這い寄るかげ
「別れましょう」
お決まりのセリフから始まる会話。彼女の態度がよそよそしいと感じるようになったのはいつからだっただろうか。私は瀬戸物のカップに注がれたコーヒーを一口すすった。普段飲んでいる会社のコーヒーが、ただの濁った湯であると自覚させられる。素人でもわかるほどに濃く、上等な味がした。
「どうかしたの」
心当たりがないわけではなかったが、なるべく平静を装って彼女に訊ねた。淡い水色のワンピースの中心に、メロンソーダのきっぱりとした緑と、その上のアイスに乗った真っ赤なチェリーが色を添える。彼女はチェリーを取って一口目に食べると、真っ赤な茎と種を紙ナプキンの上に置きそれを隠すように包んで灰皿に置いた。
「だってあなた、わたしがやることなす事、まず茶化して、それでわたしが嫌な顔をしたら怒るじゃない。それが普通じゃないって、気付いただけ」
「それを言うならお前だって、ただ聞いて欲しい事に一々説教して、聞いて欲しいだけだっていったら
店主がこちらをちらりと見たのが視界の端に入る。焼き始めたホットケーキの匂いが狭い店の中に広がり始めた。
「それに、わたし、あなたが毎日帰りが遅いの、会社にいたわけじゃないって知ってるから」
ぎくり、と書き文字が出たような感覚だった。あまりにあからさま過ぎる様子に、彼女が少し笑う。
「ね、これ以上話したくないことだってあるでしょう?だから、別れた方がいいと思うの、わたしたち」
沈黙する二人の空気を和ませるように、店主がホットケーキを運んできた。バニラの香りがふわりと鼻をかすめる。バタークリームをてっぺんにぽんと乗せた三段重ねのホットケーキはまんまるで、ムラなく均一に焼き目が付いていた。
「これはサービスね」
店主が小鉢に入れたハチミツ浸けのナッツを置いていく。食べよっか、と彼女が言った。ナッツをホットケーキの上に広げると、金色がゆるゆると広がり皿の上に滴り落ちた。
「でもさ」
しばらく食べ進めている時に、不意に彼女が口を開いた。
「仕方ないよ。きっとわたしたち、満たしてくれる人が欲しかったんだもん」
「……そう、かもしれない」
「別の、その人が見つかったら、そうなるって、結婚する前に気付いて、よかったんじゃないかな」
まるで自分の事のように言う彼女に、記憶のどこかを引っ掛けたような違和感を覚える。
「もしかして、お前も」
無言の肯定。そこに怒りはなかった。実は自分でも薄々気付いていたのかもしれない。どこかホッとした気持ちでクルミをかじった。ホットケーキのきめ細やかな生地やバタークリームのうすしょっぱい味の、味覚の情報の層が厚くなる。美味しい、と思わず呟く私に、彼女は微笑んだ。
「あなたの知ってる人よ」
それは、ある公園に隣接する家の中での出来事だった。通りすがった瞬間の突風で、営業資料、それも社外秘のものが吹き飛ばされて、その家の庭に落ちたのだ。外出先で機密情報を広げない、と口酸っぱく言われていた事を思い出す。また風が吹いたら、どこかに飛んで行ってしまうかもしれない、と慌てて庭に入って資料を拾い上げた後ろに、その人はいた。物腰穏やかな老人に、不法侵入の言い訳をしていると、親切にもその老人は私を縁側に読んで、お茶とお菓子をご馳走してくれた。その時まではまさか、その老人と、あんな関係を結ぶことになるとは思わなかったのだ。
恐らくは、彼女も同じだろう。魔が刺す、というのはそういう事だ。老人とよからぬ事をしている間に、何度か、彼女の声が聞こえた気がした。罪悪感が残した幻聴かもしれない。私の聞いた事がない、彼女の艶かしい声が、遠くの方で聞こえたのだ。以来私は、この家を何度も訪れた。その度に、彼女に言えないような事をして、世間に顔向け出来ない事をしていた。
「ねえ、いっそ」
私は、馬鹿げた提案だと思いながら口を開いた。喉に絡まる甘さを流すようにコーヒーを飲む。
「このまま、黙って結婚するのも、ありじゃないかな」
彼女の手が止まった。さすがに怒るだろうか。恐る恐る彼女の顔を見ると、予想とは全く違う表情を、具体的にいうと、なるほど、といった顔をしていた。彼女の向こう側で店主がギョッとしていたのがあんまりにも面白くて、つい声を出して笑ってしまった。
「いいかも」
「い、いいんだ。冗談のつもりだったけど」
「だって、また一からこのやり取りを他の人とするなんて、億劫だなって。わたし、あの人から離れられないもの」
あなたも同じでしょ、と吹っ切れたように笑う。実際、その通り、だと思う。
「迷惑かけないようにしないとね」
もうおかしくてたまらない、と言った声で、二人で笑った。狭い空間の中で、店主だけが頭を抱えていた。
「先生、あなた、ほどほどにしなさいよ」
顔なじみの男はにこにこと穏やかに笑っている。挽きたての豆を受け取る骨張った手は、その年齢にそぐわない、絹のような肌艶があった。
「あれ、なんのこと」
「そらっとぼけちゃってさぁ」
この男は、昔からの常連であるが、年老いていく自分と同じ時間を歩んでいる気がしない。
「それより、ねぇきみ、うちに来ないのかしら。ここのコーヒーにきっと合う焼き菓子があるのだけれど」
「遠慮しとくよ」
「いけずなひと」
くすくすと笑いながら風呂敷を手際よくまとめると、男は店を後にした。待っているから、と言い残して。酷く疲れた私は、その日は早々に店を閉めた。
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