7、我が子はどこへ

 人救い――貧民救済……成長するに従ってそのことだけがますます強くイェースズの脳裏に焼きつくようになった。

 時には、麦の収穫を普段の数倍になるように念じてから種をまき、刈り入れの後「地の民」の子供たちすべてにわたるくらいの施しをしたこともある。それがイェースズ八歳の時だった。

 しかし、そのような物質的な救いということにのみに終始していていいのだろうかという疑問は、常に彼の頭の中にあった。だが、本当の救いとはどういうことかというところで、いつも彼はつまずいてしまうのだ。


 律法や『ゼンダ・アベスタ』、『エッセネの書』を彼はそのたびに繰り返し読んでみたが、その回答だけは容易に得られないまま年月ばかりが過ぎていった。

 その間、彼は自分に与えられている特殊な能力を使うことも極力控えた。

 ひとつ間違えればそれは人を傷つけかねない危険な能力であることを彼は成長とともに分かってきたし、それは制御し得るまではと自制してきたのである。

 その力を発揮したのは、近所の赤ん坊がぜんそくで死にかけた時にその背中に手を置いて完治させたことや、父の同僚が木材の下敷きになった時の傷を快癒させ、ほかには屋根から落ちた子、斧で自分の足を切りつけた男など、いずれも手を置いて完治させたことのみに留まった。い

 つでも口うるさい大人がその能力の根源を知りたがるし、またそれに対する十分な答えを彼は持っていなかったから答えるのも面倒で、それも自制の一つに入っていたかもしれない。

 ただ、いつでも手を置いて傷をいやすときは自分自身にものすごいエネルギーが注がれているのを感じ、たとえ冬でも全身がぽかぽかと暖かくなるものだった。


 内面的なものは別として、少なくとも外面上は父の大工の仕事に弟のヨシェとともに携わりながら、イェースズにとっては平穏な日々が過ぎていった。だが、同じく平穏な湖畔の町カペナウムにきな臭い風説が流れたのは西暦六年、イェースズが九歳なった年だった。



 この年、ユダヤとサマリアを統治していたアルケラオスがローマ皇帝より民族指導者エトラルコスの称号を取り上げられ、ガリアに追放された。

 その理由は、父譲りの残忍さと暴政、および結婚問題のためであった。エルサレムの貴族大祭司でサドカイ人のアンナスの、ローマ皇帝の讒訴が功をなしたといえた。またはそれはサドカイ人たちが異邦人として蔑むサマリア人と、手を結んでしたことでもあった。そるほどまでにアルケラオスの圧政は、彼らにとって耐えきれなかったものだったのである。


 この後、ユダヤとサマリアに新しい王は立てられず、ひとときはローマの属州であるシリア州との合併のうわさも流れたが、皇帝アウグストゥスオクタビアヌスは、アルケラオスの旧領には新たにユダヤ州を設置してローマ皇帝の直属の属州とした。

 これよりはシリア州などと同様にローマ皇帝親任の知事がローマから乗り込んできて、ユダヤとサマリアを治めることになる。ただし、イェースズたちの住むガリラヤは、依然としてアンティパスの支配下だった。


 以上のようないきさつで、エルサレムは名実ともに異民族の支配下に置かれることになったが、そのことに関して民衆はさほど不満を感じていなかった。

 暴君のアルケラオスに支配されるより、むしろローマ知事の政治に期待をかけたのであろう。ましてや、これを機に反アルケラオスの頭目であった貴族祭司アンナスが、ユダヤの最高法院サンヘドリンの大祭司に任命されたのである。

 大祭司は代々ハスモン家から出るという慣習があったが、その慣習はこれで破られたことになった。

 このことは死刑執行権以外の一切の政治的権限をアンナスがローマ知事より委託されたことを意味する。つまり、この地位はいわばユダヤ人にとっての実質上の元首にほかならなかった。

 ところが民衆が喜んだのも束の間、ユダヤがローマの属州になることによって市民には新たな重税が課せられていることになった。ただでさえ人々には、どの地域に住んでいるかは関係なしに全ユダヤ人に課せられる神殿税、また祭司から取り立てられる十分の一税などが課せられている。しかし、このたびユダヤ州に限っては、ローマ知事が徴収する人頭税と地租が加わるのである。


 そしてこの年が、属州を含むすべてのローマ帝国領の国勢調査の年に当たっていた。ユダヤ州に関してはまだユダヤ知事の着任前であることもあって、隣接するシリア州の知事でローマの元老院議員であるブリウス・スリピシウス・クウィリニウスによってそれは実施された。

 ローマ帝国では十四年に一度を造籍の年として人口調査が行われるが、この年の調査はクウィリニウスがシリアの知事になってから最初の造籍に当たり、また新たにローマ直轄領となったユダヤ州の人々に対する税制の整備という名目も新たに加わっていた。

 そこで、あからさまなローマに対する反旗がついに翻された。それも、ユダヤ州ではなくガリラヤからであった。ガリラヤローマの属州ではないにしろ、ローマの間接的支配下にあることには変わりはない。


 イェースズの住むカペナウムでも、人々の話題はそのことでもちきりとなった。そしてそれは、イェースズ一家とて例外ではなかった。


「一揆の張本人は、すぐここの近くの人なんでしょう?」


 この家では真っ先にイェースズが、この話題を持ち出した。


「ああ、ヘシキアの息子のユダという男だ」


「え? ユダ?」


 イェースズは自分の末弟のユダを、ちらりと見た。いっぱしに兄に倣って、聖書など読みだした年ごろである。ちょうどイェースズが猛勉強を始めたのは、今のユダの年齢だった。


「このユダは、そんなことはしないだろうね」


 と、ヤコブが笑った。


「ヘシキアというのは、ヘロデ王の頃に反乱を起こしたこともある盗賊の首領だった男だ」


「でも、そういった人たちって、パリサイ人なの?」


「いや、違う。彼らは熱心党ゼーロタイといって、いちばん反ローマ的な色彩が強い人々だ。彼らは、ローマからのユダヤの独立ばかりを考えているんだ」


「へえ、そういう人たちもいるんだね」


 その熱心党ゼーロタイは、ユダヤ州そのものよりもむしろガリラヤに多い。この後もイェフダとかツァドラなど、続々とガリラヤの地で反ローマの挙兵が行われる。


「でも、どうなるのかなあ。あの一揆の人たち」


「今度のローマの知事は、千人隊とかいう軍隊もローマから引き連れてきているそうだから、たぶん残念ながら鎮圧されるんじゃないかな」


 ヨセフは人ごとのように言い放って、パンをほおばった。マリアが朝のヨーグルトの甕を抱えてやってきて、皆が座っている真ん中に置いた。


「ねえ、お父さん。来年の春にはエルサレムにいきませんこと?」


「え? エルサレム?」


 ヨセフは、マリアを見た。


「ええ。だって、あのアルケラオスはもういなくなったんでしょう?」


「そうだなあ。来年の過越すぎこしの祭りには、いっそエルサレムへ行こうか」


 幼い弟たちは一斉に喜びの声を上げた。


「ねぇ。もう子供たちも大きくなったし……。ユダも六つ、それにお兄ちゃんがしっかりしてるし」


 イェースズも照れて少し笑ってから言った。


「うん。僕もエルサレムには行ってみたい」


 普通毎年の過越の祭りには、たいていのユダヤ人はエルサレムに上る。しかしこの家族は、イェースズの清めの時以来エルサレムには上っていない。

 エルサレムにはかつてイェースズを殺そうとしたヘロデ王の気性を最もよく受け継いでいるというアルケラオスがいたから、そういう所へのこのこ行く気にはなれなかったのとイェースズの弟が幼いこともあって、今までは過越の祭りにはいかずにいた。


  「じゃあ、来年の春はエルサレムだ」


 ヨセフの一言に、この子供たちは再び歓声を上げた。


 ところが諸事情があって、ヨセフ家のエルサレム行きが実現したのは三年後、イェースズが十三歳になってからとなってしまった。


 エルサレムは正しくはイェル・シャロムといい、平安の都という意味である。

 ヘロデ王もアルケラオスもいなくなった今でも、その繁栄には変わりはない。ただ、今ではローマ知事はカイザリアに駐在しており、エルサレムはすでに行政の中心、すなわち都ではなくなっていた。

 かつてのヘロデ王の宮殿の南には、大祭司の大邸宅が造営されている。街ゆく人々もパレスチナ風のユダヤ人に加え、明らかにローマの兵隊と思われる人も多く見られるようになった。


 過越の祭りは、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエル人が、モーセに率いられてエジプトの地を脱出した前夜のことを祝って行われるユダヤ最大の祭りである。

 祭りはユダヤ人にとっての正月ニザン十四日の夕方から始まるが、ローマ暦だと三月中旬ごろになる。

 夕方からというのは、ユダヤ人の一日は日没から始まるからだが、この日は子羊の肉と酵母を入れないパンで祝われる。その由来は、聖書トーラーの『出エジプト記』に書いてある通りであった。

 そして夜が明けると、エルサレム中の人々にだけではなくユダヤ全土から集まった人たちは行列を作って神殿に参拝するのである。


 ヨセフ一家も、雑踏でごった返す神殿の異邦人の庭にいた。サロメも一緒だ。相変わらず行商人や両替商などの出店で、広場は埋め尽くされている。特に祭礼の期間中は参拝者目当ての犠牲いけにえの小動物売りや、記念品、土産物売りの商売人が殺到し、店の数は三倍に増える。

 マリアは、子供たちがはぐれないように気を配るだけで精いっぱいだった。特にイェースズが一人でどんどん先に行ってしまうので、気が気ではない。


「うわー、すごいなあ。これがエルサレムか」


 イェースズは歓声を上げながら、一人でどんどんの歩いていく。そしてその姿が時折人ごみにかき消されるから、マリアはひと時も目を離せない。ましてやその時に、商売人がいかにも子供たちの喜びそうな飴などを持って近づいてくる。


「さあ、お坊っちゃん。おいしい飴だよ。エルサレムへ来てこれを食べなきゃ、損だよ。お母さんに買ってもらいな」


 商売人は幼いヤコブやユダが目当てだ。しかしマリアは、それどころではない。


「お父さん、イェースズの姿が……」


「まあ、あの年ごろは、親と歩くのは照れ臭いんだ。一人で歩きたがる年ごろだよ」


「でも迷子になったりしたら」


 階段を上り、ユダヤ人しか入れないエリアに入っても、さすがに出店はなくなるものの、この日ばかりは人ごみは変わらなかった。


「私、イェースズについて行ってますから」


 そう言って前方の人ごみの中に見え隠れするイェースズの後ろ姿の方へ、サロメは人ごみをかき分けて近づいていった。


 空はよく晴れていた。

 出店でごった返す広場を見下ろす一段高いこのエリアには、ヘロデ王時代からの立て札が立っている。――異邦人、この地に入れば死刑に処す――。そんな札をヨセフは指差した。


「今は死刑執行権は大祭司ではなくローマ知事にしかないのに、もしここにローマ人が入ったらどうなるんだろうね」


「また、お父さん。そんなことばかり考えて。死刑執行権っていうのは政治犯に対してであって、神様をけがしたことに関して別だなんて聞きましたよ」


 マリアはそう言いながらも、前方のイェースズを見つけるのに余念がなかった。


「ねえ、イェースズが見えなくなったわ」


「大丈夫さ。サロメがついているから」


 至聖所からは犠牲の動物の悲しげな泣き声が、一定の間隔をおいて響いてきていた。


 イェースズはすでに一人で、美門から女人の庭まで入っていった。眼の前には金箔で飾られたニカノルの門が扉を開き、大勢の女性が中をのぞき込んでいた。女たちは、ここから中へは入れないのである。

 イェースズは男性参拝者とともに、その門をくぐろうとした。


 その時、背後で、


「イェースズ!」


 と、呼ぶ声がした。振り向くサロメだった。イェースズはサロメに手を振ると、どんどん一人で男子の庭の方へ入っていってしまった。サロメは女性であるからニカノルの門から入ることはできず、これ以上イェースズを追うことはできなかった。

 左右に大きく開かれた両方の扉を交互に見ながら、イェースズは人ごみに押される形で男子の庭へと入った。男子の庭は女人の庭よりずっと狭く、腰の高さの欄干で囲まれた祭司の庭がその中央にある。その中には大きな祭壇が据えられ、その脇には犠牲台も見えた。さらにその向こうはすぐに至聖所の正面が高くそびえており、階段を上がったすぐ上のスペースまでは見えるが、その奥は巨大なカーテンで視界はさえぎられていた。

 男子の庭も人で埋め尽くされており、無論すべての男ばかりだった。イェースズは巧みに大人たちの間をすり抜け、いちばん前の欄干の際まで進んだ。

 それより先は祭司以外は入れない。中央の祭壇では大祭司が聖所に向かい、天に両手を開いて祈りを捧げ、犠牲台の上では子羊の一頭まさにほふられようとしていた。火の熱と苦痛に羊はもがき、断末魔の叫びが神殿に響いた。何ともいえない肉を焼く臭いが漂い、煙はまっすぐに青空へと昇った。


「おおっ!」


 と、人々間から声が漏れた。煙がまっすぐに昇れば、神がその犠牲に喜んで下さった印だという。祭司の祈りに合わせ、周りの人々も地にひざをついて、天を仰いで礼拝を始めた。

 ただ一人イェースズだけが、すでに息絶えた子羊のじっと見つめつっ立っていた。

 何か寒気のようなものだ、彼の背中を走った。だからそこに背を向け、礼拝する人々をかき分けてイェースズは女人の庭の方へ出て行った。

 そのままイェースズは美門をもぬけ、商人たちの出店でごった返す異邦人の広場へ下りた。ただ何のあてもなく、何度も人と肩をぶつけながら、人ごみにまみれてイェースズは歩いた。


 神殿って、何なんだろう……こんな思いが彼の頭に焼きついて離れなかった。神殿とは、神を祀る神聖な場所なのではないだろうか……幼児期は別として、もの心がついてから初めてこのエルサレム神殿を見るまではそう思っていたし、またその考えはこの時でも変わってはいなかった。

 しかし、今や彼の目の前には動物を残酷な火あぶりで殺し、また商人たちが出店を出して商売に忙しい神殿という現実が横たわっていた。思わず彼は、店をことごとく覆してやりたいという衝動に駆られた。彼の特殊な力によれば、それはいとも簡単である。だが衝動とともに自制心も彼の中では働いていた。


 彼は神殿の淵にあるソロモンの回廊の中に入った。この下はかなりの深さの谷になっており、ちょうど目下の門から谷の向こうまでアーチ状の石橋がかかっている。聖所が中心にあって異邦人の庭がそれをかこっている部分は、高い石垣の巨大な台の上になる。

 聖所の右手後方には、人々の雑踏の頭越しに神殿に北接するアントニア城の直方体の四角い塔が見えた。

 その塔に向かってイェースズが再び歩きだした時、人ごみはさっとかき分けられて通路がつくられ、聖所の方から四、五人の祭司が法衣をまとって出てくるのが見えた。頭には帽子をかぶり、その額には小箱をつけている。衣は白い環頭衣で、宝石のついた布を胸に垂らし、衣の裾にはふさがついていた。また、律法の巻物の両端にひもをつけ、首から下げていた。典型的なサドカイ人の祭司の姿だ。


 イェースズは駆けた。心のわだかまりをぶちまけるのは今しかない……かき分けられた人々の顰蹙ひんしゅくの見返りを浴びつつ、彼は一気に祭司のために空けられた通路に出た。


先生ラビ。聞きたいことがあるんです」


 イェースズが祭司たちの行く手をふさいで叫ぶと、先頭の祭司は明らかに顔を曇らせた。


「これ、どきなさい。早く!」


 追い払われながらも、イェースズは懲りずに叫び続けた。


先生ラビ、聞きたいことがあるんです」


 祭司の一行は歩みを止めて、イェースズを見た。前から三番目の祭司はその服装からみて、格が一つ上のいかにも大祭司という感じだった。その男が目を細めた。


「なんだ、まだ子供じゃないか。なんだね、聞きたいことって」


 そう言ってから大祭司は、ほかの三人にイェースズをつかまえた手を離すように眼で合図をした。イェースズは、大祭司に向かい合って立った。


「神殿で、どうして生き物を殺してるんですか?  神様の前で、殺生しているのは、なぜなんですか?」


 祭司はイェースズを見下ろし、優しい目で言った。


「人間は罪を犯すだろう。その犯した罪に対する犠牲なんだよ。神様はね、私たちにこういうふうにしなさいとおっしゃったんだよ。犠牲に動物を捧げれば、人間の罪の身代りなってくれて人間の罪は消えるんだ。分かったかい? もうちょっと大きくなって、律法を勉強すれば分かるようになる」


 そして大祭司はイェースズの頭に手をのせ、立ち去ろうとした。


「ちょっと待って!」


 イェースズは、慌ててそれを呼び止めた。


「まだ、何かあるのかい?」


 その大祭司の言葉が終わらぬうちに、イェースズはまた目を見開いて大祭司をにらんだ。


「そんなこと、聖書のどこに書いてあるんですか? 人間の罪が何かの犠牲で消えるなんて……。ダビデの詩篇にはこう書いてありますね。『主よ、あなたはいけにえや供え物を喜ばれるのではありません。あなたが求められるのは従順で、私を従順にして下さいました』って」


 祭司の顔色がみるみる変わった。こんな十二歳かそこらの少年から白昼人前で意見されたという自尊心の傷と、その少年が詩篇の一節をすらすら暗唱したという驚きが一緒になって祭司たちの蒼白な顔をつくった。先頭の祭司は感情がこみあげてきたのか、言葉もどもってイェースズに詰め寄った。 


「き、き、君は、何を、言うんだ。頭がおかしいんじゃないのか。エルサレムのどの律法学者より、き、君の方が、偉いのか! 子供が偉そうな口をたたくものじゃない!」


「まあまあ」


 平然な顔をして、大祭司はそれを抑えた。


先生ラビ


 イェースズはさらに言葉を続けた。


「この過越の祭りって、どこかおかしくありませんか? 神殿ってもっと神聖な所だって、僕は思っていました。それなのに殺される動物たちの悲しげな悲鳴と、肉を焼く臭いばかり。あんまり、かわいそうだ。どうして神様の前で、こんな残酷なことができるんですか? 正しい神様は決して犠牲を求めないって、僕は思うんです。もし犠牲を求めたとしたら、それはうその神様だ」


 彼らの前は、たちまち黒山の人だかりとなった。


「あの子供は、誰だ?」


 などという会話が、人々の間から漏れたりしている。


「あの訛りは、ガリラヤだな」


 普段から田舎ものと蔑んでいるガリラヤの、しかもこんな子供が大祭司と堂々と渡りあっているのである。


「見世物ではありません。皆さん、散って下さい」


 興奮した祭司たちは、周りの人垣を撒き散らそうとした。だが、人々は容易に去らなかった。

 だが、ようやく人垣も消え、元の雑踏に戻った後も、まだその場を去らない人たちもいた。それは、その存在自体が人垣ができる対象になりそうな、異様ないでたちの異邦人であった。

 一人の高貴そうな若者と従者らしき三人の男で、一様に頭に長くて細い布を何重にも巻き付けていた。色黒い肌で、額の中央には入れ墨で赤い円が描かれていたそんな人たちだ。

 もちろん、エルサレムでそのような風体の異邦人を見かけることは珍しい。ローマ人ともエジプト人とも、パルチア人ともまた違う。そんな彼らは興味深げに、大祭司とイェースズのやりとりを凝視していた。


 ユダヤ人の通詞が一人ついているようで、その者はイェースズたちのアラム語での応答をギリシャ語に通訳し、異邦人の従者の一人がそれをさらに彼らの言葉に訳しているようだった。

 その一つ一つに異国の貴人たちは、感心したようにうなずいて聞いていた。しかしイェースズと大祭司は、そんな異邦人たちに目もくれる様子はなかった。


「君はいったい、何ていう名前なんだ?」


 と、大祭司はイェースズに尋ねた。


「ガリラヤはカペナウムの、ヨセフの子のイェースズです」


「一緒においで。もっといろいろと話をしよう。ともに手をとって、神の愛を探そう」


 そう言って大祭司は、イェースズに一緒に最高法院へ来るよう促した。イェースズはうなずいた。



 エルサレムの町は、南北に走る縦の城壁で分けられている。その東側に神殿はあるが、それ以外の南の方は下の町と呼ばれる庶民の町で、西側は祭祀の邸宅や役所が立ち並ぶ上の町である。

 ヘロデ王の宮殿も、その西の端にあった。上の町にはギリシャ風の野外劇場などもできている。東側の方は神殿だけは小高い丘だが、全体的に西側の上の町より地形的にかなり低くなっていた。


 最高法院サンヘドリンは、当然のこと上の町にあった。石造りの荘厳な建物で、ユダヤ州はローマ知事が統治してるとはいえ、事実上はここがユダヤ人にとっての行政府なのである。

 その最高法院の一階の小さな部屋に通されたイェースズは、律法学者や祭司たちに囲まれ、律法に関しての議論をしていた。

 その頃イェースズの両親は、下の町の旅宿で我が子の帰りを待っていった。


「それにしても遅いなあ」


 ヨセフは二階の窓辺に座って、はるか前方に高くそびえる神殿の城壁を見ながら言った。


「もうそろそろ、日も暮れる」


「大丈夫よ。サロメがついているんだから。サロメならここの宿の場所も知ってるし」


「そうだなあ。サロメのことだから、いろいろ説明しながらイェースズにエルサレム見物でもさせているんだろう」


「何しろ、あの子、もの心ついてから、ここへ来るのは初めてですものね」


「ああ、ずるい!」


 と、ヨシェが突然叫んだ。


「お兄ちゃんばっかり、見物してるの?  僕も行きたかったのに」


 その隣では、ヤコブがやけにニコニコして座っていた。

 その時、階段を上る音が聞こえた。


「ほら、帰ってきた」


 ヨセフが、部屋の入口の方を見た。ところが、入ってきたのはサロメ一人だった。


「あれ? イェースズは?」


「申し訳ありません」


 大声でサロメは叫び、ヨセフの足もとにひざまずいた。


「どうしても見つけられなくて。それで今までかかってあっちこっち探したんですけど」


「え? 一緒じゃなかったんですか?」


「申し訳ありません」


 ヨセフは立ち上がった。


「探しに行こう」


「私も!」


 マリアも立ち上がってから、


「子供たち、お願いします」


 と、サロメに言い残して二人は出て行った。

 彼らは再び、神殿へと戻った。雑踏は相変わらずだ。異邦人の庭で二人は我が子の名前を叫びながらさまよい、周りの人々はそのために奇異な目を彼らに向けた。 マリアはほとんど半狂乱になっていた。


「イェースズ! どこ!? イェースズ!」


 そんな叫び声も、すぐ人ごみの中に隠されてしまう。二人はしばらくそれぞれ歩き回ってから、美門の外で落ちあった。


「もう、神殿にはいないのかもな」


「じゃあ、どこへ行ったっていうのよォ!」


 泣き崩れるマリアを、ヨセフはやっとの思いで抱き上げた。年が離れている二人だけに、はたから見れば親子げんかをしてるように映っただろう。


「聞いてみよう」


 マリアをエスケープしながらヨセフは、その辺りに店を出している商人に聞いてみた。


「十二歳ぐらいの、赤金色の髪で、ブルーの瞳、赤らっぽい顔をした男の子が迷子になっていませんでしたか?」


 だが、たいていの商人は、知らないと言った。誰もが客相手に、それどころではないようだ。それでも五人目に尋ねてた鳩売りが、はじめて首をかしげてくれた。


「あの子かな?」


「え?」


「昼前だけど、あっちの方で祭司さんたちと難しい話をしてたっけ」


「それだ!」


 と、ヨセフは手を打った。驚いて鳩売りは身を引いた。


「旦那。びっくりさせないで下さいよ」


「その子だよ。その子、どこへ行った?」


「さあ。何でも大祭司さんが、ゆっくり律法タルムートの話をしようとか言って最高法院サンヘドリンに連れて行ってしまったんじゃなかったっけかなあ」


「え? 最高法院?」


 ヨセフもマリアも、思わず互いの顔を見合わせた。


「しでかしてくれちまったよ。これを心配してたんだ」


 ヨセフは頭を抱え、その場にしゃがみこんだ。鳩商人は、すでに商売に戻っていた。

 ヨセフとマリアは、すぐさま上の町の最高法院へと向かった。

 入口で事情を離してして中へ入れてもらい、イェースズがいると聞いた部屋に向かう廊下を二人はそっと歩いた。入ってすぐの部屋だった。廊下を歩いていくうち、紛れもない我が子の声が聞こえてきた。

 思わず走りだそうとするマリアの腕を、ヨセフは強くつかんだ。扉の前で、しばらくイェースズの話を聞きたかったのだ。

 イェースズは、朗々とイザヤの預言書の暗唱していた。


「『主は言われた。この民は口をもって私に近づき、くちびるをもって私を敬うけれど、その心は私から遠く離れ、彼らの私をかしこみ畏れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。それゆえ、見よ、私はこの民に、再び驚くべきわざを行う。それは驚くべき不思議なわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される。わざわいなるかな、己が計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、誰が我々を見るか、誰が我々のことを知るかと言う。あなた方は転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られたものはそれを造ったものについて、彼は私を造らなかったと言い、形造られたものは形造った者について、彼は知恵がないと言うことができようか』――これは、イザヤの書の一説ですね」


 人々の間で、驚嘆の声が漏れた。イェースズが何も見ずにそらで、しかも堂々とヘブライ語で歌いあげたことに対する驚嘆の声のようだ。


「そこで、この部分の解釈を、どなたか教えて下さい」


「そ、それは、君こそふさわしいのではないかね」


「はい。では……。この章の最初のアリエルとは、エルサレムのことでしょう。だって、今のエルサレムは利己主義と残酷の町ですね。祭司、学者さんとかはと貧しい人々を虐げて、自分だけいい目を見ているでしょう」


 人々の間で、ざわめきが起こったようだ。それでもイェースズの言葉は、調子が変わることはなかった。


「今、神殿でやっている生け贄は、神様からご覧になれば鼻つまみものですよ。神様は人が一人一人自分を捨てて、自分を捧げることを望んでおられるのではありませんか? 人知で作り上げた律法を神様の掟のように思っている。でも、こんなエルサレムはすぐに異邦人に滅ぼされるって、ちゃんと預言書に書いてありますよ」


 人々のざわめきは、さらに高まった。もし、こんなことを普通の大人が言ったなら、その後の身の安全はあり得ないだろう。しかし、イェースズが十二歳の子供であるということが、ただ彼らの口をあんぐりと開けさせたままにとどめていた。


「でも、ユダヤ人は各地に散らばせられることになるでしょうけれど、時がきたらまた集められるそうですね」


 イェースズがそこまで言った時、マリアはとうとう我慢ができず部屋の中に入っていった。そしてほかの人々には目もくれず、ツカツカとイェースズのそばに歩み寄った。イェースズは一瞬の迷惑そうな顔を、マリアに向けた。


「イェースズ。ずいぶん探したのよ。こんな所で、こんなことしてて……」


 イェースズは、しばらく黙ってマリアを見ていた。そして、口を開いた。


「お母さん。僕にはどうしてもやらなければならない、重大な使命があるんです」


「何言ってるの。帰りましょう」


 マリアはイェースズの手を引いた。後から入ってきて、ヨセフは学者や祭司たちに、ただひと言、


「お騒がせしました」


 と、だけ無愛想に言った。


「あなた方、この子の親ですか?」


 そう言って詰め寄り、何か話を聞きたげにしていた人々を強引に振り切って、三人は最高法院を出た。


 宿に着くまで三人とも無言だった。

 そして翌朝早々に、一行はカペナウムへの帰途に着いた。


(「第二章 東方修行時代」に続く)

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