満員電車

 雪には音を吸収する性質があるらしい。


 午前11時、しんしんと積もる雪の中、私は転ばないようによちよちと坂道を下っていた。一年に一度あるかどうかの豪雪が関東一帯に降ったらしい。見慣れない景色が新鮮で、既に会社には間に合わない時間だと言うのに、私ははしゃいでいた。本当ならば会社など休んでしまって、すぐ其処の公園で土と雪のロールケーキのような雪だるまを作って(言ってもそれほど深く積もっているわけではない。せいぜい15センチ程度だろうか)雪の日を満喫したいと思っていた。


 雪には音を吸収する性質があるらしい。雪の日がいつもよりも静かに聞こえるのはこのためだと、何で読んだか思い出せない記憶が脳裏をかすめる。事実、信号機の時間調整が残念なスクランブル交差点で、待機している車のエンジン音よりも、どこか浮き足だった人間たちよりも、タイヤが雪を踏みしめるぎしぎしという音が耳に入る。気がする。一度溶けて凍り直したのか、氷の塊に覆われた地面に何度か足を取られながら、私は尚も駅舎に向かった。


 駅のホームはもう昼も近いというのに随分と混んでいた。きっと私と同じく、遅刻して会社や学校に向かう人間たちだろう。365日のうちに1度だけある程度の、とんでもない自然災害だというのに、身の危険を感じてでも労働の義務を果たせと言うのだから、きっとその命令を下している人間は非情なのだ。いや、その命令を下すように出来ている、この社会が非情なのか。押し寿司のように電車に詰め込まれながら考えていた。


 どこかから、声が聞こえた。濡れるんですけど。見ると、電車の乗り口にへばりついている(迷惑な野郎だ)中肉中背のサラリーマンが、目の前の傘を持った女性に文句を言っていたようだ。押し寿司の米粒のくせに何を言っているのだろうか。濡れたくないのならば社会的なリスクを背負って電車を降りればいい。座席横の壁がめり込んでいるお前の背中だって、随分と濡れているようだぞ。そう怒鳴りつける度胸は無い。雨が降ったらお休みで。頭の中にはかの有名な、何処の国か分からない王を讃える陽気なメロディが流れていた。会社に着いたのは14時頃だった。


 午前中が特に忙しい私の勤め先は、いつも通り19時に仕事が終わり、たった5時間、4500円のために、往復で2千円ほどの交通費を使ったのだと思うと、現在自分の置かれた状況がどれほど絶望的なものなのか再認識する。帰りの道はきっと混んでいるだろう。どうして休まなかったのか、己の過去の行動を悔いるばかりだった。世界が滅亡してしまえばいいのに。祈りにも似た願いを呟いた。駅に滑り込む電車の中には再び押し寿司が形成されている。


 まさかその拙い願いが叶うとは、30秒前の自分に伝えたところで、きっと信じないだろう。


 それは急に訪れた。電車が急ブレーキをかけて停車し、足が浮いた。地面が急に何処かへ行ってしまうような感覚と肺を押しつぶされる感覚に、半ばパニックになりながら、それでも日本人という種の本能のようなもので、すみませんと声を張り上げていた。恐らくその場にいる大抵の人間が同じように謝っていたと思う。騒然とする車内、そこに追い打ちを掛けるように、電気が次々と消えていった。最悪だ。

 アナウンスが響く。(緊急停車致しました)ああ緊急なら仕方がないなとそれぞれが納得し、首会釈を繰り返し、姿勢を直した辺りで、ようやく少しずつ静かになってゆき、10分もする頃には、ひそひそと話す声以外は何も聞こえない、ただただ蒸し暑い空間が在った。暖房も切ったのだろうか、少し冷気が顔を掠めた。こうなったのが今日で良かったのかもしれない。不幸中の幸いだ。この程度の些細な幸いでチャラにしなくてはならないなら、そもそもこんな、怒濤のような不幸に遭遇したくなかったが。密着しあった身体はそれほど寒い事はなく、ただ体重の移動が出来ないせいか、腰がそろそろ痛くなってきた。いつまでこの状況が続くのか、大きなため息をついて、窓の外を見た。


 白い光が押し寄せてくる、やたらとゆっくりと、しかしすべてを焼き尽くすように近付いてきた。音は何もなくなった。冷たくも暖かくもない、光だけで構成されているようなその白は、しかし、質量を持っているように感じた。まるで雪がふわりと服の上に乗るような、そっとなでるやわらかい衝突。ちりちりと分解されていく感覚に目を閉じた。雪には音を吸収する性質があるらしい。雪には音を吸収する性質があるらしい。

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