人間・キリスト
John B. Rabitan
序 章
<ナザレの家>
お告げ
――恵まれた
そんな声に少女は水瓶を抱えたままふと足を止め、愛らしい瞳を天に向けた。彼女のあとに続いていた七人の乙女たちは、少女が立ち止まったので石段の途中で躓くように足を止められた。
「なあに? マリア、どうしたの?」
「今、声が……」
腕の中の水瓶をもう一度しっかりと胸に抱きなおし、マリアはもう一度朝日に輝く周りの風景を見回した。そこには一面の緑の大地が、森林におおわれた丘陵地帯にある山の中途の狭い石段から見下ろせるだけだった。
彼方地平線の方に霞む低い山々の間から、今昇ったばかりの太陽がそんな大地を照らしている。
「私たち、誰もあなたに話しかけていませんよ」
「いえ、皆様方ではなくって、空の方から……」
マリアの後ろに並ぶ乙女たちの間から、忍び笑いが漏れた。
「まだ、目が覚めてないのね」
幻聴という言葉が、マリアの頭をよぎった。十八歳のマリアは長い髪が黒くて美しい、まだどこかにあどけなさの残る美少女だ。
八人の乙女たちの信仰共同体は毎朝日の出とともに太陽礼拝を行い、その帰りに水を汲んで帰ってくることになっている。八人の中でいちばん若いマリアはいつもなら水汲みのあとは最後尾を歩くのだが、今日に限って先頭を歩いていたのである。
――恵まれた方 マリア!……
「あ! また!」
マリアの叫びとともに、七人は一斉に空を見上げた。だがマリアの目にも、そこにはまだ淡くセルリアンブルーが残るよく晴れた空があるだけだった。
「早く行きましょう」
最後尾のサロメの、目は笑みながらの一声で、七人が先頭のマリアをつつく形となった。再び歩きだし石段を昇りながらも、マリアは今聞いた「幻聴」のことを考えていた。幻聴にしてはあまりにも鮮明な声であった。
そして今ひとつ、不思議な現象もあった。幻聴の言葉は最初は聞いたこともない外国語で、ヘブライ語でもギリシャ語でもラテン語でもなかった。だが、頭で理解した時は、マリアが普段使っているアラム語となって彼女の心に焼き付いていたのである。
やがて彼女らは、山頂の僧院の門までたどり着いた。岩肌の洞窟の入り口のような形になっている鉄の門だ。門はひとりでに開かれ、八人の乙女はひんやりとした洞窟の中に入った。門の内側では、年老いた尼僧が門の開け閉めをしていた。
乙女たちはそれぞれの水瓶の水を溝に流し込み、水は彼女らが沐浴する場まで勢いよく流れていった。その沐浴と黙想から、一日が始まるのだ。
僧院は「ナザレの家」と呼ばれていた。ナザレとは地名ではなく、律法学者を中心とするパリサイ
もちろんエルサレムの神殿に祀られているイスラエルの民の神を信仰している点ではパリサイ人やサドカイ人と変わらないが、彼らのようにローマ帝国によるこの地の植民地統治に妥協したりはせず、かといって
彼らは人里離れたこの丘陵地帯に俗世界とは隔離された僧院を造り、戒律厳しい共同生活を送っていたのである。
彼らのただ一つの希望はローマからの政治的な独立などではなく、メシア降臨それだけだった。
もちろん、こういった僧院に入らずに町に住む、いわゆる在家のナザレ人もいたわけで、マリアもそういった在家のナザレ人のヨアキムとアンナの子として生まれた。
そしてマリアが十二歳の時、メシアの母候補の一人に選ばれ、同じ候補の八人とともに今日まで、貞節、純粋、愛、忍耐、耐久性の修錬である共同生活を続けてきたのである。
その生活の中で誰もが最年少のマリアの愛くるしさが好きであったし、またマリアが最も賢いという評判もあった。
その日の夕方まで、朝聞いた「幻聴」がマリアの頭から離れなかった。
就寝前のひと時には一人ひとりそれぞれの部屋で黙祷をする時間があり、それが一日のうちで一人きりになれる唯一の時間だった。
壁も天井も自然岩をくりぬいただけの部屋の中には、薄暗いろうそくが三つともされていた。そんな部屋に入っても、この日のマリアは黙祷どころか朝の幻聴のことで頭はいっぱいだった。
「恵まれた方」
マリアは紫と緋の膝掛けをいじりながら、その言葉をあえて口にしてみた。今は、はっきりとしたアラム語で言える。
「アヴェ マリア」
――恵みに満ちた方 マリア……
マリアは、はっと顔を上げた。あの声だ!
その瞬間、閃光のかたまりが彼女の視界を占領した。その光のかたまりが、ぐんぐんと彼女にぶつかってきたように思い、次の瞬間には彼女自身が閃光の真っ只中にいた。
同時に、頭がクラッとした。
光が失われた時、彼女は自分の目を疑った。確かに今までいた部屋にいるが、しかし言いようのない浮遊感覚が彼女のものであり、気がつくと天井あたりから部屋を見下ろしていたのだった。そして床に転がっている人を見て、彼女は息も止まらんばかりに驚いた。
それは、自分自身だった。
死んだように力を失って、もう一人の自分は冷たい石の床の上に倒れていた。そして空中に浮かんでいる今の自分と倒れているもう一人の自分との間は、黄金色の細い二本の糸でつながれていた。
だが、もう一人の自分をじっくりと見る暇もなく彼女の意識はぐいぐいと上に引っ張られ、天井をも素通りして急上昇した。思わず全身の力をこめて悲鳴を上げたマリアだったが、いつの間にか一面薄い黄金色に輝く世界に彼女は一人で立っていた。
足もとは地面なのだか何だかよく分からない。しかし、確実に足で立っていた。それには紫の雲が立ち込めて、全体が金色に明るく光っている。
――美しい!……
マリアは目を細めた。こんな美しい場所を、今までに見たことはなかった。
すると突然大きな稲妻が響き、先ほどの光のかたまりが再び目の前にぶつかってきた。
光の中に声があった。
――恵まれた方 マリア……
またしてもそれは耳で聞こえる音ではなく、心に直接響いてくる声だった。しかも朝と同じで、最初はわけの分からない外国語なのに、胸にあたりでどんどんアラム語に翻訳されていく。意識の中でアラム語で理解できてしまうと言った方が正確だった。
――
しばらくは呆然と立ちすくんでいたマリアも、我に帰るとその場にひれ伏して震えはじめた。
――あなたは女のうちで祝福され ご胎内の
そんな言葉が、次々にアラム語に変わる
……恵みに満ちた聖マリア、
胎内の子というまだ乙女である彼女にあり得ない言葉を聞いても、そのようなことにこだわるゆとりはこの時のマリアにはなかった。そしてようやく一つのことに気づき、心の中でその気づいたことを反復させた。
――
まだ言葉に発してもいないのに、マリアが心の中で思っただけなのに、自分は死んだのではないか、そしてこの光のかたまりは神様なのかという疑問は、すでに相手に伝わっていた。そうでなければ、言いもしない前に、こういう返事が返ってくるはずがない。マリアはもう、口を開こうとはしなかった。
――私は、死んではいないのですか? 主よ、私は主に召された日がついに訪れたのではないのですか? あなたこそが主なのでしょう?……
マリアは心の中で、それだけを思った。返事はすぐに返ってきた。
――汝は死にあらず。さりとて、今は汝は肉身の
光はやがて、その輪郭をあらわにしはじめた。マリアはそっと顔を上げた。
光は人の形となった。輝く白い衣の背の高い人だが、光であることには変わりなく、その光にうもれて微かに顔が見えた。しかし、男か女かが分かるような状況ではなかった。
――恵まれしもの、マリアよ。汝は神の
――あなたはいったい、どなたなのでしょう? 神様でないとしたら……
――汝等の申す天使とでも申さんか。神にあらずして神のみ使いにて、神のみ
――おっしゃることが、よく分からないのですけど……
――今はまだ分からずしてよきなり。我もまたこれらのこと、汝等には明かなに告げ申すこととできざる訳あり。今はまだ
マリアは、ただただ心を無にすることしかできずにいた。
――されば我、汝に告げ申すべき役のみを今は果たさん。汝には
――でも私にはまだ、夫もおりませんのに……
――ただただ真ス直になりて、不可視の
――あなたは、あなたはどなたなのですか?……
――すでに申せし通り、我は神より使わされしもの。
――でも、いきなりそのようなこと……。私……いったいどうしたらいいか……
マリアは心持ち目を伏せた。確かに何もかもが唐突すぎる。今、こういう世界にいて、こういうことを言われているという状況自体が、たとえ人からは賢いといわれている彼女にとっても頭の中で把握しきれていなかった。
――重ねて申し聞かさん。今はただ、
――真ス直に……
心の中のわだかまり、疑惑……それらのすべてを取り払うことが真ス直なのだろうか……そう思った彼女は、それならそうしてみようと決意して目を上げた。
――私は主の
その瞬間、ものすごい光のエネルギーのかたまりが、全身にぶつかってくるのをマリアは感じた。波動がマリアのすべてを包み、心の中から温かいものがこみ上げ、魂までもが光に満たされたようであった。体は感動に打ち震え、目からはとめどなく涙があふれ出た。
今こそ神と一体化できた。神と波調が合った……そう思った瞬間、もはやマリアという一個人の己は歓喜のうちに消滅していた。
マリアの意識が戻ったのは、いつもの僧院の一室でだった。
ベッドに寝かされていたマリアは、心配そうにのぞき込む七人の仲間の顔を横になったまま見上げた。
「あ。気がついた!」
仲間たちは開かれたマリアの瞳を見て、飛び上がらんばかりに喜んでいた。
聞けば、黙祷室で倒れているところを発見されたマリアは、その後しばらく仮死状態だったという。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
周りのみんなからは、安堵のため息が戻った。
それからもマリアは、自分が意識不明だった時に体験したことを深く心の中に秘めた。
そんなことがあった直後、マリアはある在家のナザレ
この頃の三十六歳といえばもはや初老であり、しかも三十六歳と十八歳といういかにも不釣り合いな年の差夫婦であったが、そうなったいきさつにもマリアは神の力を感ぜずにはいられなかった。神理の智が与えられ、神の力で身ごもるとはこのことだったのだとマリアははじめて気がついた。ただ、マリアがメシアの母候補であることは、夫のヨセフには知らされていなかった。
二人はガリラヤ湖畔のカペナウムに住み、やがてマリアはヨゼフによって身ごもり男の子を生んだ。
時に紀元前六年。ユダヤはローマ帝国の間接支配下にあり、ヘロデ王に委託統治されていた時代だった。
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