7、ブッダ・サンガーへ

「ラマース!」


 イェースズは大声で叫びながら、血まみれのラマースを抱き起こした。

 ひどい……頭から肩にかけて何度も硬いもので殴られており、傷口が破裂してこの流血だ。


「ラマース。僕だよ。分かるか? ラマース」


 イェースズは、ラマースの体を軽くゆすってみた。ラマースは、微かに眼をあけた。まだ息はあるようだ。

 しかし、目を細くあけたままそれ以上ラマースは何を言うでもなく、ぼんやりとイェースズを見ていた。しばらくしてから、ようやくその口元が動いた。

 しかし、何かを言う力はないらしい。


「ラマース、無理するな。待ってろよ」


 イェースズはそっとラマースを地面におろすと、その血で濡れた額に右手を当てた。そして宇宙のエネルギーを集中しようと強く念じると、たちどころに体全体が温かくなり、そのエネルギーは手のひらを通してラマースと流れ込んでいった。

 今度は左手を、ラマースの右肩のいちばん傷が大きく開いてる所へと当てた。まだ血は流れ出しており、どろどろとした生温かい感触がイェースズの手に触れた。


 周りの人々は、この若者がいつも説法しているイェースズだと分かったので、息をこらして成り行きを見守っていた。

 だいぶ時間が流れてから、ラマースは今度ははっきりと瞳を開いた。そして、まるで何事もなかったかのように当たりの人垣を見回した。

 人垣の中からはどよめきが発せられた。イェースズはラマースに当てていた手を離し、その肩を抱いてゆっくりと立ち上がらせた。まだ、足はかなりふらついている。


「大丈夫かい。歩けるか?」


 ラマースはゆっくりうなずいたが、まだ事態を正確には把握していないようだった。もう一度あたりを見回すと、最後に彼を抱き起こしたイェースズと視線を合わせた。それからはじめて、


「あ、イッサ」


 と、彼は言った。イェースズはにっこり微笑んだ。

 それから自分が住んでいる家にラマースを連れて帰ったイェースズは、自分のベッドにラマースを寝かせ、まだ完治していないラマースの傷の手当を行った。

 手当といっても文字通り本当の「手当」であって、手のひらからエネルギーを注入するだけだ。


「しかし、君がこの町に来ていたなんて……」


 イェースズは念を集中しながらも、ラマースに話しかけた。ラマースの顔には、この一年で成長した様子が十分にうかがえた。


「どうしてカーシーに来たんだ? それにこんな状態になるなんて、いったい何があったんだ」


「イッサ、君のことだよ」


 イェースズの顔が、一瞬こわばった。ジャガンナスではイェースズを連れ戻す最後の手段として、自分といちばん仲のよかったラマースを使おうとしたのかとイェースズは思い込んだ。


「僕、ジャガンナスには戻らないよ」


 先回りして、イェースズの方からラマースにそうつぶやいたが、だいぶ元気になっていたラマースはしばらく黙ったあと、横たわったまま首を横に振った。


「そんな生やさしいことじゃあないんだよ」


 確かにイェースズを連れ戻しに来ただけなら、なぜラマースがこんな血みどろなって路上に倒れているいたのかということになる。

 イェースズは頭が混乱して、何が何だか分かなくなってしまった。


「ヴィシュヴァナートは大変だよ。もう完全に君のことで大騒ぎになっている」


「知っているさ、そのことは」


「実は全ヨジャーナの大寺院に、すべてのバラモンはヴィシュヴァナートに終結するよう召集がかかったんだ」


「え? バラモンを?」


 しかし、カーシーの町にバラモンがあふれ出しているという様子は、まだ感じていない。


「まだ、バラモンなんか集まっていないじゃないか」


「シシュパルガルフは近場だからね。ジャガンナスは第一陣だろう。これから、きっと続々と集まってくるはずだ。何しろ召集はアーンドラ王国やカリンガばかりでなく、南のチョーラやパンドヤにも及んでいるからね」


「しかし、なぜ急にそんなバラモンがこの町に集まるんだ?」


「僕も最初は分からなかった。しかし来てみてはじめて分かったんだが、全部君一人のことでじゃないか。びっくりしたよ」


「え?」


 びっくりしたのは、イェースズとて同じだった。確かにヴィシュヴァナートが大騒ぎしていることは知ってはいたが、これほどまでとは思わなかった。いったい今、ヴィシュナヴァートにそんなにも多くのバラモンが集まって、これから何が行われようとしているのか? そしてこのラマースの流血は……?

 イェースズはそれを思うと、急に背筋が寒くなってきた。父の死の知らせに一時は感傷的にもなっていたイェースズだったが、今の状態はどうやらそれどころではないようであった。


 ラマースの話によると、ことの起こりはちょうどイェースズの説法につき従う人々の群れが、雪だるま式に膨張し始めていたころのことだったという。

 今までただ神の使いとして民衆の上にあぐらをかいていればよかったヴィシュヴァナートのバラモンたちは、その民衆が集結し膨張しはじめると次第に民衆の力を脅威に感じはじめていったようだ。

 クシャトリヤ階級の王族たちが戦争を起こして、どこそこで領土を拡張したとか国境紛争が起こったなどということがあっても、バラモンたちには何ら関心がなかった。

 クシャトリヤの世界での国家とか政治とかいうものを超越した文化圏をバラモンは持っているし、クシャトリヤの世界の国境などというものもまたバラモンにとっては何ら縁のないものだった。

 しかし、民衆は違う。民衆の個々は確かに弱い。しかしその力が団結するとクシャトリヤの城も崩壊させられたことがある。しかも、今度の扇動力の発動源はバラモン階級自体を否定しているイェースズというローマ青年だ。

 そんな一人の青年なら恐れるに足らない。ただ、彼らの恐れたのはイェースズのもとに集結しつつある民衆の力だった。いつそれがバラモンの寺院を脅かすようになるのか……それを危惧した彼らはイェースズを恐れた。

 イェースズの説法に集まる民衆の数がさらに増えて行っていたある日、ヴィシュヴァナートのバラモンの主だった十数人は、寺院の中の一室に集まっていた。

 中にはウドラカの屋敷でイェースズと同席した数人も含まれていた。そこではクシャトリヤに化けてイェースズの説法を聞きに行っていた、いわば偵察のサマナーからの報告がなされていた。

 ヴァルナが神の心ではなく人知による無意味なものだというイェースズの話が報告されたとき、バラモンたちは怒りに震えた。その怒りは、自分たちの地位が危ぶまれるという危惧からきたものであった。イェースズの話を聞いた民衆がバラモンに敬意を表さなくなったり、寺院に投石するものまで現れているということも報告された。

 バラモンたちはイェースズのことを、大ほら吹きの山師だの、狂人だのと口々にののしった。

 こうしてイェースズを追放すべく、全ヨジャーナのバラモンの招集がかかったのである。早速、近場であるパータリプトラの寺院とジャガンナスのバラモンがはせ参じた。集まったのはシャーミーと、家庭に入っていないサマナーたちだけだった。

 その中に、ラマースはいた。ラマースはヴィシュヴァナートに到着してからはじめて、この召集の意味を聞いた。しかも、ヴィシュヴァナートのバラモンたちがいうローマの小僧というのが、かつて自分の親友だったイェースズのことらしいと、彼はすぐに察した。

 人々の、イェースズに対する罵声が飛び交う中、ラマースはついに黙っていられなかった。


「皆さん、気をつけて下さい。バラモンは神の使いです。すべての人の注目の中、その修行は行われます。こういう事態でわれわれがどう行動するかが、神の試みだと思います。決して我われの手を血で染めてはなりません。ここで我われが騒ぎを起こせば、民衆の心はますますバラモンから離れます」


 ところが、マハー・バラモンは、イェースズが民衆を扇動して寺院を打ち壊すことを企んでいると主張する。


「イッサはそんなことをする人ではありません。彼は僕の友人なのですから」


 ラマースのことのひと言が命取りとなった。


「お前はあの小僧の仲間なのか! お前も、バラモンの裏切り者だ!」


 講堂中がバラモンたちの興奮した声で埋め尽くされ、マハー・バラモンもほかのバラモンも一斉にラマースめがけて突進した。ラマースは何十人ものバラモンに袋叩きにされ、殴る蹴るの暴行に加えて唾まで吐きつけられ、血みどろになったところでヴィシュヴァナートの門前に捨てられたのである。


 ラマースの話を聞いて、イェースズは全身が震えだした。それと同時に、ばかばかしくもあった。虫一匹殺しても殺戮の罪になるといっている自分が、民衆を扇動してバラモンの寺院を破壊することなどあり得ないことを、どうしても彼らは理解しないらしい。

 しかし、バラモンたちがイェースズの説法の表面だけを聞きかじってそのような危惧を抱くことも、無理のないことかもしれない。

 だがそれ以上にイェースズにとって悲しさを覚えたのは、あれだけ多くの民衆が集まると中には過激分子も出るらしく、実際に寺院に投石した者がいたらしいということである。民衆の方にも、どうも自分の話の真意が伝わっていないようだ。

 イェースズは言葉を発するのをやめ、うなだれて自分の至らなさを反省した。


「君はどうするんだ、イッサ。バラモンたちは完全に殺気立っているよ」


「関係ないさ。僕は別に何も悪いことをしているわけではない。このまま説法は続ける」


 その言葉通り、翌日からもイェースズは集まってくる人々に話をするのをやめなかった。別にイェースズが人々を集めているわけではない。人々の方から集まってくるので、それに応えて話をしているだけだ。

 また、事前に今日はこのことについて話そうなどと、頭の中で準備していたことは一度もなかった。無心のまま民衆の前に立つと、すでに叡智が彼の意識の中に流れ込んできて語るべきことを教えてくれるのだ。

 しかし、カーシーの町の方は確実に変貌していった。町じゅうにバラモンがあふれだし、そしてついに町の人々がバラモンに無礼を働いたということで町民数人がバラモンに殺害されるという事件が起こった。

 それに反抗して民衆がついにヴィシュヴァナートに押し寄せたことから騒ぎはあっという間に広がり、かえって暴徒と化したのはバラモンたちの方だった。バラモンたちは町家に火をつけてまわり、寺院に押しかけてくる民衆を片っ端から刀で殺し、勢いに乗っては大挙して町に繰り出して、そこで生活していただけの罪もない大衆まで殺害して歩くようになってしまったのである。

 町は昼といわず夜といわず絶えずどこか一部が炎上しており、人々の叫喚は天を突いた。民衆もそれに抗って大挙して団結し、バラモンたちの大軍団と町のあちこちで小競り合いを続けていた。

 しかしそういった群衆を先導しているのは一度か二度イェースズの説法を聞きかじったことがあるだけにすぎないものばかりで、真にイェースズの話に心服したのはものは加わっていなかった。その証拠に、この日も町のパニックをよそに数十人の群衆は市場の広場で、イェースズの説法に静かに耳を傾けていた。


 その説法の最中に大勢のクシャトリヤの兵士が駆けつけてきてイェースズを取り巻く形になった。大衆はわっと逃げるように、一歩退いた。

 だが、誰もその場を後にしようとはしなかった。イェースズは一時説法を中断したが、落ち着いた様子で兵士の大将のような馬上のクシャトリヤを見据えた。馬上の大将はイェースズの前に立ちはだかる形となり、イェースズを見下ろしている。


「そなたが、ローマのイッサか?」


 甲高い声が、市場の広場に響いた。しかしそれは、聞かずと知れたことであった。


「今、カーシーの町じゅうが大騒ぎになっていることは知っているな」


「はい」


 民衆はおびえたような表情で、それでも一人も市場を去ろうともせずに様子を見ていた。


「知っての通りバラモンの方たちとバイシャ階級の者たちの間で衝突が生じ、このままでは階級間の大戦争にもなりかねない。この町のみならず、国中に騒ぎが広まれば大変なことになる。だから、この町の行政権を握る我われクシャトリヤとしては、ほとほと手を焼いているのだよ」


 イェースズは表情を一つ変えず、馬上のクシャトリヤを凝視していた。確かに争いはバラモンとバイシャの間のことだけに、中に入って、しかも王侯として町を治めているクシャトリヤにとってはこの騒動は頭痛の種だろう。

 バイシャだけの反乱なら彼らに鎮圧もできようが、相手がバラモンとなると階級が自分たちより上であるだけに手出しができない。


「この騒ぎの原因は、そなたは知っておるか」


 イェースズは黙ったまま、何も答えなかった。


「そなたの説法が、原因であるのだぞ」


「いいえ、私にはかかわりはないと思いますが……」


 初めて、そして毅然とイェースズは口を開いて答えた。その答えに、兵士の表情もいささか固くなった。


「なに? かかわりがないだと? そなたが先導して、騒ぎを起こしたのではないのか?」


「とんでもありません。私は人の心の調和を説いています。対立の想念、争いの想念がいかに地獄を作るか、そして神の子である人がお互いに殺し合うなどどんなに大きな罪であるのかを、私なりに説いてきたつもりです」


「しかしそなたは、バラモンのことをぼろくそ言っておったそうではないか」


「私はただ、人知で作られた制度としてのバラモン階級、ひいてはヴァルナ制度について疑問を持っただけで、バラモンそのものを敵視しているわけではありませんよ」


「そんなことを言って、そなたはこの国で新興教団を作るつもりか?」


「そのような気持ちは全くありません。私は自分が正しいと思っている道を、人々に説いているだけです」


「ええい、黙れ!」


 大将は突然怒鳴った。


「とにかく、われわれはアーンドラのサータヴァーハナ国王の名のもとに、そなたに勧告する。この国から立ち去れ」


「それは、命令ですか?」


「いや、あくまで勧告だ。しかし、もしこの勧告を聞き入れないのなら、こちらにも考えがある」


「では、その考えを実行してください。私は立ち去る気はありません。はっきり、お断りします」


 馬上の兵士はかちの兵士たちに合図した。兵士たちは機敏に、イェースズを取り囲んだ。その数は約十数人だ。


「無理やり、私を追放するのですか?」


 イェースズの言葉に、兵士たちは包囲の輪を一歩縮めた。


「取り押さえろ」


 馬上からの下知を受けて一斉に飛びかかった兵士たちに、イェースズは取り押さえられた。そしてイェースズは抵抗することもなく、ただ目を馬上に向けていた。その馬上から穏やかに、クシャトリヤはイェースズに言った。


「心配しなくてもいい。我われとてむやみに追放したりはしない。まずは裁判所で取り調べてからだ」


「取り調べなら、ここでもできるでしょう。もし私が何か悪いことをしたというのは、その私がした悪いことというのむしろ私に教えてください。いったい私がどんな悪いことをしたのか、私は非常に知りたいし、教えて頂けたら感謝します。しかし、私に教えるべき私の罪状が何もないのなら、どうかこの場で釈放してほしいと思います」


「話は裁判所へ来てからだ」


 兵士たちはイェースズの体中をつかみ、無理やり連行しようとした。

 その時、飛びかかったのは、兵士たちの数倍はいたその場の民衆だった。皆、イェースズの説法を聞きに集まっていた人たちだ。クシャトリヤの兵士たちが武器を振り回しても民衆はひるむことなく、市場は大混乱となり、黒い人々の塊がもみ合っているうちに、砂ぼこりともにイェースズは市場を脱出した。

 後ろでは、人々がまだイェースズの脱出に気づかずにもみ合っている。叫び声、殴る音、土を蹴る音とともに上がる砂ぼこり、そして罵声……そんな市場を後にして、イェースズは一目散に逃げ帰った。


 家に戻り、自分の一室を見回したイェースズは、一瞬体が硬くなった。

 待っているはずのラマースがいないのだ。

 ヴィシュヴァナートのバラモンに見つかるといけないからといって、外出を固く禁じておいたはずだ。そのラマースがいない。

 イェースズは部屋を出て、その家の主人であるバイシャにラマースのことを尋ねた。


「ああ、あのバラモン様でしたら昼前に出ていかれましたよ。僧衣を着て」


「僧衣を着て?」


 牛小屋で白い牛を水で洗っていたバイシャからそういう答えを聞くと、思わずイェースズは外へ飛び出した。

 僧衣をまとって、いったい彼はどこへ行ったというのだろうか……。まさか町の中へ戻ったのか、あるいは一人でシシュパルガルフへ戻ろうとしたのか……それにしてはイェースズにひと言の書き置もないようだだったし、家の主のバイシャに何か言づてをしたというふうもない。

 よほど町の方へ行って彼を探そうかともイェースズは思ったが、大海に投じた小石を捜すようなものだと気づき、イェースズはため息をついてから部屋の中で待つことにした。しかし、ラマースが戻ってくるまでさほど時間は流れなかった。


「ラマース! どこへ行っていたんだ」


 ラマースは目を血走らせたまま、茫然とした様子で部屋の入り口に立っていた。


「ラマース!」


 もう一度イェースズはその名を呼んでみたが、ラマースは返事をしようともしない。


「どうしたんだい。入っておいでよ」


 ところがラマースは入ってくるどころか、とうとうその場にへなへなと座り込んだ。そして、うつむいたまま、


「やつら、汚い。絶対に汚い」


 と、言った。


「いったい、何があったんだ?」


 イェースズはラバースのそばまで歩み寄り、その背中に手をかけた。ラマースははじめて顔を上げ、イェースズを見た。


「大変だよ。君、殺される。山賊に殺される。バラモンたちがたくらんでいるんだ」


「え? なんだって? どういうことだ? もっと落ち着いて、話してくれ」


「だから、山賊が来るんだよ」


 ラマースによると、彼はヴィシュヴァナートでのイェースズに対するバラモンたちの動きが気になり、イェースズのいない間に出かけてヴィシュヴァナートに入り込んだ。イェースズに言えばためだと言われるにきまっているので、こっそりと出て行ったという。

 そこで彼が耳にしたのは、バラモンと山賊たちの密談だった。バラモンたちはすでにイェースズの隠れ家をつきとめており、黄金三枚で山賊にイェースズの殺害を依頼していた。

 顔面蒼白となったラマースはそっと寺院を抜け出すと、走りに走ってイェースズの元へ戻ってきたということだった。

 事の次第を聞いても、イェースズは表情ひとつ変えなかった。


「これがこの国のバラモンさ、所詮は」


 イェースズは、まずそれだけを言った。


「ヴェーダとて、もともとは神霊の交感のもとに記された立派な神様の教えだろう。でも、古くなりなりすぎたよね。何百年もたつうちに教えは形骸化して、人知による解釈が加わってどんどん形式化していって、つまり本当の霊的意義も分からなくなり、こうすればいいんだ式の形だけになってしまったんだね。今のバラモンには民衆を霊的に救う力は皆無だし、事実バラモンたち自身が救われていないじゃないか。権力の最上階の階級にあぐらをかいてふんぞり返り、伝統だの法門護持だのばかりに夢中になっていて、いくら儀式がおごそかで寺院が立派でも……」


 イェースズがそこまで言いかけた時、ラマースはイェースズの服を引っ張った。


「今はそんな説法なんかしている暇はないんだよ。とにかく逃げなきゃ」


「逃げるったって、どこに行くんだ? 僕には行く場所なんかはない。すべては神様のみこころのままに、お任せ申し上げてるからね」


 イェースズは、また一つため息をついた。そしてさらに言葉を続けた。


「神様の教えって、究極は人類の救いだろう!? それなのに、神の使いと称するバラモンに人々を霊的に救う力がないのなら、これは魔以外の何ものでもないじゃないか。人の病すらいやせない神力ってあるかい? 今のバラモンたちは、だれもそんな力を持っていないじゃないか」


 ラマースは再びうつむき、黙って何かを考えていた。それからしばらくして、彼は顔を上げた。


「やはり、君は逃げなきゃ。それで、実は君が行くのにいい所があるんだ」


「え?」


 イェースズは、ぱっとラマースを見た。二人の視線は合った。


「ここからずっとずっと、北へ行くんだ。そしてアーンドラの領地よりも外へ行くと、そこには別の教えを奉じる人たちがいる。彼らはヴァルナという階級を完全に否定している人たちだ」


「え? ヴァルナを否定?」


 イェースズの目が輝いた。この国……いや、この国の外にせよ近隣国にヴァルナ制度を否定する教えがあると知り、イェースズの胸は高鳴りはじめた。


「それは、どこにあるんだ? 何て呼ばれている人たちなんだ?」


 詰め寄るようにして、イェースズはラマースに尋ねた。


「ここから北へ行けば、たどり着けるよ。彼らは、ブッダ・サンガーという精舎にこもって修行している」


「ブッダ・サンガー?」


「そう。それはいくつもあるから、最初にたどり着いた所でいいんじゃないか」


「そこでは、どんな修行をしているんだい?」


「さあ、僕も行ったことはなく話に聞いただけなのでよく分からないけど、そこではみんながサロモンと同じ修行をしているんだって。でも、サロモンたちのような肉体的苦行はしていないということだけどね」


「ヴァルナの否定、肉体行の否定……」


 イェースズの心の中に何かひらめくところがあったことを、ラマースは機敏に察したらしい。


「君がいつも主張してることと、ぴったしじゃないか」


「ああ、驚いているよ。僕と同じ考えの人がいるってことは、僕の考えは間違ってなかったということの証明になるからね」


「そのブッダ・サンガーというのは、今から五百年くらい前にクシャトリヤ出身のゴータマ・シッタルダーという人が始めたいわば新興宗教なんだけど」


 創設から五百年もたっているのに新興宗教というのは、この国の宗教的基盤のバラモン教の古さに比べれば五百年などまだまだ新しいといえるからだ。


「え? クシャトリヤ出身?」


「そう。教祖のゴータマ・シッタルダーは当時このあたりを支配していたコーサラ国のマハー・ラージャンで、カピラ・ヴァーストのシュット・ダナー王の王子として生まれたんだ」


 教祖がバラモンではなくクシャトリヤ出身ということが、ますますイェースズの興味を引いた。


「その人はね、若いころから人間の生・老・病・死苦、つまり生きていく悲しみと、年老いてゆく悲しみと、病の苦しみと、死にゆく悲しみとそれについて悩んで、ある日突然お城を出て出家したそうだ。そしてもう一つ、ヴァルナ制度に疑問を感じ、バラモンの肉体行の無意味さも知って、ついに独力で悟りを開いたそうだよ」


「悟りを開いたとは?」


「つまりニルヴァーナに達し、シュバラーの境地になったということさ」


「そんな教えを始めて、バラモンたちは黙っていたのかい? 」


「いや、やはり大変な大騒ぎだったらしいね。でも今と違って当時はこの国も小さな国々に分かれて争っていた時代だったし、バラモンの力もそう強くはなかったんだろう。でも、彼のいとこのデーヴァダッタというのがバラモンたちを扇動して、彼を徹底的に弾圧したそうだよ。それでとうとう彼も逃げ出して、南のシンハラ国で行き倒れになっているところ弟子たちに発見されたそうだ」


「よくそのブッダ・サンガーは、五百年も残ったね」


「彼がそういうふうにして死んだ後ずいぶんたってから、この国に大帝国を築いたマウリヤ帝国のアショーカ王が、その教えに心服してからむしろバラモンを押しやって教えを公認し、王自らその教えを国内に広めたんだ。だから今でもバラモンの力が再び強くなったこのカーシーの国境の外では、ブッダ・サンガーが力を持っているということらしいよ」


「そうか……」


 しばらく何かを考えていたイェースズは、


「よし、そこへ行ってみよう」


 と、言ってすくっと立ち上がった。


「そのブッダ・サンガーという所に行ってみて、ゴータマ・シッタルダーという人についての話を聞いてみる」


「それがいい。君にはぴったりのところだよ。何しろいつも君の話を聞くたび、僕は話に聞いていたブッダ・サンガーを思い出していたんだからね。それとね、もう一つ」


「うん」


「そのゴータマ・シッタルダーという人はただ単に説法するだけでなく、ちょうど君と同じように不思議な力を持って行って、人々を救って歩いていたそうだよ」


「え? ほんとかい? それは」


 イェースズをも内心のうれしさを隠しきれないように、思い切りニコニコしていた。ラマースはそんなイェースズの顔を見て自分もうれしそうに言った。


「じゃあ、今夜すぐに出発するといい。夜の闇にまぎれてカーシーを抜け出すんだ」


「君は? 一緒に行かないのか?」


 ラマースはかぶりを振った。


「僕には、まだここでしなければならないことがあるから」


「え、いいじゃないか。一緒に行こう」


「いや、僕はここに残る」


 ラマースは目を閉じて、首を振った。決心は固いようだった。イェースズはラマースに勧められるままラマースの僧衣を着て、自分のバイシャの服はラマースに渡した。そして、家の主のバイシャに突然の挨拶をしてから、イェースズは旅だった。季節は暑熱乾季ではあるが、夜なのでまだ涼しい。


 イェースズはわざと町を迂回して、町の北側に出た。さらに進むと道は峠となり、振り向けばカーシーの町全体が見渡せる。夜の闇の底に、それは不気味に横たわっていた。ところどころに明かりが見える。その明かりの中央にどっしりと、ヴィシュヴァナート寺院があぐらをかいている。

 たしかに外観は絢爛だ。しかしその中がいかに腐っているが、今のイェースズにはよく分かっていった。

 寺院を生きた救われの場として民衆に提供することなど、今世の宗教には全くないようだ。イェースズはそんな神のみ意とかけ離れてしまったこの国に別れを告げ、一人夜道を急いだ。


 翌日、筋書き通り山賊たちはイェースズの住んでいた家を襲い、イェースズのベッドに寝ていたラマースをイェースズと思って殺害した。すべて、ラマースのもくろんだ通りとなったのである。そしてイェースズは山賊に殺害されたということがカーシーの民衆に公表され、町の暴動も鎮火していった。もちろんそのようなことは、イェースズは全く知るすべもなかった。


 カーシーを後にして何日か北上すると、すぐにアーンドラ国の領地を出る。ここまで来ればたとえイェースズがいなくなったと知ったカーシーのバラモンたちが追っ手をさし向けてきたとしても、もう追いついては来ないだろう。

 そこでイェースズは夜に歩くことをやめ、昼に旅することにした。気温もだいぶ下がり始めている。暑熱乾季の日中はとても歩いて旅をするなど不可能だが、それができるようになってきたのだ。雨季が近いらしい。確かに昼でも、雲が多くなってきている。


 そんな頃イェースズは、前方のそれに雲とは若干違うような白い浮遊物を見るようになってきた。はじめは雲だと思っていたが、いくら歩いても、そして日数がたっても、同じ高さの同じ位置に白くて巨大な物体は浮いている。さらに何日か歩いてそれに近づくにつれ、空の一角にその白いものは横たわって居座っているようにも思えてきた。

 それが山だと気づくのに、イェースズはずいぶん時間がかかった。しかし気づいてみれば、たしかに山だ。まるで世界の果ての大壁のように、行く手には山脈が横たわっている。白く見えていたのは雪だろう。その頂上は中天近くにまで達しており、麓の方は空の青と同化し、それで頂上だけ空中に浮かんでるように見えたのだ。

 イェースズは、すごいと思った。今までの自分が知っている知識だけでは計り知れない、ものすごい世界がこの世には存在している。

 そして今、それを自分は目の当たり目撃しているのだ。

 それは確かにすごいことだった。そして何よりも、こんな桁外れの大自然をも自分の理解を超越しているところで創造された神の力と大自然の威力、それがいちばんすごいとイェースズは思いながら山脈の方に向かって歩いた。


 ところがまだ、その山脈のふもとに着かないうちに彼は目的地にたどり着いてしまった。土地のバイシャやスードラに尋ねながら探し当てたブッダ・サンガーは、竹の林が茂る中にあった。バイシャとかスードラとかいう人々はバラモン階級とは無縁、もしくは畏怖のどちらかの感情を持っているが、ブッダ・サンガーに関しては誰もが笑顔で教えてくれたことから、彼らもブッダ・サンガーに好意を持ってらしいことが察せられた。

 イェースズがまだ精舎ヴェナーを訪れる前に、町で一度だけサンガーの僧と行きあった。町に托鉢に来たらしい。

 バラモンでは托鉢は年配のサロモンにしか許されていないが、その僧はまだ若そうだった。それに何よりも違うのはバラモンのようなきらびやかな僧衣ではなく、黄色い質素な衣で僧は歩いてきて、イェースズとすれ違った。

 言葉を交わすことはなかったが、向こうもイェースズのバラモンの僧衣をほんのわずか意識に止めたようだった。


 その日のうちに、イェースズは精舎を訪れた。精舎の入り口からは竹林の中の小道を、案内の僧とともに彼は歩いた。かつてこの国へ来たばかりで、はじめてジャガンナスを訪ねた時も同じような期待と不安が彼の心の中で渦巻いていたのをイェースズは思いだした。ジャガンナスでは期待の方は雨の中で打ち砕かれたが、そんな経験が今の彼には一抹の不安を与えるのだった。

 やがて視界がひらけ、精舎の建物が目前に展開した。赤いレンガの巨大な講堂のような建物だ。向こう側には塔も見える。バラモンの寺院の塔とは形が違い、椀を伏せたような塔だ。そしてかなり広いスペースにほかのいくつかの建物が並び、降り注ぐ陽光の中で草いきれとともに明るくそれらは輝いていた。遠方の空には、相変わらず白い山脈が宙に浮かんでいた。


 講堂には、黄色い僧衣の僧がひしめき合っていた。そのような中で、イェースズは入門を申し出る形となった。最初は話を聞いてからと思っていたが、ここへ来てから何となく自然とそのような形になってしまったのだ。

 自分の年齢を考慮してシャーミーとして修行させてほしいという旨を伝えたイェースズに、長老とおぼしき老人は言った。


「そなたは今シャーミーと言ったが、ここにはバラモンのようにシャーミーとかサマナーとかサラモンとかいうような区分はない。どんなに若くてもだ」


 大勢の僧が、背後からイェースズを見つめていている。緊張のひとときだ。彼らの質素な僧衣の中で、イェースズのバラモンの僧衣は不自然でもあった。長老のビチャパチ尊者は柔和な顔で倚子に座し、さらに言葉を続けた。


「ここには一切のヴァルナの階級もない。バラモンもクシャトリヤもバイシャもスードラもない。みんなが平等だ。確かに精舎ヴェナーでの修行は出家したビクシュやビクシュニーと、在家で生業を持って修行するウパサカ・ウパシカと分かれってはおるが、みな平等だ」


 イェースズはそんな話を聞き、内心うれしさが満ちあふれてくるのを感じたが、それでも若干の疑問点はあることにはあった。


「あの、質問をしてよろしいでしょうか」


「どうぞ。何なりと」


「ビクシュ、ビクシュニーとは?」


「ビクシュとは男性の僧侶、ビクシュニーとは女の僧侶だよ」


「え? 女性もいるんですか?」


「修行場は別だがね。男も女も平等だから、女性とて修行できる」


 イェースズの故国では尼僧がいても何ら不思議ではないことだが、この国へ来て何年かたつうちこの国の基準でものを考えるようになってしまったイェースズにとっては驚くべきことだった。

 女性の僧がいるなどということは、バラモンでは考えられないことだったからだ。 

 この国では、女性は男性の快楽の道具、労働の道具、そして子を生ませるための道具以外の何ものでもないと考えられているところがあった。クシャトリヤなど、何人もの妻を持っている。

 イェースズが驚いているうち、ビチャパチ尊者は、イェースズに小さな布切れを渡した。


「ここに入門しようというものはまず七日間は山野に入って、その布に書いてあることを基準に心を正した上で三つの誓いを立ててもらうことになっている。それができてはじめて、入門は許されるのだよ」


 イェースズは、渡された布に目を落とした。


「正しく見る。正しく語る。正しく思う。正しく念じる。正しく仕事をする。正しく生きる。正しく精進する。正しく禅定に入る」


 布切れにはそう書かれてあった。まだそれをイェースズが眺めているうち、頭上にビチャパチの声があった。


「それを基準によく禅定し、心を正してくるがよい」


「あのう、『正す』とか、『正しい』とかいうのは、どういうことなのですか?」


「それは偏りがない、中道の心じゃよ。そういうふうに、ブッダは説かれたそうだ。ブッダはかつて肉体を苦しめて行をすれば悟りが開けると思っておられたが、スジャータという少女の歌で目が覚めたというふうに伝えられておる」


「少女の歌?」


「そうじゃ。『楽器の弦は強く張れば切れて、弱く張れば音が悪い。中くらいに張ってちょうどよい』という歌じゃ。そしてそのスジャータという娘から牛乳をもらって飲んだそうだよ」


「それで、三つの誓いとは何ですか?」


「偉大なるブッダに帰依するか、それが一つ。そして、ブッダの教えであるダルマーに帰依するか、これが二つ目。そして、僧の集団であるサンガーに帰依するか、この三つだ」


「ブッダに帰依とおっしゃいましたが、それは神様に帰依することですか? それとも人間としてのゴータマ・シッタルダーという人にですか?」


「両方にじゃ」


「え?」


「もしここに入門が許されたなら、スッタニパータやその他の経典スートラを学んでもらうことになるが、ブッダとは三身なんじゃよ。まずダルマヤカーナ、このブッダはマハー・ヴェイロカーナという大いなる光じゃ。そして次がサンボヤカーナで、これはアミターバ・アミターユス。最後がニルマヤカーナのゴータマ・シッタルダーというブッダじゃ」


「おお、三位一体なのですね」


 と、イェースズは叫びかけたが、それよりも先にビチャパチの言葉は続いた。


「これらは皆タタギャータだが、さらにはボディーサトゥーヴァーなどのブッダもおられる。例えば、アポロギータシュバラーなどじゃ」


 難しい、とイェースズは思った。何が何だかさっぱり意味が分からない。

 今の話に出た「アミターバ・アミターユス」とは確かに無量の光ということで、「神は光なり」ということはイェースズが故国で属していた教団でもそう教えていたし、ゼンダ・アベスタでもそうなっている。

 しかしそれにしても、ヴァルナを否定して誰もが平等であるということを旨とするこのブッダ・サンガーでもバラモンの寺院の教えと同じように、言っていることはどうも哲学的で難解だ。


 しかしそのことはあえて口に出さず、イェースズはとりあえず山野での七日間の禅定に入ることにした。

 そんなイェースズにはスッタニパータや、サッダルマー・プンダリカ・スートラなど、多くの書物が手渡された。イェースズはそれらを持って、山野に向かうために講堂から出ようとした。

 講堂では、僧たちが石像に向かって一斉に祈りを唱和していた。


「ナマス サルヴァジャナーヤ アルヤ・ヴァロキティーシュバラー ボディーサトゥーヴァー ガムビーラ プラジャナー パーラミターヤム シャルヤーム シャラマー…………」

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