逃げ道を塞ぎ、漏れを防ぐためです。研究の成果が出る可能性を少しだけ上げる。そのための枠です」
レルゲンは沈黙した。沈黙は承認ではない。だが拒絶でもない。彼は計算に入れている。
レルゲンが、腹を押さえたまま言った。
「君は危険だ。親衛隊の中でも、君は特に危険だ。だが……君の言うことは筋が通る。認めるのは癪だが、必要悪だ」
ターニャは表情を変えなかった。ここで勝ち誇ると、全てが壊れる。
「ありがとうございます。必要悪で構いません。機能すれば十分です」
ドクトルが笑った。
「必要悪。いい響きだ。研究者も気に入るかもしれない」
「気に入らない」
ターニャは即答した。ドクトルの言葉遊びは、会議を汚す。
レルゲンが一度だけ、視線をターニャに固定した。釘を刺す目だった。
「最後に言っておく。親衛隊が研究を理由に戦争を延ばすなら、私は君を許さない」
その言葉は短い。短いから重い。ここで逃げると、以後ずっと同じ場所を刺される。
ターニャは一拍置いた。言葉を選ぶ時間ではない。相手の覚悟に合わせる時間だ。
「戦争を延ばす意図はありません。期間を短くするために、漏れと混乱を潰します。必要な作業だけを残し、余計な争いを止めます」
レルゲンは眉をひそめたまま聞いている。まだ納得していない。だが、聞いている時点で門は閉じていない。
ターニャは机上の草案を指で押さえた。押さえる場所は一箇所だけ。そこが決裁欄だった。
「本日中に、運用案を文書化します。権限の範囲、記録の保管、出入りの許可、会議の議題作成権、議事録の管理。五項目だけに限定し、例外条項を増やしません。中佐には監督権を残します。監督の範囲も明文化します」
レルゲンはそれを見て、短く息を吐いた。痛みを押し込める吐息だった。
「監督権を残すと言ったな。言葉だけでは信じない。文書で出せ」
「出します。署名も取ります」
セレブリャコーフが言う。
「大尉。署名者は、軍需官庁と大学側にも求めますか」
「求める。署名者が多いほど、逃げられない。だが多すぎると遅くなる。必要な者だけに絞る」
レルゲンが皮肉っぽく言った。
「君は、遅くなることだけは嫌うな」
「遅れは現場を殺します。中佐も理解しているはずです」
レルゲンは答えなかった。答えない代わりに、胃を押さえて少しだけ姿勢を正した。痛みがあっても、参謀は姿勢を崩さない。
ドクトルが、楽しげに椅子を鳴らした。
「いい会議だ。誰も幸せにならないが、現実的だ」
ターニャはドクトルを見ずに立ち上がった。締める。ここから先は、雑談になる。
「雑談は不要だ。決めたことだけを残す。少尉、議事録を作れ。論点は短く。決裁欄を先に作り、署名者の順序を固定しろ」
「承知しました」
ターニャはレルゲンに向き直った。礼は短く、言葉は堅く。
「中佐。軍の研究は軍のものです。その前提は崩しません。ですが、漏れと混乱が出れば、軍の責任になります。私はそれを潰します。監督と記録で、形を残します」
レルゲンはしばらく黙り、最後に短く言った。
「やれ。だが一線を越えるな」
「越えません。越えない形にします」
会議が終わり、廊下に出ると空気が少し軽くなった。軽くなった分だけ、疲労が見える。セレブリャコーフが隣を歩きながら言う。
「大尉。中佐の胃は、相当悪そうでした」
「胃が悪い者は、現実をよく見ます。痛みがあるから、余計な理想を信じない」
EVAが後ろから短く言った。
「記録は増える」
「増やせ。ただし散らすな。必要な記録だけを残せ。多すぎる記録は、読む者を殺す」
「了解」
ターニャは歩きながら、頭の中で次の文書の形を組んだ。研究の成功は確定しない。だが成功しなかったとしても、動いた記録は残る。動いた記録は、戦争が終わった後にも価値を持つ。
(研究そのものより、研究が動いたという事実が残る。事実は交渉に使える。使える情報は、持っているだけで安全になる。……少なくとも、持っていないよりは)
ターニャは内心をそこで切り、足を止めずに進んだ。次に待っているのは研究者ではない。研究者を囲う周囲の人間だ。人間は、紙より柔らかい。だからこそ、折れ方が分からない。
折れ方が分からないものは、制度で囲うしかない。
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