特別回
1 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とは何だったのか
本編の合間に、ときどき 「特別回」 を挟んでいます。
ターニャが生きる第三帝国という時代の仕組みを、史実に沿って簡単にまとめた“資料編”のようなものです。
ナチ党、親衛隊、国家保安本部、制服、経済、占領行政など、物語の理解に役立つ背景だけを少しずつ取り上げます。
突然入ることもありますが、物語進行に合わせて必要な部分を
読者と共有するための回なので、気軽に読んでもらえれば十分です。
スキップしても支障はありませんが、読むと舞台の輪郭が少しくっきり見えるように作っています。
1 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とは何だったのか
第三帝国を舞台にした物語であっても、「ナチス」という単語はしばしば乱暴に使われる。何となく悪の象徴であることは誰もが知っているが、それが具体的にどのような組織で、国家の中でどう動いていたのかまで説明されることは少ない。
ましてや、ターニャ・デグレチャフが属する親衛隊や国家保安本部(RSHA)が、どのようにナチ党と結びついているかとなると、事情はさらに見通しが悪くなる。
そこで今回は、本編から少し離れ、史実に基づいて「ナチ党とは何だったのか」を整理する。
ターニャはしばしば党の地区指導部と衝突し、時にその権限を利用しているが、その背景にある制度の仕組みを一度きちんと解体しておく必要がある。
まず、正式名称から確認しておこう。
ナチ党とは「国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」の略である。
名前だけを見ると、労働者のための社会主義政党のように聞こえるが、実態はまったく別物である。民族主義、反議会主義、反共産主義、そして人種主義を中核に据えた、きわめて独自の大衆運動政党だった。
この政党は、第一次大戦後の混乱したドイツで生まれた。
敗戦国としての屈辱、インフレと失業、政治的極端主義――そういった不満と不安の受け皿として、ナチ党は「民族共同体(フォルクスゲマインシャフト)」という分かりやすい幻想を提示する。
国民は階級ではなく民族でひとつになるべきであり、その障害となる者は排除されてよい。そう語ることで、ばらばらな不満を一つの方向にまとめ上げていった。
しかし、ナチ党を真に危険なものにしたのは、単なる扇動ではなかった。
彼らは「政党であること」と「国家そのものを乗っ取ること」を、最初から一体の作戦として考えていたのである。
通常の政党は、選挙で議席を得て、内閣に入るか野党として圧力を加える程度が仕事である。
ところが、ナチ党にとって議会は単なる踏み台であり、権力を握った後は議会そのものを空洞化させる予定表の一項目に過ぎなかった。
ここで重要になるのが、「指導者原理(フューラー原理)」である。
フューラー原理とは簡単に言えば、「上に立つ者の決定は絶対であり、それを支える者たちは無条件に服従する」という組織原則だ。
民主的な多数決や議論は統制を乱す害悪とみなされ、組織内の異論は裏切りに等しい。
党の最上位には「総統(フューラー)」であるアドルフ・ヒトラーが立ち、その下に全国組織、地方組織、末端の細胞組織までが、同じ階層構造をコピーして配置されていた。
ターニャの視点から見れば、この原理は恐ろしく効率の良い指揮系統である。
命令は一つの線で降りていき、失敗の責任も明確だ。書類上は、これほど「合理的」に見えるシステムは少ない。
問題は、頂点が合理主義者ではなく、恣意的な独裁者であった点に尽きる。
ナチ党の組織は、領土を細かく区切って支配する仕組みになっていた。
ドイツ全体をいくつかの「大管区(ガウ)」に分け、その長として「大管区指導者(ガウライター)」を任命する。
ガウの下には地区(クライス)、さらにその下には地方支部、細胞、といった単位が続き、それぞれに「指導者」が置かれる。
つまり、ドイツ全土を、党の指導者網が蜘蛛の巣のように覆っていたわけだ。
このガウライターという職は、ターニャの物語とも深く関係してくる。
彼らは地方で絶大な権限を持つ「ミニ独裁者」であり、しばしば地方行政官や国防軍の将校と対立した。
なぜなら、彼らは国家官僚ではなく「党の代表」であり、法令よりも「総統の意志」や「党の路線」を優先する存在だったからである。
ここで、読者が混乱しやすい点をひとつ整理しておきたい。
第三帝国のドイツには、「国家」と「党」がはっきりと分かれて存在していた。
ナチ党が政権を握った後も、旧来の官僚制度や法律は、一応はそのまま残されている。官庁には大臣や次官がおり、行政手続きも法文に基づいて進められる。
しかし、その上に「党の指導部」が乗ってきて、官僚の決定に口を出し、あるいは無視し、自分たちの意向を押し通す。
こうして第三帝国では、「国家」の上に「党」が重なる二重構造が生まれた。
ターニャが日々相手にしているのは、まさにこの「二重構造」が生み出す矛盾の現場である。
占領地の行政官は、法律と規則に従って統治をしようとする。
国防軍の参謀は、軍事上の合理性を重視して、治安維持と兵站を考える。
一方で、党の地区指導部は「総統の威信」「民族政策」「政治的見栄え」を優先し、しばしば現地の実情を無視した命令を押しつけてくる。
結果として、三者の間に決定的な混乱が生じる。
誰の命令が本当に優先されるのか、どの書類に効力があるのか、どの署名に従わなければならないのか。
その混乱の隙間に入り込み、「制度上の正統性」を武器にして調整・介入する存在が、ターニャのような国家保安本部付の調整官である。
ナチ党の内部には、党本部や宣伝省のほかにもさまざまな付属組織が存在した。
労働戦線、女性団体、青年団体、職能別の組織など、社会のあらゆる層に「党の窓口」を作り、生活の隅々にまで浸透していく。
ヒトラーユーゲント(青少年組織)もその一つであり、本来であれば、ターニャもここで「模範的ナチス少年」として育成されるはずだった。
本作の設定では、ヒムラーの寵愛と特殊な事情により、その段階を飛び越えて親衛隊に編入されているわけだが、それはあくまで例外的な処置である。
また、ナチ党を理解するうえで外せないのが、「党官僚」としての側面である。
彼らは単なる街頭扇動家ではなく、膨大な書類と会議を通じて支配を制度化していった。
党事務局、党官房、各種局長、専門部局――そうしたポストを埋める人物たちが、地方組織と中央の間を行き来し、命令を伝達し、報告書を集約する。
第三帝国は、外から見ると激情と演説の政治に見えるかもしれないが、内部では「紙と印刷と印章」によって動いていた。
命令は紙に書かれ、それを誰がどの印章で承認したかが、権限と責任を決める。
ターニャのような人物が戦場ではなく机の前で戦うのは、まさにこの「紙の帝国」の中枢に位置しているからである。
では、ナチ党と親衛隊はどう結びついていたのか。
親衛隊(SS)は、もともとナチ党の内部組織として生まれた。
ヒトラー個人の護衛隊として始まり、やがて党大会の警備や政治的敵対者の威圧を担当するようになり、最終的には警察・諜報・軍事を統合した巨大機構へと膨張していく。
形式上、親衛隊員は「党員であること」が前提であり、親衛隊は政党の私兵組織から、半ば独立した国家機構へと変質していった。
ターニャの所属する一般親衛隊は、その根において「ナチ党の側の人間」である。
しかし、国家保安本部付という立場上、彼女の仕事は党だけでなく国家機構にもまたがっている。
党の権威と、国家の法制度と、親衛隊の暴力装置――この三つの間を行き来しながら、もっとも都合の良い論理を選び取り、書類として固定するのが、彼女の“合理主義者としての戦場”だと言ってよい。
総じて言えば、ナチ党とは、「政党の皮をかぶった国家乗っ取り装置」であった。
選挙と大衆運動を通じて権力に近づき、その後は政党であることをやめて、国家全体を党の延長として塗り替えていく。
その過程で、親衛隊や国家保安本部のような“影の官庁”が増殖し、既存の制度と絡み合いながら、恐怖と混乱の支配を作り上げていったのである。
ターニャが日々相手にしているのは、その結果として生まれた「ねじれた制度」の末端でしかない。
だが、そのねじれは、最初から計画され、意図的に作られたものだった。
次の特別回では、そのねじれの中で成長した親衛隊――とりわけ、ターニャが所属する一般親衛隊の位置づけについて、もう少し詳しく見ていくことにしよう。
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