第二十一話 悪魔のささやき


「サリオン……」

 

背後から耳朶を食むようにして囁かれ、目尻にキスを落とされる。

咄嗟につぶった目蓋にも、頬にも唇を押し当てられ、肌を吸われて離される。

けれども身じろぎひとつ出来ずにいた。

享受も拒否も示せない。

自分の気持ちに触れかけるたびに、それはすっと遠ざかる。

サリオンは棒杭のように突っ立って、息をしているだけだった。


「俺の気持ちは変わらない。この手で抱いて愛したいのは、お前と俺の二人の子だ。お前にこうするようにキスして、あやして、笑わせて……」

 

かすれてれて消えたアルベルトの訴えは懇願に近かった。

目を閉じた彼の睫毛の微かな震えが頬に伝わり、サリオンの胸まで震わせる。

アルベルトに覆い被さるようにして抱き込まれ、天井を仰ぎ見る。

背中に感じる太い腕。汗ばんだ逞しい体躯から立ち昇る濃艶な香油の匂い。

うなじにかかる熱い息。

それらは強固なはずの決意をあっけなく打ち砕く悪魔の導き。誘惑だ。

顔を伏せたサリオンは、瞬きだけをくり返す。

 

もし今、抱擁に応えるように目を閉じてしまったら、

後には引けなくなるだろう。二度と彼には抗えない。

この限りなく魅惑的な男の手の内に堕ちて沈んで戻れない。

サリオンのまなじりから、涙が一粒伝い流れた。唇が戦慄いた。


それでもの言葉が聞こえる気がする。はっきりと。

項垂れるの姿が眼裏まなうらに蘇る。鮮明に。

アルベルトに委ねる前に、自分は既にすべてをに捧げている。

だから、どちらも選べない。ここから一歩も踏み出せないから辛いのだ。


「サリオン……?」

 

驚いたように呟いたアルベルトが正面に回り、顔を覗き込んでくる。

二の腕を強く掴まれて、涙の訳を問うような熱い視線に炙られる。

瞬きするたび、涙が雫のように滴った。止められなかった。偽れなかった。


「お前は俺がレナにこうしてキスして、ベッドの中で絡まって、俺の子をレナが孕んで産んでもいんだな?」

 

責め立てられたサリオンは息を呑む。沈黙したまま瞠目し、硬直した。

涙はいつしか止んでいた。泣いても泣いても目の前の現実は変えられない。

サリオンはアルベルトの胸に手をついた。

両肘を一気に伸ばして退けた。

一瞬抱き戻そうとするように、アルベルトの手が空を掻く。

けれどもそれをサリオンは、ピンと張った両腕で拒絶しながら項垂れた。


現実は無情で残酷だ。

娼館を囲う外郭のようにそびえたつ。

現実の壁に突き当たり、自分の無力を知った時、泣いても無駄だと体が悟る。

だから涙が止まるのだ。

サリオンの緩い巻き毛の金髪が、はらりと顔にかかる。

ベールのように表情を覆い隠してくれていた。


「サリオン……」

 

という、失意を帯びた呟きを耳にしながらサリオンは頭を振る。

ゆっくりと。

しかし、はっきり左右に動かす。左右に二度振り、きつく奥歯を食いしばる。

サリオンは頭の中まで揺れた気がした。

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