第9節〜第12節


第9節 密室の遺言


 リヴィウ旧軍大学校跡地に設けられた臨時調整局――その地下階、特別保存区域と称される半ば封鎖された一室に、三人の影が静かに集っていた。


 一人は、ターニャ・デグレチャフ中尉。

 一人は、補佐官“EVA”。

 そしてもう一人は、軍服の襟を立てたまま、壁際で沈黙を守る年配の男――帝国法務官吏の末席に連なる、いわば“記録人”の亡霊であった。


 彼らの前に置かれていたのは、古びた金属製の箱。

 内務省からの転送資料――いや、より正確には**「国家保安本部の内部でも、所在不明となっていた書類」**である。


 それは紙ではなかった。

 磁気ディスクでも、フィルムでもない。

 剥がれかけた鉛板に、ノミのような筆致で刻まれた、原初的な“記録”。


 曰く――「ラインの奥で神を見た者の報告書」

 曰く――「観測された未来兵器と、“啓示”と呼ばれる現象」

 曰く――「かつての帝国が、“魔術”という言葉を使わずに処理しようとした文書」


 ターニャは眉をひそめた。


「……この時代に、なぜ“鉛板”などという前時代的手法を?」


 補佐官EVAが即座に応じる。


「筆跡から見て、これはシュヴァルツ・ゼクター中佐によるものと思われます。“未来観測仮説”に取り組んでいた人物です」


「記録不許可、転写禁止、再現不能。“再利用されることのない知識”の格納庫ですか。死んだ知識というわけですね」


 だがその“死んだ知識”が、今まさに、帝国を救う切り札になるかもしれない――そう考えるには、十分な切迫した事情があった。


 リヴィウの情勢は限界に達しつつあった。


 ソ連側の部隊が、すでに南方の交通路を遮断しつつある。

 通信は不安定、補給線は途絶寸前、そして都市に潜む“灰色の抵抗者”は、日に日に輪郭を濃くしている。


「ヒムラー閣下の意向は、“この情報を安全地帯へ持ち出せ”という一点です。保全、複写、解析のいずれも許可されていません」


 その言葉に、ターニャの目が細くなった。


「……では、誰も“内容を知ってはならない”と。運ぶ者さえも」


「はい。“運ぶ者は象徴であり、情報ではない”と、明確に」


 象徴――それは、ターニャ・デグレチャフ自身のことであった。

 彼女は“親衛隊全国指導者の意志”を体現する存在であり、“国家保安本部の意志を帯びた偶像”だった。


 だが、その偶像が何を運ぶのかを知らされないまま行動するというのは――冷徹なまでに皮肉だった。


「ふむ。情報を持ち出すのではなく、“情報が持ち出されるという事実”を示す。それが、作戦目的なのですね」


 老いた記録官が、ようやく口を開いた。


「あなたが今、この箱を手にしたという事実そのものが、後に“記録される出来事”となる。それが目的であると、私は聞いています」


「なるほど。中身の価値ではなく、**“運ばれたという形式”**が帝国の命綱になる……。情報国家の末期症状ですね」


 ターニャは膝を軽く叩いた。


「わかりました。ならば、私は“運ぶ偶像”を引き受けましょう。人間が担うには、なかなか愉快な役割です」


 その直後、地下通路にわずかな振動が走った。


 遠く、地上で火器が炸裂したのだ。

 ソ連軍の先遣部隊が、市内で散発的な交戦を開始した兆候だった。


 ――時間がない。


 ターニャは黒服の上着を整え、鉛箱を抱えた。


「“これは運ばれた”。そう記録されれば十分です。内容は、私すら知らずに。素晴らしいじゃありませんか」


 セレブリャコーフ少尉が脇に付き、EVAは背後の階段を照らす。


 地下の空気が乾いていた。

 遺言を記した鉛板が、そのまま帝国の未来を“語らぬ形”で背負っているようだった。


 “密室の遺言”は、誰にも理解されぬまま、沈黙の中に運ばれていく。






第10節 記録なき未来へ


 リヴィウの空は、薄灰色に染まっていた。

 煙か、霧か、それともただの燃え残りか。誰にも区別はつかない。

 それでもターニャ・デグレチャフ中尉は、確かな足取りで仮設の司令棟をあとにし、補佐官“EVA”、セレブリャコーフ少尉とともに待機車両へと向かっていた。


 その手には、鉛箱。

 中身は不明、開封は禁じられ、目的地も“暫定的に調整中”と記されたまま。

 だが、この沈黙の遺物こそが、帝国の未来に関わると国家保安本部(RSHA)は信じていた。あるいは、信じた“ふり”をしていた。


「……滑稽ですね。人類の叡智が、鉛板一枚に封じられて運ばれるとは」


 ターニャは自嘲めいた口調でつぶやく。


 だが、それが現実だった。

 帝国の存亡を左右するのは、もはや軍の規模でも、兵站の充実でも、戦略地図でもない。

 記録、沈黙、象徴――そうした抽象的なものこそが、21世紀を予兆する“近代戦の病巣”であり、彼女が日々向き合っている“戦場”だった。


「中尉、車両の準備が整いました」


 EVAが低く告げる。


 彼女はいつものように精密で、言葉少なだった。

 だがその目は、わずかに緊張を帯びていた。まるで、今この瞬間が“線の向こう”に触れようとしているかのように。


「ありがとう。――セレブリャコーフ少尉、退路の確認は?」


「市内南部ルートが最後の安全圏です。鉄道は使用不能、航空も割り込みのリスクが高すぎます」


「予測通り、ならば問題ありません」


 ターニャは車両へと乗り込む。

 その内部には、通信装置すらなかった。意図的に“記録が残らない”仕様。

 それは、移送対象が“記録なき存在”であることを象徴していた。


 無言のまま、エンジンが始動する。

 後方では、リヴィウ中心街で再び火の手が上がりつつあった。

 ソ連軍が制圧を開始した証だ。だが、もはや誰も驚かなかった。


「国家が崩れる時、それは銃声ではなく、書類の燃える音で始まる」


 ターニャはそう呟く。


 誰に言うでもない独白。だが、その言葉にこそ、彼女の“合理”が宿っていた。


 国家保安本部は、敗北を想定していた。

 ヒムラーの意向、ハイドリヒの企図、SDの記録、アプヴェーアの追跡――

 それらすべてが示しているのは、“戦後”にどう位置を占めるかという冷徹な計算だった。


 では、ターニャ・デグレチャフは何を選ぶのか?


 象徴となり、運搬者となり、記録されぬ影として世界を渡るのか。

 あるいは、記録そのものを焼き捨て、沈黙の中で自らの未来を描くのか。


「EVA、この任務が終わったら……しばらく前線には出ませんよ。無駄死には好みませんので」


「はい、中尉」


 短く答えた補佐官の目には、微かな戸惑いが浮かんだ。

 だがターニャは続けない。そこに言葉は不要だった。


 やがて、セレブリャコーフが小声で告げる。


「……中尉、中央より新たな電文。“対象の確保が最優先、途中での逸失は極刑相当”とのことです」


「……まったく。責任は軽く、命令は重い。これぞ帝国ですね」


 車両は静かに、リヴィウを離れた。

 背後で都市は崩れ、前方には国境と――不確かな未来。


 ターニャ・デグレチャフ中尉は、再び心の内に問いを浮かべる。


 “これは、勝利への一歩なのか。それとも、敗北の予兆なのか”


 だがその問いには、誰も答えられない。

 なぜなら、それすら記録されることのない、“未来”の領分だからだ。






第11節 静寂の終わりに


 正午の鐘が鳴るころ、リヴィウ中心部の官庁街は不気味なまでに静まり返っていた。


 戦時の都市にしては異様なほど、街路は整然としており、歩を進める官吏や兵士たちの足音すら、乾いた空気のなかで過剰に響く。通行証の提示を求める警邏兵の声もまた、まるで録音機械の音のように感情を欠いていた。


 だが、その無機質な秩序の裏では、着実に“何か”が崩れつつあった。


 国家保安本部(RSHA)の臨時調整局に届いた最新報――“鉄道網への複数箇所同時破壊工作”、“党地方支部の集団逃亡”、“協力者リストの流出”――いずれも小規模でありながら、明らかな意図を感じさせる“予告”の様相を呈していた。


「これは単なる偶発事ではありません。整然とした破滅、秩序の仮面を剥がすための“演出”です」


 ターニャ・デグレチャフ中尉は、机上の報告書に目を通しながら、無表情にそう呟いた。

 彼女の声には、もはや驚きも焦燥もなかった。ただ“認識”と“整理”だけがある。


「EVA。昨日までの“群衆扇動者”リストと照合し、逃亡者と潜伏者のプロファイルを洗い直してください。“無害”とされた者の再評価も忘れずに」


「かしこまりました」


 補佐官“EVA”は静かに頷き、滑るように別室へと消える。

 彼女の動きに無駄はない。まるで事態の深刻さを、既に予見していたかのような冷静さだった。


 ターニャはふと、壁際に掲げられた東部鉄道網の地図に視線を移す。

 リヴィウを中心とする“線”――それらが、今や血管のように“何か”を運び、同時に“何か”を漏らしはじめている。


 この都市は生きている。

 そして、生きている都市は、死にかけるとき最も多くを語る。


「……さて、どちらが早いか」


 毒を吐くように呟いたターニャの言葉を遮るように、執務室の扉が二度、短く叩かれた。


「失礼します。報告があります」


 入ってきたのは、セレブリャコーフ少尉である。

 いつものように真面目で、まっすぐな敬礼を行いながらも、その目元にはわずかに疲労の色が見える。


「ドロホブィチ方面で、鉄道連絡官が襲撃を受けました。手口は“事故”を偽装した爆破。現場には党広報冊子の断片と、“祈りの言葉”が記された紙片が残されていたとのことです」


「信仰と暴力の融合……。最悪の組み合わせです」


 ターニャは紅茶に手を伸ばすも、それに口をつけず、ただ視線を伏せたまま言葉を継ぐ。


「宗教は秩序の外部に生まれ、暴力は秩序の末期に現れます。その二つが結びつくというのは、“既存の秩序が無効化される”ことを意味します」


「現地宗教団体の中に、そうした扇動の兆候は……?」


「ありません。だからこそ厄介です。存在しない証拠は否定できないが、肯定もできない。“存在の否定”は証明されず、ただ不安だけが拡大する」


 セレブリャコーフは黙って頷く。彼女はその種の“論理”に既に慣れていた。なぜならこの街が、そうした曖昧さを前提として動いているからである。


「他には?」


「……ヴォロディミル方面で、国防軍情報部(アプヴェーア)との接触がありました。“戦術的後退の準備を開始すべき”との非公式な打診が来ています。公式には、まだ何も決まっていませんが」


「戦術的後退……?」


 ターニャは一瞬だけ考え込んだ。

 “戦術的後退”という言葉が、ただの撤退ではなく、“責任の転嫁”を意味することを、彼女はよく理解している。


「やはり、書類を残すべきではありませんね。“命令”は消えても、“記録”があれば我々が焼却炉送りになります」


 紅茶にようやく口をつけると、苦味が舌を刺した。

 彼女の顔に、わずかに微笑とも嘲笑ともつかぬ表情が浮かぶ。


 すでに“焼却命令”は始まっている。記録と記憶、その選別は、誰の命令でもなく、自らの生存本能に委ねられる段階に達していた。


「セレブリャコーフ少尉。以後、すべての通達・命令文は“口頭”を原則としてください。“記録”は、存在しないものとする」


「了解しました」


 敬礼とともに退出する彼女の背中を見送り、ターニャは再び机に向かう。

 筆記具を握りながらも、彼女は何も書かない。ただ、空白の紙を見つめるだけだった。


 もはや、ここに記すべき“真実”はない。

 あるのは、灰となる未来と、燃え残った秩序の欠片だけ。


 そのとき、遠くで爆音が響いた。


 リヴィウの空が、微かに揺れる。

 まるで都市そのものが、苦悶の声を上げたかのように――。






第12節 帳の向こう、霧の向こう


 夜――それは誰にとっても等しく闇の時間ではない。

 少なくとも、国家保安本部(RSHA)にとっては、“夜”とは記録と監視と処理の時間であり、すべての秩序を再定義するための静寂な舞台装置にすぎなかった。


 リヴィウ市の西端、旧鉄道倉庫群を転用して設置されたSD(親衛隊保安部)の臨時庁舎は、昼間とは打って変わって、灯火管制下の灰色に沈んでいた。

 その内部、最奥の記録室。ターニャ・デグレチャフ中尉は、薄明かりの中、書類束を前に佇んでいた。


 黒服の儀礼用制服は、かつての“親衛隊の威光”を象徴する装束である。

 だが今、それは彼女自身の存在と同じように――制度の残滓であり、象徴的記号に過ぎなかった。

 肩章は控えめながらも“中尉”の階級を主張し、胸元には鉄十字とともに、国家保安本部所属を示す徽章が沈んでいた。


「……これで、三件目ですか」


 机の上、並べられた封筒には、同じように書かれていた。

 “分類再調整要請”――すなわち、誰を生かし、誰を処理するかという“記録の見直し”を意味する命令だった。


「“現地信仰指導者”に対する照合結果の再提出要請。明記されていないが、実質的には粛清対象の選定ですね」


 補佐官“EVA”が、冷静に報告する。

 彼女の声は、まるで夜の帳のように落ち着いており、その仕草は寸分の狂いもなく正確だった。


 ――この人物は“EVA”とだけ呼ばれ、階級も本名も記録には存在しない。

 ヒムラーが個人的に差し向けた随行補佐官であり、その素性すら秘匿された“機能”の化身だった。


「第Ⅶ局の記録室と、第IV局ゲシュタポがそれぞれ異なる分類を主張しています。“神を信じる者は、国家に忠誠を誓えない”という論理と、“信仰は秩序の一部”とする論理が衝突しています」


「……神と国家の秩序が衝突するとは、皮肉な話ですね。そもそも、神がいるかどうかを証明できるのは誰かという問題から始めるべきでしょうに」


 ターニャは皮肉を込めて言いながら、書類を手に取った。

 それはあるユダヤ人司祭に関する記録。

 彼は“協力者”として登録されていたが、先週、忽然と姿を消した。


 隠れたのか、殺されたのか、それとも“処理された”のか。

 誰も知らず、誰も問わなかった。だが、いずれにせよ記録は残る。


 分類:失踪

 対応:未処理

 記録者:RSHA 第Ⅶ局


「分類とは、希望でも正義でもありません。これは“記録可能性”の問題です」


「記録できる限り、秩序は維持される――という建前ですね」


 ターニャは薄く笑う。

 その笑みは冷笑ではなく、“同情”のような奇妙な柔らかさを帯びていた。


 この都市はもはや“灰色地帯”に堕していた。

 誰が味方で、誰が敵か。誰が協力者で、誰が反逆者か。

 線引きはすでに意味を失い、ただ書類と分類だけが踊っていた。


「本日、また一人、“神父”が失踪しました。今度はカトリックです。

 報告では“事故”と処理されていますが、目撃者は誰もおらず、書類も存在しません」


「記録がないのは、処理が“完璧”だった証拠です。あるいは、“偶然”を装った自然死という便利な結末ですね」


 そう述べて、ターニャは静かに椅子に腰かけた。

 窓の外――霧が街を包み込み、ぼんやりと灯るランプの明かりだけが、現実を浮かび上がらせている。


 その霧の向こうでは、RSHAの車両がひっそりと通過し、党支部の建物では灯りがひとつ、またひとつと落とされていく。


 そして、何かが“消えていく”気配だけが、確かに存在していた。


 EVAが新たな書類を差し出す。

 それは、“現地占領行政官”から提出された報告であった。


「“分類未確定者”に関する再検討依頼。理由は“政治的配慮”とのことです」


「“配慮”とは便利な言葉です。“躊躇”とも、“保身”とも、“責任回避”とも読めますからね」


 ターニャは書類に目を通し、沈黙した。


 明朝には、RSHA本部への輸送便が出る。

 その便に何を載せ、何を燃やすか――それは、この部屋の静けさの中で決まっていた。


「……“未確定分類”として封緘を。確定するには、まだ証拠が足りません。あるいは、“意志”が足りません」


 EVAは頷き、封筒に書類を封じた。


「夜は、記録の時間です」


 ターニャの口から漏れた言葉は、まるで誰かの引用のようだった。

 だがそれは、帳のこちら側にいる者としての、唯一の祈りでもあった。

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