彼女の鼻についてのいくつか(2018/04/01 12:00)

「わたしの鼻があと五ミリ高かったらなぁ」


 彼女は口癖のようによくそう言っていた。


 なぜ五ミリなのか、いつもそう思っていたのか、それともただの気まぐれだったのか。疑問はたくさんあったけれど、結局最後までそのどれについても僕が答えを知ることはなかった。


 僕はアイスコーヒーに少しずつ混ざりながら沈んでいくミルクを眺めながら、同じようにもう過去になって、記憶の底に沈んでいく彼女の鼻についてのいくつかを思い出していた。



* * * * * * * *



 それは冬も終わり、春の気配が漂い新しい何かが始まる予感を感じさせる、ある日のことだった。


 僕は久しぶりの休日に街へ出て、『世界中が大興奮の超大作』などと銘打たれた割に少しも面白くないアクション映画で二時間を無駄にしたあと、喫茶店で一休みしているところだった。


 その店は初めて入る喫茶店だったが、雑巾をしぼったような味のコーヒーを出すチェーン店ではなく、マスターが一人で切り盛りしている小さな店だった。

 店内ではデイヴ・ブルーベック・カルテットが耳に障らない音量で流れていた。

ポール・デスモンドの、この曲がかけられるべき場をわきまえたかのような柔らかく響くアルトサックスは店内の雰囲気をより一層心地良くしていた。


 この店では多くのものが年老いていた。

 たくさんの人々を迎え入れては送り出し、すっかりくたびれた色に退色してしまった玄関扉。数え切れないほどの靴に踏みつけられ、ずいぶんと疲れ果ててしまっている木目のフロア。多くの客の人生のひとときを支え、ほとんどクッション性を失ってしまったスツールたち。そして、無口で紳士的なたたずまいながらも、真っ白に染まった頭髪と額に深く刻まれたしわがこれまでの苦労を感じさせるマスター。


 僕は運ばれてきたアイスコーヒーに、よく冷やされたステンレスのミルクポットからミルクを落とす。彼女のことを思い出したのはそんな時だった。


 僕は記憶の底に沈みかけていた彼女のことを思い出すように、アイスコーヒーに沈んでいくミルクをストローでかき混ぜ一口飲んだ。

 水出しのコーヒー特有の渋みのないすっきりとした味わいが喉を滑り落ちてゆく。その冴えるような冷たさが彼女との記憶を鮮明に蘇らせていくようだった――


 日本人の平均的な鼻の高さや形というものを僕は知らないけれど、確かに彼女の鼻は他の人に比べ、低く、特徴的だったように思う。


 この場合の他の人というのは統計学に基づいて抽出されたサンプルとしての人たちではなく、僕が今まで街で見かけた人たちのことだ。つまり、僕の実体験に基づく感想でしかない。

 偶然にも僕が生まれてから彼女に出会うまで街で見かけた人たちは全員、彼女よりも鼻が高く同じような形をしていただけで、実は彼女の鼻はそれほど低くもなく特徴的でもなかったのかもしれない。

 しかし、やはりその後も街で見かける人たちのほとんどは彼女よりも鼻が高く、画一的だったので、実際彼女の鼻は個性的だったのだろう。


「でも、僕は君の鼻がとても好きだよ」 


 彼女が自分の鼻の低さを一通り嘆いたあと、僕はいつも決まってそう言った。

僕がそう言うと彼女は、同情してくれてありがとう。と言うように、いつも少しだけ悲しそうに笑うのだった。

 しかし、彼女が同情としか受け取らなかったその言葉は、決して彼女に対する憐れみなどではなかった。僕は本当に彼女の鼻が好きだったのだ。


 彼女は特に可愛らしいと言える顔立ちではなかったし、もちろんとびきり美人というわけでもなかった。

 けれど、彼女の少し低くて丸みのある愛嬌のある鼻は、彼女の優しい顔の輪郭と非常によく合っていたし、備わっている位置も申し分なかった。その鼻は切れ長の目元が与える少しばかり冷たい印象を中和させ、彼女の顔全体の印象をとても穏やかにしていた。


 僕たちが付き合っていた一年と半年のあいだ、僕はあの手この手で彼女の持っている人には真似できない個性的な鼻についての素晴らしさを説明した。

 ときには抽象的に、ときには具体的に、とにかく色々な場面で機会を見つけては説明した。しかし、結局、彼女はぜんぜん、まったく、これっぽっちも納得なんてしなかった。


「他人に分かるはずなんてないわ」


 僕がどれだけその素晴らしさ説明しても、いつも最終的にはその一言で片づけられたのだった。

 諦めの色が染みついたこの言葉が彼女の口からこぼれると、もう僕には何も反論することが出来なくなってしまう。なぜなら彼女の言うとおり僕たちは他人で、その問題は僕の問題ではなく、その鼻はやはり僕の鼻ではなかったからだ。


 僕たちは一年半のあいだ、たくさんの言葉を交わし、ときには喧嘩もして色々な想いを伝え合おうとした。そして、そのうちのいくつかは確かに伝わったと思っている。しかし、彼女の鼻に関することだけは、ただの一度も僕の言葉が彼女の心を捉えることはなかった。そして、僕たちの恋は終わった。


 僕は半分ほど減ったアイスコーヒーのグラスを少し横に寄せると、隣のハイスツールに置いていたショルダーバッグの中から煙草とライターを取り出した。


「吸ってもいいですか?」


 カウンターの奥でグラスを磨いていたマスターにたずねた。

 グラスを拭いていたマスターは手を止めると、返事をする代わりにほんの少しだけ微笑んで灰皿をこちらへ差し出した。


 店ではデイヴ・ブルーベック・カルテットが演奏を終えると、今度はマイルスバンドがカインド・オブ・ブルーを演奏し始めた。ポール・デスモンドに代わり、キャノンボール・アダレイが引き続き心地よいアルトサックスを響かせていた。


 僕は煙草を咥えて火を着けると、最初の一口を深く吸い込んだ。そして、肺に満たされた煙をゆっくりと吐き出していく。

 吐き出された煙は行く当てもなく漂い、形を成すこともなく、目に見ることのできない何かの輪郭をそっとなぞるように揺らめいてゆっくりと消えていった。


 僕は彼女に対しその想いを百パーセントの言葉で伝えることが出来なかった。それでも、ほんの少しでもその輪郭をなぞろうと僕は何度も言葉を吐き出した。けれど、口元からこぼれていく僕の感情の名残は、彼女に届くころにはもうその瞬間の熱を失っていて、何も伝わることなんてなく、ほんの一瞬空気を震わせて、そして初めから何もなかったかのように消えていってしまうだけだった。


 きっと、僕に伝えられることなんてアイスコーヒー一杯の注文がやっとなのだ。


 僕と彼女は最終的に、円満に、正しく、納得して別れた。

 決定的な別れる理由なんてものは何もなかったけれど、あえて理由をつけるとするなら、結局のところ出会うタイミングがほんの少し違っていたのだと思う。

 もし、僕たちがもう少し早く出会っていたなら、あるいはもう少し遅く出会っていたなら、僕たちは今でも付き合っていたかもしれないし、子供を作り幸せな家庭を築いていたかもしれない。

 しかし、それはどこまでいっても『もし』でしかなく、決して今の僕とは交わらない、また別の誰かの話だった。


 僕と彼女は駅前の喫茶店で少し話をしたあと、店の前でさよならを言ってそれから二度と会うことはなかった。それでもきっと、さよならを言えただけ僕たちはまだ良い方なのだ。

 いつの間にかなくしてしまったもの、いつからか会えなくなってしまった人がいて、終わってしまったことに対して墓標すら立てることも出来ず記憶の中で風化していくのを待つよりは、きっと。


 僕はほとんど吸うことなく根元近くまで灰になった煙草の火を消すと、店を後にした。




 僕が駅に向かって歩いていると、不意に誰かに名前を呼ばれた気がした。

 立ち止まってあたりを見回してみたけれど、僕の知っている人は誰もいなかったし、もちろん周りの人たちだって僕のことなど知らなかった。空耳かと思い再び歩き出そうとすると、もう一度、今度ははっきりと僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。声の聞こえた方を向くと、そこには見たことのない女性が立っていた。


 女性はきょとんとする僕と眼が合うと、とても楽しそうに微笑んだ。その様子を訳も分からないまましばらく眺めて、ようやくその女性が誰だか気がついた。


 ずいぶんと雰囲気が変わってしまっていたけれど、それは間違いなく彼女だった。

 僕の記憶の中にいる彼女と、三年ぶりに僕の目の前に立つ彼女が同一人物だと認識するまでに小説が一ページほど読めるくらいの時間はかかったかもしれない。なぜなら、彼女の雰囲気は僕の知っている彼女とはまったくと言っていいほど変わってしまっていたからだ。


「一瞬、誰だか分からなかったよ。あなたのために祈らせてくださいなんて言われるのかと思った」


 僕は久しぶりに出会った昔の彼女に対し、ずいぶん間の抜けた台詞を言った。


「あなたはあまり変わらないわね」


 彼女は僕の姿を上から下まで一通り眺めてそう言った。


「そうかな? 君はずいぶんと雰囲気が変わったね」

「それは、ここのこと?」


 彼女はそう言って自分の鼻を指差した。


「あなたと別れてからすぐに整形したの」


 彼女の雰囲気が変わった理由はすぐに分かっていたけれど、あえて遠慮気味に言った僕の気遣いを彼女はあっさり無駄にしてそう言った。


「ずいぶんと綺麗になったね」


 僕がそう言うと彼女はありがとう、と応えた。皮肉を聞き流すみたいに。

 しかし、それは皮肉でも何でもなく、客観的で素直な感想だった。ある意味においては本当に彼女は美しくなっていた。


 僕たちのあいだには共有した一年半の時間があった。しかし、三年ぶりに出会った彼女からは、久しぶりというよりはまったく初対面の人と出会ったような感覚しか持てなかった。


 雰囲気が変わってしまったというよりは、彼女の面影を残したまったく別の他人と接しているような、奇妙な違和感だった。田舎の田園風景のど真ん中に近代的高層ビルがぽつんと建っているような、ハロウィンパーティーでジャックランタンに混じってネズミ男がこっそりと紛れこんでいるのを見つけたような、そんな違和感だった。


 彼女も駅に向かうところだったらしく、僕たちは駅まで一緒に歩きながら話をすることにした。

 彼女は昔と同じように僕の右側を歩きながら僕と別れてからのことを話してくれた。本当は僕と付き合っているときから整形しようと決めていたけれど、僕が彼女の鼻を褒めるので出来なかったこと。僕と分かれてすぐに整形し、その後に付き合った人と結婚したということ。そして今は幸せな家庭を築き、とてもハッピーだということ。


 確かに彼女は今、とても幸せそうだったし、その顔には僕と付き合っていたころには決して見ることの出来なかった自信が満ちあふれていた。

 彼女の鼻は五ミリ高くなった。そして彼女は美しくなり、自信に満ちあふれハッピーになった。それは間違いないのかも知れない。

 けれど、そんな彼女の顔からは僕が好きだった優しさや温かさといったものは、きれいさっぱり、跡形もなく奪い去られてしまっていた。それは他の誰でもなく本人の手によって。そして替わりに、そこには無機質で画一的な面白味のない、まるで現代社会のメタファーとでも言うべき鼻が取り付けられていた。


 僕はとても悲しい気持ちになったけれど、そのことについて僕が彼女に言えることは何もなかったし、何かを言うべきでもなかった。


 駅に着くと改札口の前で僕たちは握手を交わした。


「じゃあ、またね」


 彼女は幸せそうに微笑みながら、果たす気のない約束とも、ただの別れの挨拶ともつかない言葉を残してかろやかに去って行った。僕はその背中が見えなくなるまで彼女を見送ったが、彼女が振り返ることはなかった。


 ホームで電車を待つあいだ、きっともう二度と会うことのない彼女の、二度と戻ることのない昔の顔、死んでしまった彼女の鼻のことを思うと、僕はまた悲しい気持ちになった。


 メタファーとしての鼻は生まれ持って鼻が低いことよりも悲しいと僕は思う。

 電車に乗ると、流れてゆく景色を見送りながら、僕もまた死んでしまった彼女のいくつかに、またね。とつぶやいた。



* * * * * * *



 ずいぶんと長くなってしまったが、ここまで読んで頂いた方がいたならば、感謝したいと思う。



 4月1日という日を楽しんでいただけたならば幸いだ。

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