11、ダンダカ山のアラマー仙

 あの楽園は、緑の山の手前までだった。

 今、イェースズの目の前に広がっている世界は、赤っぽい土に覆われた大地に岩山である巨大な山脈が横たわり、威圧感をもって迫ってくるというような風景だった。山は幾重にも重なり、断崖となっている山肌から岩石が所々で顔をのぞかせている。

 何もかもがスケールが大きく、山全体からにらみつけられているようでもあった。空気も、いつしか冷んやりとしてきている。

 イェースズはそんな風景にしばらく呆気にとられていたが、いつまでも峠の上でたたずんでいても仕方ないので、向こう側の山との間の谷間へと下りて行った。

 そこは砂漠というような不毛の土地とも違って畑などもあったりするが、とにかく土が赤い。

 空には巨大な鷲が、三羽も旋回していた。

 そのうち向こうの方から、スードラらしき男が歩いてきた。天秤棒を肩に担ぎ、両端に下がった籠には石材がたくさん積まれていた。


「あのう、こんにちは」


 イェースズが声をかけても、その男は表情一つ変えずに無言で足を止め、じっとイェースズを見ていた。


「ダンダカ山は、どの山ですか?」


「ダンダカ山かね」


 眉間にしわを寄せて、スードラはすぐ目の前の山をあごでしゃくり、イェースズが礼を言う間も与えずそのまま目を落として行ってしまった。

 示された山は上に雪があるほどの天にそびえる山で、今ふもとを歩いている山の次の山だ。

 このまま谷間を歩いて行けば、ダンダカ山のふもとに出ることができる。割と広い谷底には小川が一筋流れており、それに沿ってイェースズは歩いた。

 果たしてダンダカ山のふもとに着いてみると、山はほとんど垂直の壁と言ってもいいくらいで、その壁がそのまま天まで続いているようだ。上の方はそのまま雲の中に入っているので、よく見えない。

 こんな山に登るのかと、イェースズは思わず身震いした。山とはいっても今までは単なる丘陵程度のものを想像していただけに、現実に直面した今の驚きはなお一層だった。

 緑は全くなく、総てが岩だけの山だ。イェースズはあたりを見回して、ふもとから山の側面を斜めに登る小道を見つけ、そこから登り始めることにした。

 なにしろ木も何もないわけだから、登った分だけ高さが分かる。そしてかなりの高さまで登ったように思われたが、上を見ると山はまだ遥かに高く大空にそびえていた。


 しばらく行くと、人々の一団に出くわした。皆スードラのようで、この場所が作業場になっており、石材を切り出す仕事に就いているらしい。

 イェースズが黙ってその五、六人の人々の間を通り抜けようとすると、そのうちの一人が作業の手を止めてイェースズを見上げた。


「どこへおいでなさる?」


「この山の頂上までですが」


「頂上? 頂上なんかに、何しに行きなさるだ。この先は、もう道なんかねえ」


 それはイェースズも重々予想していたことだったが、だからといってここで登るのをやめるわけにはいかない。


「大丈夫です。ありがとう」


 まだ何か言おうとしているスードラたちを後に、イェースズはさらに坂道を登った。

 果たしてそれからすぐの所で道は終わっており、あとはこの壁のような岩山をよじ登らねばならなかった。足場となりそうな適当な岩を見つけ、イェースズは両手両足総動員で岩山を登り始めた。

 とにかく登るしかない。もう、何も考えることもなく、彼は岩山を登ることだけに全神経を集中させた。汗がほとばしり、気温はかなり低くなっているから、熱いはずの汗が冷やされて額に当たる。

 そうしてまたかなり登ってから、イェースズは下を見てみた。一面の大地が遥か下の方にパノラマとなって展開し、遠くの折り重なる山並みまでもが霞んで見えた。

 その景色をほんの短い時間楽しんだ後、イェースズは再び上に視線を戻してよじ登り始めた。


 やがて、少し上の所に、ひと息つけそうな平らなスペースがあるのを彼は見つけた。そう広くはないが、人が一人休むには十分だ。とにかくそこまで上がろうと、イェースズは自分を励ました。

 あと少し、あと少しと平らな場所に近づいて行く。そしてその淵にようやく手をかけ、足に力を入れて上半身を平らな場所へとのし上げた。

 ところが次の瞬間、イェースズの体は全身が硬直した。息をつく暇もなく、その平らなスペースに爛々らんらんと光る目でこちらを見ている巨大な虎が寝そべっているのを、彼は見たのである。

 まだ完全に体を上に上げていないイェースズとその虎は、しばらく無言で向かい合う形になった。虎は何を考えているのか、じっとこちらを凝視している。その距離は、ほんの二、三歩くらいしか離れていない。

 そのままイェースズは、息をひそめた。虎はこちらを見ているだけで、飛び掛かってきたり動いたりするような気配はなかった。

 その時、「心の調和だ」という声が、イェースズの胸の中で響いた。心を調和させ、決してこちらから相手に敵愾心、対立の想念を持たぬこととだと自分に言い聞かせたのである。かつて、ジャガンナスでシャーミーとして修行していた際、野営の時に猛獣から身を守るためにつけた智恵だ。

 イェースズは思い切って、虎のいる平坦な場所に登りきった。虎は微かに足を動かしたが、また微動だにしない体勢となった。

 イェースズは、にっこりと笑って見せた。


「虎さん。あなたのお山にお邪魔してごめんなさい。どうか通して頂けますか?」


 穏やかな口調でイェースズは虎に語りかけ、より一層の笑顔を虎に見せた。あるのは、神への絶対的な信頼のみだった。

 すると虎はわずかな時間の後、その場に腹をつけて寝てしまった。イェースズは大きくため息をついた。それでも笑顔のままで、平らなスペースに上がりきると座りこんだ。

 もはや虎にはイェースズへの関心はないらしく、そっぽを向いている。緊張から解きほぐされたイェースズは、目の下に広がる吸い込まれそうな大パノラマを見ながら体を休めた。しばらくすると虎は四つ足で立ち上がり、一目散に駆けて行った。

 その時、イェースズの頭の中であることがひらめいた。虎が走って行ったということは、その後をたどって行けば少なくともどこかへ通ずる道があるはずだ。

 そこでイェースズは、虎が走り去ったほうに向かって歩いて言った。その後はもう崖をよじ登る必要もなく、道とはいえないまでも比較的楽な岩の足場伝いに、イェースズは山を登ることができた。


 そうしてまたかなりの時間がたったが、まだまだ頂上は遥か上にあった。やがて、霧が濃くなってきた。登れば登るほど霧は濃度を増し、目の前すぐの岩を見ることさえ困難になった。下界も何も見えず、一面が白の世界だった。イェースズは霧の粒を顔に受けながらも、とにかく頂上を目指した。

 するとそのうち、目の前の霧の中に動くものの気配を感じたイェースズは、思わず足を止めた。さっきの虎かと思ったが、どうもそうではないらしい。そこで足場を固め、這うようにしてイェースズはその方に近づいてみた。

 それは、人だった。しかも、老人だった。老人は岩場に倒れ、息も絶え絶えだ。


「おじいさん!」


 イェースズは慌てて、老人を抱き起こした。こんな山奥の、しかも高い所に老人がいて倒れているというのも不思議だったが、イェースズはそれよりも老人の安否の方が気になった。頬はこけて体中は骨と皮だらけであり、無気味なほどの形相だ。

 イェースズに抱きかかえられた老人は力なく目を開け、うつろにイェースズを見た。


「お若いの。わしにかまって下さるな。わしは恐ろしい流行病で、息子夫婦にこの山に捨てられたのじゃ。わしにかまうと死ぬぞ」


「いいえ。どうしてそんなことができますか」


 イェースズは手を差し伸べ、老人の額へと手をあてがおうとした。その瞬間、イェースズの体を霧よりも濃い雲が包み、イェースズはどんどん上へ通し上げられた。そして、あれよあれよという間に、イェースズは頂上に着いていたのである。


 頂上はかなりの広さに平らなスペースが広がり、あれほど苦労して登った高い山の上だと思えないほどであった。驚いたことに緑の木々が潤う森があり、しかも畑まである。

 すでにここは雲の上であり、下界を見ると雲の海が広がっていてるが、空には青空が広がって明るい陽光が降り注いでいた。

 畑と森の向こうには、石造りの小ぢんまりとした建物が見えた。畑仕事をしていた若い男が二人いたので、イェースズはその一人に尋ねてみた。


「ここは、どこです?」


「はい。ダンダカ山の上ですよ」


 男は、にっこり微笑んで答えてくれた。


「あの建物は?」


「アラマー仙の家です」


 イェースズはそれを聞き、急いでその建物のそばに歩いていった。入り口は鉄の扉であったが、イェースズがその前に立つと扉は自動的に開かれた。

 イェースズが恐る恐る入ってみると、すぐ正面の部屋の中央に壮年の僧が一人、こちらを見て座っていた。イェースズが入るなり、そうはニコリと笑って口を開いた。


「ようこそ、イェースズ」


「え?」


 イェースズは、思わず立ちすくんだ。彼にとって初めての場所であるこの山の上で、しかも初対面の人からいきなり自分の名前を呼ばれたのである。

 しかも、この国での名乗りのイッサではなく、本当の名を呼ばれたのだ。その名で呼ばれることは、実に久しぶりだった。


「私がカララー仙の四代目の子孫のアラマー仙だよ」


 イェースズはカッと目を見開き、それから満面に笑みをたたえアラマー仙の近くに走り寄った。


「ご苦労だったね」


「え。あ。はい。あ、あの……、あ、いいえ。それよりなぜ、僕の名前や、僕が来ることを知っていたのですか?」


「シュバラーの力だよ」


 観自在シュバラーの力は、それをひとたび得ると何でも分かってしまう。人が考えていること、これから起こることなど、何でも見通せてしまうのだ。


「イェースズ、君が来ることは分かっていた」


 それは自愛に満ち、それでいて威厳のある言葉だった。イェースズの目からは、とめどなく涙があふれ出た。

 アラマー仙は、ひと声笑った。


「この山を登るのは、大変だったろう」


「はい。でも、ひとたび登ってしまえば、あの苦労が嘘のようです。それに、不思議なこともありました」


 イェースズは雲に包まれてここまで持ち上げられたことを語ろうと開いた口で、思わず、


「あっ!」


 と、叫んでいた。部屋に大虎がのっそりと入ってきて、アラマー仙の隣にどしっと寝そべったのだ。


「あの……その虎は……?」


「これかね」


 アラマー仙は、さらにニコニコと笑顔を作った。


「私の相棒でね」


 虎のあごの下を、アラマー仙は二度ほどなでた。虎は気持ちよさそうに目を閉じていた。それは、ここへ来る前に山中で出くわした虎に相違なかった。

 イェースズが驚いていると、アラマー仙は不意に立ち上がって腕を挙げ、両手をイェースズの方に向かってかざした。

 イェースズは一瞬、頭がくらっとするのを覚えた。目を凝らして見ると、そこに立っていたのは山中で倒れていたあの老人だった。アラマー仙の姿はどこにもない。

 イェースズが呆気に取られていると、


「驚かせて悪かったな」


 と、アラマー仙の声がしてたちまち老人の姿は消え、アラマー仙が代わりに立っていた。


「いたずらというわけではなかったがね、老人に化けていたのは私だったのだよ。君をお迎えに行ったのだ」


「え? あの、ご老人が?」


「そう。君は山を登ることも忘れて、老人となっていた私の身を案じてくれた。もしあの時、老人であった私を見捨てて君が山に登ることばかりに執着していたら、次の瞬間には再び山のふもとにいる自分を発見しただろうね」


 アラマー仙は、再び腰を下ろした。


「ところで、君がここに来た理由も分かっているが……」


 そこで一つ咳払いをするアラマー仙に、イェースズは膝を詰め寄らせた。


「教えてほしいんです。ブッダの本当の教えを」


「それを知って何になる!」


 今までとは打って変わったびしりとした厳しい口調で、アラマー仙はイェースズの言葉をさえぎった。イェースズは思わず、ぴくりと体を硬直させた。


「いいかね。どんなに素晴らしい教えでも、それ聞いてを頭で理解しただけでは何にもならない。素晴らしい教えを聞きさえすれば、この人について行きさえすれば救われるなどというような甘えた考えでは、真理には到達できない」


「では、どうすればいいのですか?」


「自分で考えることだ。私に言えるのは、それだけだ」


 イェースズは何と返答していいか分からず、黙ってうつむいていた。


「どんな素晴らしい教えでも、それを受け売りして人に説いたところで波動は伝わらない。自ら実践し、体験し、自分の血と肉にすることが大切であろう。そうではないかな? この国で君は、民衆の心を開かせることはできたかな? シシュカルパルフでもカーシーでも、そしてサンガーの近くの村でも……」


 すべてが知られている。やはりここにいるのは、並大抵の人ではなさそうだ。そのひと言ひと言がイェースズにとって思い当たることばかりだったので、彼は何も返す言葉がなかった。


「とにかく君は、まず真理を入れる器を作ってまいれ」


 器を作ると言われても、果たしてどうすればいいのか……イェースズがそう思っただけで、


「器を作るにはな」


 と、すぐにアラマー仙の答えはすぐに返ってきた。


「心の垢を落とすのだ。これから七日間、この山の森に入って禅定し、心の垢を落として来い」


 かつてはじめてブッダ・サンガーに入門した時も、同じように七日間の禅定を言い渡された。その時は八正道を基準に心を正して来いと言われただけで、しかも禅定中にさまざまな悪霊が僧たちに憑依するのを以前に目撃したこともあったから、適当に山中に七日間座って帰ってきただけだった。心を正せと言われても、あまりにも漠然としていたからだ。


「ブッダ・サンガーに入る時の禅定は、形骸が残っておるのにすぎぬ」


 イェースズの想念を読み、アラマー仙は何でも先読みして答えてくれる。いちいち言葉で告げる必要がないので便利といえば便利だが、ほかの一面では恐くもある。


「いいかね。森の中で七日間、生まれてからこのかた自分が生きてきた姿、そしてその心を徹底的に点検し、反省するんだ。そのための禅定だ。決して自分を裁くでないぞ。裁くのではなく、悪かったことはス直に詫び、二度と同じ過ちをせぬことを誓うのだ。それが改心だ。そうすることによって心の垢は洗われ、神の光が一気に注がれる」


 その言葉のどれもが、ブッダ・サンガーでは聞いたことのないものだった。


「無心で行け。無心とは心を失くしてカラにすることではない。ただひたすら神を想う心、それが無心だ」


 そこでまた、イェースズの中に疑問が生じた。心、心と言うが、心よりもっと奥の大切なものがあるのではないかという疑問だ。


「確かに、もっと大切なものはある」


 イェースズは、しまったと思った。アラマー仙の観自在力を、ほんの一瞬でも忘れてしまっていた。


「こうした方法は確かに手間が掛かるし、遠回りだ。ブッダの頃は、もっと手っ取り早い方法もあった。世尊とその高弟マハー・モンガラナー亡き後は、この方法しかないのだ」


 とりあえずス直になってみようと、イェースズは思った。もうすぐ夕暮れになるので少しはためらいもあったが、


「行け!」


 力強いアラマー仙の言葉が、イェースズのそんなためらいを吹き飛ばした。


「はい」


 慌てて返事をすると、イェースズは立ち上がった。


 夕闇迫る中、イェースズは外に出た。いつの間にか現れた若い僧が、イェースズを禅定の森へと案内してくれた。手には長くて薄い板状の木の棒を持っている。


「ここがいいでしょう」


 案内の僧は、ある大木に下を示した。イェースズはそこに座った。あたりを見回していた僧は、近くで禅定を組んでいた別の僧の所に慌てて飛んでいった。そして手にした棒で、禅定の僧の背後の空中を払っていた。

 イェースズが腰を下ろしてそれを見ていると、若い僧はイェースズのそばに戻ってきた。


「安心して、禅定に入りなさい」


 その僧の先ほどの行動については、イェースズはだいたいの察しはついていた。

 心が不調和なまま禅定に入ると霊が憑依してきてかえって危険な状態になるし、その現場をイェースズは目撃したこともある。人は精神統一すると、霊にかかられやすくなるのだ。

 さすがにアラマー仙はそのことを知っているらしく、また棒を持っている若い僧も霊視が利くらしい。禅定に入っているものに霊が憑かろうとすると、霊が嫌う南天の木で霊を払ってくれているようだ。

 それならと安心して、イェースズは禅定に入った。


 まず八正道を、イェースズは心の中で反芻してみた。

 正しく見る、正しく思う、正しく語る、正しく仕事をする、正しく生活する、正しく道に精進する、正しく念ずる、正しく定に入る……これらを基準として今までの生活を反省することを、イェースズは要求されたわけだ。

 イェースズはさかのぼれる限り、つまり物心ついて直後の自分とその環境を頭の中に描こうとした。もう断片的にしか記憶が残っていない時代だが、ガリラヤ湖の湖畔、カペナウムの町での大工の息子としてよちよち歩いている自分をイェースズは思い浮かべた。


 あの頃はいつも近所の悪がきにいじめられ、泣かされて帰ってくる毎日だった。そして弟のヨシェが、常に身代わりになってくれたものだった。

 思い出そうとしてみれば、鮮やかに当時のことが頭の中で再現される。そしてそこには五歳の自分が主人公として、今の自分には関係なしに存在している。

 その昔の自分が果たして正しく物事を見て、正しく物事を考えて判断し、正しく言葉を語り、正しく生活し、正しく真理を求め、正しい願望を持ち、正しく自分を見つめていたかどうか、今の自分の目から昔の自分を客観的に見ていくのだ。

 ヨシェは自分といじめっ子の間に入り、いじめをやめるようにいじめっ子を説得している。そんなことでいじめをやめる連中ではないから、今度はその攻撃が一斉に弟へと向かう。いつもヨシェはそれに耐えていた。そしてそのすきに、イェースズはこそこそと抜け出しては泣いて家へと走って帰っていたものだった。

 目を閉じていると、泣きながら走っていく自分が見える。ただ姿が見えるだけではなく、その心の中までありありと分かるのだ。

 弟が身代わりになっていることなど、五歳のイェースズの頭の中にはなかった。ただ自分だけがその場から逃げ出せばいい、苦しみから逃れればいいという思いがあるだけだった。逃げたとて逃げられるものではないということは今なら分かるが、昔の自分はそれどころではなかったのである。

 ところが今の彼の目には、いつも兄をかばい、それによってひどい目にあっても恨みごと一つも言わず、あとからけろっとして帰ってきた弟の愛がいやというほど分かる。これ以上の愛があろうかと、今のイェースズなら戦慄さえ覚える。そんなことにも気づかず、昔の自分はそれが当たり前だと思っていた。


 イェースズはがっくりと頭をたれた。弟への申し訳なさが胸の中から熱くこみ上げてきて、居ても立ってもいられない気持ちになったのだ。イェースズは心の中で何度も弟に対して詫び、その愛に感謝した。

 しかしそれは今のイェースズであって、五歳の少年イェースズの心の中にはまだどろどろとした憎悪の念が渦巻いていた。いじめっ子たちへの恨み、憎しみは、少年イェースズの中で簡単に消えそうもない。


 イェースズは、瞑想しながらも深く息を吸った。

 今のイェースズなら、すべてが自分に原因があることが分かる。輪廻の法を学んだ以上、現在の結果を見れば過去の原因が分かるというブッダの因果律と照らし合わせれば、自分をいじめる者に対して自分が前世でどんなひどい仕打ちをして来たかを痛感できる。

 いじめられているという事実によって、自分が積んできた罪穢が認識できるというものだ。その前世の罪穢というものは現界に居る限りは分からなくなっているものだから、いじめという現象を通して自分の罪穢を教えてくれて、さらには罪穢のアガナヒまでさせてくれるいじめっ子たちに本当はむしろ感謝をしなければならなかったのだ。

 しかし、昔のイェースズはそのようなことは知らず、ただいじめっ子たちを恨み、憎み、そんな怒りの想念が渦巻いていた。自分かわいさの自己保存欲と、自分への執着以外の何ものでもなかった。

 しかもいじめっ子たちはイェースズの罪穢を消してはくれたが、いじめという行為によって自分たちが新たな罪穢を積んでしまったのだ。そんな罪穢を積ませてしまったということに、イェースズはさらに申し訳なさがこみ上げてきた。

 彼らとて今はもう青年に成長しているであろうが、イェースズをいじめていた心が核となって現在の彼らを形成しているはずだ。イェースズは今にも飛んでいって彼らを探し、詫びの言葉を告げるともに真理の法を伝えて救ってあげたい衝動にかられた。


 あの頃の自分は、正しく自分自身を見つめていなかったとイェースズは実感した。正しくとは偏りのない中道の心で、恨みや妬みなど人を害する想念がない調和の心である。

 しかし、憎たらしいやつは憎たらしいんだと、少年のイェースズは反駁してくる。だが、少年イェースズがいじめっ子たちを憎たらしいと思っていた以上に、いじめっ子たちもいじめの背景に、少年であったイェースズを憎たらしいと思っていたはずだと、今のイェースズは思い当たった。

 少年イェースズはすぐに嘘をついていたし、自分が彼らとは違うエッセネびとであることを鼻にかけ、自分だけが特別で偉いのだという態度を誇示することも往々にしてあった。

 そんな自分であったから今にして思えばいじめられて当然であったし、いじめさせてしまったという申し訳なさが再びイェースズの心中に湧きあがってきた。


 大自然と一体化し、その中で自然の一部とし生かされていたのに、その自然の恩恵を感じることもなく、それが当たり前だと思い、あたかも自然の征服者のような錯覚を持っていくらしていた昔のイェースズであった。

 弱い小動物を捕まえては残酷な方法で殺したり、虫を捕らえては面白半分にいたぶっていた。

 いじめっ子にされていたことの数倍の苦痛を、自分はもっと弱者にしていたのである。そんな自分であったのに、教えを聞いたからといって受け売りし、「食べること以外には、どんな生き物でも殺したら罪になります」などと説いていた自分がこの上なく恥ずかしく思えてきた。

 まさしく赤面ものだ。こうして反省して心の垢を取った上での説法でないと、波動は伝わらないようだ。


 その時、野獣の遠吠えが聞こえた。イェースズは少しだけそれに意識を向けたが、すぐに反省の禅定に戻った。もう、とっぷりと日は暮れている。

 イェースズは、今度は父母のことを思った。幼いイェースズにとって父母を含め、すべての大人が敵愾心てきがいしんを抱く対象だった。大人はすぐに子供の遊びを邪魔すると、ぶつぶつと文句を言っている幼い自分が見える。

 今のイェースズなら大人の言い分も分かるが、少年イェースズは大人によって傷ついていた。いじめっ子たちと違って、大人は愛ゆえに自分を教え導こうとしてくれた。幼い自分は、その愛を愛と感じることもできなかったのである。

 今さらながらイェースズは、両親が自分を育てるためにどれだけの愛を注いでくれたかを痛感する。父は自分の成長を楽しみに、仕事に精を出していた。母も厳しく自分を導いてくれた。

 そして何よりも今こうして肉体を持って現界に存在しているのも、すべて父と母のお蔭なのである。それだけでも父母の恩は空よりも高く、ましてや十数年も育ててくれた恩は海よりも深いといえる。

 そしてそんな父母に、自分は今まで一度でもいいから心から感謝をしたことがあっただろうかと、イェースズは胸が締めつけられる思いだった。

 今自分がここの存在しているのは、両親に望まれて生まれてきたからだ。そして愛に包まれて育てられたその愛に、自分は万分の一でも報いただろうかと思う。そして報いる前に、父は逝ってしまった。


 昔、母はよく「幸せだな」と言っていた。イェースズは、「何が幸せなものか」と、心の中で反抗していた。足りる心、感謝の心よりも、もっと幸せな人はいると、むさぼる心、不平不満が渦巻いていた。両親のそんな愛さえ理解できなかったイェースズだから、ほかの大人には反発しかなかった。

 確かに大人の方に非がある場合もあったが、それを思った途端に幼いイェースズは、たちまち今のイェースズに反撃を開始する。大人は汚いし、許せない……確かに成長した今の方が、むしろ大人の裏が見えていたりする。

 だが、許せないという想念は、自分がまだその人よりも魂が下であるという証拠なのだ。大自然の調和は、互いに許し合い、譲り合って成り立っている。雲が自分を隠したとて文句を言う太陽はない。仲間が虎に食われたからとて、それが許せずに団結して虎に歯向かったという野の動物の話も聞いたことがない。

 広く円い心で人を許していくこと自体が自分の心の広さを表すことだとイェースズは幼い頃の自分を説得し、許せなかった人一人一人を許していった。

 誰もが、人を裁くことはできない。なぜなら、自分は裁かれずに許されているのだ。許されて、大地の上で息をしている……すなわち、はかりしれない罪穢を思うとき、許されてこうして生かされていること自体が奇跡なのである。

 決して、人を裁けるはずなどない……だから、果てしなく人を許していかなければならないのである。神様からの莫大な借金を背負って生きているお互いなのである……今のイェースズの心には、ス直にそのことを受け入れられた。


 そこまで考えて、イェースズはさすがに眠気を感じてきた。森のあちこちでは、かがり火が焚かれている。イェースズは五歳の時に急に自分が身につけた不思議な力について考えようとしたが、さすがに睡魔には勝てなかった。


 次の日も、快晴だった。ひんやりとした空気が、木々の香りと共に全身を包んだ。だが、寒くはなかった。また暑くもなく、天候による不快感は全くなかった。

 イェースズは再び大木の下で禅定を組み、昨日の続きの反省をしてみることにした。精神統一して霊がかりそうになれば、霊視のきく僧が南天の木の板で霊を払ってくれるから安心だ。

 朝食はすでに済んでいる。食事は係の別の僧が配りに来てくれるので、自分で果実などを採取する必要もない。

 イェースズは眠ってしまわないように半分だけ目を閉じ、不思議な力が突然与えられた日に記憶をさかのぼらせていった。

 まぶたの裏に青々と水をたたえたガリラヤ湖が浮かび、普通の少年だった自分になぜ不思議な力が与えられたのかと、イェースズはそのガリラヤ湖の青い湖水を見つめながら思い出そうとしていた。

 その時は、とにかく自分をいじめるものが憎いという、そんな憎しみがすべてだった。それが強力な念の力を作り上げていった。

 その力で、イェースズはずいぶんと恨みの思いを晴らした。ゼノンの全身の力を奪い、すれ違いざまにぶつかってきただけの子供の足を枯らしてしまった。しかしその後で心は満足していたかどうかということを点検すると、確かに表面ではやったとばかりに躍り上がっていたが、内心では調和どころか嵐の海のように波立っていた。

 その力がどこから来たか、なぜ突然自分に与えられたのかは、今もって分からない。いずれにせよ、その力で許されるはずもないことをしたのに、今も許されて生かされている。

 昨夜は自分が許さなければならない人を一人ずつ許していったが、今は自分が許しを請わなければならない人の方が遥かに多いことを痛感していた。そして、神に対してもである。


 学校へいってからも、教師ラビをずいぶんと苦しめてきた。教師たちに対して、生徒のイェースズは自己顕示欲そのものだった。と慢心のかたまりだった。自分には特別な力があるから神の独り子で、何でも知っていると思っていた。万人が等しく神の子であることを自覚した今ならそのような考えは馬鹿げたことだと分かるし、分かるだけに過去の自分に対して赤面を禁じ得ない。

 しかし、赤面したとてことが済むわけではない。とにかく、今は詫びるしかなかった。そしてそんな罪深い自分が許されて今も存在させていただけていることへの感謝という言葉の意味が、イェースズははじめて分かったような気がした。


 イェースズは、地面に頭をこすりつけんばかりだった。涙がとめどなく流れる。この山に来て、こんな残酷なことになろうとは予想だにしていなかった。

 誰でも現界に新たに誕生した時はその心は丸いはずだったが、成長するに従ってというとげを出し、イガイガになってしまう。神から頂いた時は水晶の玉のように透明だった魂を、再生転生を繰り返すうちに罪穢によって曇らせてしまったため、心もトゲトゲになってしまうのであろう。

 我と慢心、自己顕示欲、そしてものごとへの執着、これらのものほど調和とは正反対のものはない。


 幼いイェースズはいつも、「あなたはお兄ちゃんなのだから」という親の言葉に、いつも反発を感じていた。長男に生まれて損したと、いつも感じていたのである。自分が長男である以上、下の弟たちは自分に服従すべきだと思い、自己保存への執着のみで生きていたような自分だった。

 長男だからこそ弟たちを愛とまことで導かなければならないという下座の心など、微塵もなかったのである。そんな幼いイェースズが今のイェースズに食ってかかり、それを説得するのは容易なことではなかった。

 山ほどに積まれた神様からのお借金を返済するには、よほど人を救って歩かなければならないと、今のイェースズは実感する。

 そんなつるぎやいばの上を歩んでいたような少年時代だったのに悪魔に足を引っ張られなかったのは神の御守護と、そして父母の愛であったと、今さらながらにイェースズは気づいた。

 そして母に告げられた、衝撃的事実があった。自分の存在のために、何千という新生児がヘロデ王に殺されたのだ。


 もう立ち直れないほどの自己嫌悪に陥りそうになったイェースズであったが、一筋の光明は、アラマー仙が自分で自分を裁くなと言ってくれたことであった。罪穢をサトってお詫びをし、お借金返しのための積極的なアガナヒを明るい想念でしていけばいいのだ。

 イェースズは、生理現象を覚えた。こればかりは禅定中だとて致し方ないことで、決められた場所へ行って用を足した後、イェースズは森の中を流れる川で沐浴した。川を流れる水は、身を清めてくれる。

 そして反省は心の垢を清めてくれる。しかし、曇った魂はどうしたらいいのだろうかと漠然と考えながら、イェースズは無心に水を浴びた。程よい水温で、とても気持ちがよかった。


 三日目も四日目も、イェースズの反省とお詫びの行は続いた。こうすることによって、心にしっかりと不動の姿勢が形作られることを、彼は感じていた。徹底して厳しく、自分のこれまでの心のすべてを漏らすことなく点検し、正すべきところはただして行った。その基準が八正道だった。

 高次元に住む浄き貴き方ははこんなことはしない、浄き貴き方ならきっとこうなさるだろうと、それが基準だ。

 イェースズがいた精舎のヒーナ・ヤーナは、肉体的苦行こそなかったが精神的には徹底的な厳しさが求められた。それに対して、アジャイニンのいた精舎のマハー・ヤーナは、実に大らかであった。

 だが、自分自身に大らかすぎても、それは本当の修行かというと疑問が残る。どちらも両極端で、ブッダのいう中道とは程遠いのではないかと、五日目の禅定でイェースズは感じはじめていた。

 ヒーナ・ヤーナのように自分に厳しいと、ついつい他人にもその厳しさを求めてしまう。例えばシシュパルガルフでもカーシーでも自分の話を聞くために多くの人が集まってくれたが、イェースズは自らの血や肉としていない教えを、ただ押し付けていたのではないかということが反省された。たとえ教えの内容自体は正しくても、相手の心を考え、相手のレベルまで下座することもなしに上から目線で言葉を語っていた。

 どんなに正しいことでも、自分に厳しくするあまり他人にまでそれを押し付けてしまうのは、本当の愛ではないと感じられたのだ。

 厳しくするときは厳しさも必要だろうが、その厳しさは自らへの厳しさに裏打ちされたものでなければならないはずだ。もちろん、マハー・ヤーナのように大らかなだけで、他人を甘やかして優しくするだけなのも本物の愛とは思われない。

 まず他人に厳しくする前に、自分に厳しくすることが大切だとイェースズはサトった。自分への厳しさを縦に、他人への大らかさを横にして二つを十字に組んだものが、本当の愛ではないかと思ったのである。

 これこそ神の愛だと、イェースズは直勘した。自分に甘く人に厳しくするのは最低で、ヒーナ・ヤーナとマハー・ヤーナの中道とは、他人にはマハー・ヤーナで自分にはヒーナ・ヤーナということではないかとサトッたのだ。


 太陽の光とて温かくて気持ちのよいものだが、直接に見れば容赦なく目を焼いてしまう。そして時には強く照りつけ、身をも焦がさんばかりになる。しかしこの強烈な日光があってこそ植物は青々と力強く繁るのであり、そうでなければすべての植物は背が高いだけのひょろひょろとしたものになってしまうであろう。


 そのことを前提にしてイェースズはもう一度今までの記憶のベールをはぎ、自分の過去をもう一度点検していった。その過程で、決して人は裁けないということが、あらためて認識させられた。計り知れない負債を負っている自分の罪穢を思うと、決して人を裁けないと思った。

 だが同時に、どんなに罪深き自分であっても、その自分を裁くなというアラマー仙の言葉が再び彼の中に蘇った。罪深い自分でも、今日もこうして生かされているのだ。さらには、細やかな至れり尽くせりの神仕組みの中で、何不自由なく生活できるように一切が与えられられている。

 そのことを当たり前のことではない、有り難いとしみじみと感謝した。

 反省とは自分を責めることばかりではなく、自分自身をよく見つめ直すということであると、この六日にわたる禅定で彼は感じていた。つまりは、自分のよいところの確認も必要である。そのよいところは、結局は神より与えられた使命を発揮するためのものであるから、そのこともまた謙虚に感謝することが大切であるとしみじみと感じたのである。

 そう思うと自責の念の暗さからは解放され、明るい喜びで心は充実し、生きる喜び、生き甲斐が不思議と湧き起こってくるのを実感したイェースズであった。

 それはまさしく天国だった。天国が自分にとって相応の世界になったということである。つまり、天国にいる人々と全く同じ想念と心になったということで、そのために彼は六日かけて「天国にいらっしゃる方はこんなことはしない。天国にいらっしゃる方々ならきっとこうなさるだろう」ということを基準に自分の人生をことごとくやり直したのである。


 そして禅定も明日で終わりという六日目の夜、瞑想を解いて現実に戻ったイェースズは眠りにつくことにした。

 その時、自分の体に、いつも人に手を当ててエネルギーを注入しているときのような力が満ち溢れてくるのを感じた。一度は横になって目を閉じていたイェースズだが、目をそっと開けてみると、周り一面が黄金色の光の洪水となっていた。現界の光とは明らかに違う霊光だった。

 イェースズは、跳ね起きた。すると、夜の闇などどこかへ飛んでいってしまったのではないかと思われる光の渦の中に、やはり光り輝く人が立っていた。

 それは女性だった。目を凝らすと、果たしてかつて対面した生来は女性であるゴータマ・ブッダであった。

 イェースズは、慌てて居を正した。

 懐かしげな表情で、慈愛に満ちた眼差しをもってにっこりと笑ったブッダはイェースズをじっと見つめていた。あたりは今までイェースズが禅定していた森の中であるのかあるいはそうでないのか分からないくらい、おびただしい黄金の光で満ち溢れていた。

 イェースズも、ブッダを歓喜の目でじっと見つめていた。

 まぎれもなく、あの不思議な世界で出会ったブッダだった。よく地獄の邪霊や魔王マーラ、または動物霊などが、自分は神であるとか天の使いであるとか名乗って現れることがある。

 しかしその場合、これほどまでの慈愛の光明に包まれていることはまずない。たいていはおびただしい悪臭とともに、居丈高な態度で出てくるものだ。

 第一、イェースズの目の前のブッダが邪霊の化けたものなら、霊視のきく付き添いの僧が南天の板を振りかざして走ってくるはずだ。だが、その様子もない。


「正しくお座りなさい。姿勢を正し、背筋を伸ばして。そして、肩の力を抜いて、その気を臍下せいか丹田たんでんに収めなさい」


 ブッダは優しく、イェースズに語りかけた。


「そう。膝と膝を合わせ、足首を下にして」


 こんな座り方を、イェースズはしたことがなかった。直接地面に座る時も、あぐらをかいていたのだ。


「あなたは、だいぶ器ができてきましたね」


「恥ずかしいことばかりです。自分がこんなに罪深い身だったなんて……。お詫びしなければならないことが多すぎます」


「これまでの自分を、想いの界でひっくり返すことが大切ですよ。神様の世界は肉体や物質の世界ではありませんから、眼や耳や鼻や舌や身や意識などという肉体を通しての現象は通じません。まずは想いの界をひっくり返し、あとはそれをどれだけ形に表すかが大切です」


「はい。有り難うございます」


「罪穢も深いけれど、因縁も深いんですよ。とにかく私が現界で教えを説いていた時に強調してきたのは、反省の大切さです。それは八つの正しい心の物差しを基準に、偏らない立場で現在・過去・未来にわたる輪廻の輪の中で今を止観して心を正すことです。一切の執着、とらわれの心、こだわりの心は地獄ですよということを教えてきました。しかし今のサンガーはそんな簡単な教えを人知の屁理屈でこね回して、哲学にしてしまいました。そのことで今、私は霊界で大変苦しい思いをしています」


 ブッダほどの人もあちらの世界で苦しむこともあるのかと、イェースズは不思議に思った。


「あなたは私の教えを、しっかりと受け継いでほしいのです。でも、今ここで私がすべてを教えてしまうのは、あなたにとってよくありません。どうかあなたは絶対他力の中で生かされつつも、与えられた自力で精一杯精進して、自覚、すなわち自己確立をして下さい。私とあなたは現界で下ろされた場所も違うし、役目もそれぞれ分担しなければなりません。私の教えは東の国で、あなたの教えは西の国で栄えるでしょう」


「では私はこれから、いったどうしたらいいのですか?」


「すべては、アラマー仙が示してくれるでしょう。その前に、大切なことがあります。あなたは反省によって心を清めました。しかし、もっと重要なことは、魂の問題です」


 それだ! と、イェースズは心の中で叫んだ。今まで、わだかまりの一つになっていたことだ。


「心を清めただけではだめで、その奥にある魂を浄めなければなりません。それができるのは反省などという心の行ではだめで、唯一神の光によってのみ可能となります」


 でもどうやって? と、イェースズが言葉に出して質問を発する前に想念は伝わり、ブッダはイェースズに一歩近づいてきた。


「さあ、手を合わせて、目を閉じなさい。私がいいと言うまで、目を開いてはいけませんよ」


 イェースズは、ス直にそうすることにした。

 目を閉じてしばらくしても、ブッダから何も語りかけられることはなかった。ただ静寂だけが、周囲を支配していた。

 まぶたの裏が、明るく感じた。それだけではなく、ひたいの眉間の部分がものすごく熱く感じ、エネルギーが額の奥まで集中してくるようだった。

 いったい自分が目を閉じている前でブッダが何をしているのか、目を閉じたままのイェースズには分からなかった。しかしエネルギーが額から全身に回り、体中に力があふれてくるようだった。

 かなりの時間が経過したように思われた頃、


「はい、静かに目を開けてください」


 と、言うブッダの声がした。その声にイェースズがそっと目を開いた時は、あたりには森林の夜の闇が広がるだけの現実のみが存在し、ブッダの姿も光の洪水もどこにもなかった。

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