第二章 伝説の英雄と魔法使いの娘
〈ライオンとウサギ亭〉のビールとタイムパラドックスについての考察
欧州一の金融街、シティの小路の奥にある古いパブ〈ライオンとウサギ亭〉は、仕事帰りの客でごった返していた。橙色がかった照明は人ごみに遮られ、大きな影がゆらゆらと壁に映し出されている。
ジョシュアの前には、ビールがなみなみと注がれたグラスが置いてある。
一瞬、自分がなぜここにいるのか混乱する。数日前の記憶と目の前の光景が一致しすぎて、長いリアルな夢から覚めた気分になっていた。殺人事件が起きて時間旅行をする、奇妙な夢……。夢の余韻に浸りながら、ぼんやりした頭でビールを一口飲んだ。
「きっかり丸二日前、事件のあった夜だ」
はっとして振り向くと、すぐ横にハルがいた。
「……夢じゃなかったのか」
「
「……ヘイゼルは?」
「なんだって?」
周囲の喧騒で、すぐ隣にいるのに大声で話さないと互いの会話が聞き取れない。顔を寄せ合って叫ぶ。
「ヘイゼルはどこだ?」
「知らん。奴が二日前にいた場所にいるさ」
なるほどそういうことか、とジョシュアは理解した。根拠もなく、二日前の「時間迷宮の館」に降り立つものだと思っていたが、確かにそれでは二日前に存在していた自分との整合性が取れない。
ジョシュアは感慨深く店内を眺め回した。確かに二日前に訪れたパブだ。シティで取引がある日はよく立ち寄る、行き慣れた店の見慣れた風景。それが、時間旅行したのだと思うとなんとも新鮮に映る。
「本当に、一昨日のままだなぁ」
ジョシュアは感心して言った。
「おいおい、大丈夫か?状況がわかっているか?」
「大丈夫大丈夫。ちょっと浸らせてくれたまえよ」
ジョシュアは眼の前のビールを飲んだ。
「ビールだなぁ」
「当たり前だ」
「いいじゃないか。感動しているんだ」
「酔って殺人犯と渡り合えるのか」
「渡り合うつもりなんか無いよ。そんな腕っぷしが強く見えるか」
「見えんな」
「一昨日は十二時までは外出していたんだ。帰ったときにはまだ死体はなかった。だから十二時までに家に帰ればいいはずだろう?」
「どうだかな」
「どういう意味だ」
「今にわかるさ」
「気になるだろう。なんだ」
「―イスラエルの時間屋に行ったんだろう?そこの親父が言っていた話を覚えているか?」
「勿論だ。さっき話したじゃないか。過去は既に決まっている。そこへ行くということは」
「そう、既に決まっている過去を変えることになる。今、君が
「まさか。僕が来たことを殺人犯が嗅ぎつけて殺人をやめるのか?しかしそうしたら僕が明後日君の家に行く理由がなくなる」
「それがタイムパラドックスだ。過去を変えると辻褄が合わなくなる。君が私の家に来なければここにいる君も存在しないことになる」
「そしたら殺人はやっぱり起きるじゃないか」
「そんな単純なことじゃない。つまり、我々が来てしまったこの世界は、別の未来を歩むんだ。だが私達は元の世界に帰る。そのための砂時計だ」
ハルは砂時計をポケットから出してみせた。砂が落ちかけたまま、止まっている。それは逆さまにしても変わらない。
「実際、砂時計がなくても時間旅行は可能なのだ。しかし拠り所になるものを作っておくと、物同士が呼び合うのか、同じ時間・同じ場所に帰ってきやすい。砂時計はいわば道標だ」
その時、話している二人の間に小柄な女性が割り込んできた。
「あら失礼、こんばんは」
「こんばんは」
ジョシュアが応える。ハルは砂時計をしまった。
「ジョシュア、相手にするな」
「お仕事仲間?楽しそうなお話ですわね」
女性は、むしろ少女と言っていいほど小さく、酒場の高い椅子にちょこんと乗っかって、ようやくテーブルに顔が届いている。
「君、まだ子どもでしょう?こんなところに来ていいの?」
「おいジョシュア、話すなと言っている」
「あたしはグロリアよ。
少女はにっこりと笑った。酒場に出入りする娼婦とは違い、凝った刺繍の上等な生地を幾枚も重ねたドレスを着て、長いマントを羽織っている。肌は透けるように白く、丸い頬はまだ幼さを残し、青い大きな瞳が長い睫毛で縁取られている。丁寧に編み込まれた長い髪に、レースでできた古風な頭飾りをつけ、まるでフランス製のビスクドールのようだ。
「ジェントルマン、お名前はなんておっしゃるの?」
「話すんじゃないぞ」
ハルがジョシュアに低く囁いた。
「わからないな。さっきの話だと、結局、過去は変えてもいいってことじゃないか。どうせなかったことになるなら」
「だから、そう単純じゃないと言っている」
「どういうことだ。ちゃんと説明してくれ」
「説明するのは難しい。できれば、できるだけ過去を変えない方が安全なんだ。変動率が高くなると予測ができないことが起きる可能性が―」
「もう遅いですわ」
少女が意味ありげな笑みを浮かべて言った、その時だった。
酒場のドアを蹴破って、白馬が乗り込んできた。
いや、正しくは馬ではない。馬の背中には巨大な翼が生えていた。
【朗読はコチラ!】
https://youtu.be/8Mf8Hicf3vY
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