死ぬ支度

 『終活』という言葉が頭をよぎる。今日私は、退職した。晴れて明日から無職である。ある人は言った。明日から自由だと。私は思う。明日からまた、世間様に謝りながら生きねばならないと。


 肉を買った。チーズを買った。ホイップクリームを買った。重すぎて運ぶ道中で肩の痛みに吐き気を催すほど買った。1.5キロの生き物だった塊が、生き物の乳と生き物の乳の間で冷えている。ライチも買った。


 職場の人間にはなるべく会いたくなかった。特段悪い扱いをされたわけではない。ただ、顔を忘れたままでいて欲しかった。最低限の人とだけ会って5分で職場を後にした。神社に行くつもりだったが、総重量3キロほどの荷物を持って石段を上がる気力はなかった。食べたかった天丼も食べ損ねた。いつ居なくなるかわからない老爺の開く焼き鳥屋台のほったて小屋は、開店するのが夕方からだったのでハナから諦めていたが、張り紙を見るに、どうやらしばらくお休みらしい。かつて駅前で和菓子を手売りしていた老婆が、私がみたらし団子を山ほど買ってから、もう二度と姿を見せなくなったことを思い出す。あの老婆には、お釣りが出ないからという理由で200円借りたままである。もう二度と返すことは出来ないのだろう。ほったて小屋も二度と入る事はないかもしれない。


 現実世界の私の事を知る人は、家族と、片手で数えるほどの友人だけである。転々とした職場の上司や部下は、もうしばらくは私の事を思い出しはしないのだろう。そのまま忘れ去られていくとして、死んだ時、後腐れがなくていいなと思う。友人は少ないに限る。看取られる数も少ないから。


 あとの私に残された事。遺書は書いた。家からの借金は保険が下りるだろう。友人へ払い損ねた金もそこから出してもらうつもりだ。今月のマイナス額面の給与も賄えると思う。死ぬための準備が着々と整っていく中で、遺し損なった小説を想う。脳の中を全てどこかに置いていければいいのだが。


追伸、特に今死ぬ予定はない。

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