夢と時間
春嵐
第1話
彼が死んでから、一ヶ月が経った。
何も、起こらない。
人が一人いなくなっても続いていく日常の残酷さを、最初は感じていた。それも一ヶ月かそこらで、普通の日常になる。
彼が死んだとき、何も感じなかった。彼の服や荷物を整理して、すべて捨てる。それだけで、日常は普通に戻ってきた。
日常の残酷さが消えたのではなかった。
恋人が死んだのに涙ひとつ流さない自分の残酷さのほうが、大きかったから。
「血も涙も、ないのかな」
そう思って、指で自分の腕を引っ掻いてみた。血が出る。目を擦る。涙が出る。生きている。私は、生きている。そして、彼は死んだ。
誰もいない部屋。これも、一ヶ月で慣れた。
最初は二人分の食事を作ってしまったり、彼を起こすために早起きしてしまったりしていたのに。
結婚したいわけでも、恋愛したいわけでもなかった。たまたま、そういうタイプの人間が二人いたので、番いになっただけ。いなくなれば、単純にひとりになる。それだけ。
「寝るか」
ベッドにもぐり込んだ。
彼の温もりを探す。一ヶ月経っても、この癖だけはなかなか消えなかった。ベッドで寝てる彼は、どんな湯たんぽや掛け布団よりも暖かかった。
「いない」
彼は、死んだ。私専用の暖かさは、もうない。
彼の死因は、分からない。どこで死んだかも、不明。
もともと、何の仕事をしているか分からないし、明かさない人だった。ある日突然、見知らぬ人が彼の死を伝えに来ただけ。遺骨も遺品もない。あるのは、死という事実のみ。
夢。
夢を見ている。いつの間にか眠っていたらしい。寝ているということを知覚できて、夢だとわかる。
「明晰夢」
となると、彼が出てくるだろう。彼の荷物を整理して処分していたのだから。
彼の姿を探す。ここはどこだ。周りがぼやけて、よく見えない。
彼。
いた。
自分の部屋。
自分がいま寝ているはずのベッド。その下を指差す。
「ベッドの、下?」
そこで、目覚めた。
「なんだ、えっちな本でも隠してるのかな」
ベッドの下を探る。
「おっ」
紙切れが一枚。
「うわ」
婚姻届。
「今更」
何の意味もない紙。びりびりに引き裂いた。
「はぁ」
もう少し早く言ってくれれば、死ぬ前に婚姻届を出せただろうに。間が悪いというか、なんというか。
ドアホン。
端末で訪問者の顔を確認する。
彼が、いた。
「なんだ、まだ夢の中か」
といいつつ、小走りで扉に向かう。そして、開ける。
「おかえり。遅かったじゃない」
「ごめんごめん。長期の出張なのに携帯が壊れちゃってさ。番号も住所も覚えてないから連絡方法がなくて」
抱きつく。
「暖かいなぁ」
いちど触れたことのあるものは、夢で再現できる。たとえ夢でも、暖かさを再現されるのは、嬉しい。
「どうしたの」
「ねぇ、どうして死んだの」
「いや、生きてるけど。現に目の前にいるじゃん」
「うそ。なんか知らない人が来て、あなたが死んだって言ったわよ」
「なんだそれ。悪質ないたずらだな」
夢の中では、悪質ないたずら、ということになってるのか。それでもいい。この夢を、彼がいるという瞬間を、たのしもう。
「あっ」
「ん?」
「どうしよう。あなたの荷物、全部捨てちゃった」
「えっ、なんで?」
「だって」
「そうか。死んだって勘違いしたからか。でもまぁ、大したもの置いてるわけでもないし、それよりもベッドの下に」
「婚姻届」
「えっ」
「ごめんなさい。ついさっき見つけて、びりびりに破いちゃった」
ゴミ箱を見せる。
「うわぁ。やりやがったな」
「ごめんて。私が取ってくるから。ね。書こ。結婚しよ」
「いやぁ凹むなぁ。彼氏が死んだと勘違いするのはいいとして、婚姻届をこんな、粉々に」
「恨み言はいくらでも聞きますから。役所行ってきます」
小走りに扉を開けて、そして、目覚めた。
目覚めてしまった。
否応なく訪れる、現実の感覚。
彼のいない、ベッド。
「はぁ」
携帯を取り出して、彼の連絡先を押す。
万が一が、ないとも限らない。
『はい。どしたの?』
彼が、出た。
少し、混乱する。もしかして、まだ夢の中か。
「生きて、るん、ですか?」
『あっしまった。もしかして、知らない人が来ておれが死んだとか言っちゃった?』
「はい。その通りです」
『ごめん。今ちょうど重要な仕事をしてて、定期連絡がしばらくいかなかったら死亡扱いになっちゃうんだよ』
「はぁ。生きてるんならいいです」
『ちょっと頼まれてくれない?』
「何を」
『役所に行って、おれがまだ生きてるって連絡してほしいんだ。手が離せなくて』
「いいよ。どの役所に行けばいいの?」
『警視庁。受付には俺の名前を言えば分かるから。ごめんね。よろしく』
電話が、切れた。
夢も、切れた。
目覚めた。
「なんだこれ」
何度目の覚醒だ。
現実だと思ったら、また夢。意味が分からない。
「違うな。違うぞ私」
現実だと思ったら夢、という流れではない。逆だ。夢を、現実と思い込み続けている。最初にあるのは、錯覚。現実と錯覚する夢を見ている。
こうなると、夢か現実かを判別することはできない。いちど触れたことのあるものは、夢で再現できる。夢の中で頬をつねっても、現実と同じく、痛い。
「まぁ、いいか」
彼がいて、それを感じられるなら、別に夢でいい。彼が死んで涙も流さないような現実は、いらない。
「待てよ」
彼が死んだら、普通涙ぐらい流すだろう。
婚姻届をベッドの下から見つけたら、それはそれは切ない気持ちになって、やっぱり泣くはずだ。
「もしかして」
彼が死んでから一ヶ月間も、夢なのか。
夢の中で一ヶ月経ったりとか、そういうことが、あり得るのか。
「だめだ。考えるのやめよう」
いくら考えても、夢と現実の区別がつくわけでもない。
「しかし、すごいなぁ」
夢と現実の経過時間が変わることなんて、あるのか。
まるで、無間の牢獄。
「いや、牢獄でもないか」
彼がいるなら、それでいい。
目覚めた。
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