人妻と付き合っています。

桐生彩音

001 気まぐれにナンパしています。

 その日はどんよりとした曇り空で、いつ雨が降ってもおかしくないのだが、なかなか振り出さないので傘を携帯するかどうかで、悩んでしまう人間が増加する一方だった。

 しかし、そんなことは放課後に遊び歩いている男子高校生こと雨宮あまみや公彦きみひこには関係のない話だった。多少ボサついている黒髪をいじりながらも、おとなしめの風貌とは真逆に何か面白いものがないかと、視線を振り回している。

「暇だ……」

 いつもなら美術部に所属している幼馴染の元で時間を潰しているのだが、今日に限って部活動は休止、少ない部員総出で画材の買い出しに出かけていた。よく遊びに行く公彦だが、美術部に所属しているわけではないので買い出しには加わらず、こうして街中をぶらつくことにしたのだ。

 帰宅部に所属している公彦は暇あらばアルバイトをして遊ぶ金を稼いでいるのだが、美術部が休みだと聞いたのはつい先程のことなので、これから追加で働かせてくれというわけにもいかない。

 これといった趣味もないので、稼いだ金でゲーセン三昧でもしようかと駅前のゲームセンターに向かって歩いている時だった。

「……ん?」

 彼女を見かけたのは。

 相手は年上らしいが、見かけは明らかに二十代前半。少し胸は薄いが細目の顔立ちに肩甲骨までの染めた金髪がよく似合っている。スマホをいじっている彼女はTシャツの上に上着を羽織り、ジーンズ姿で大きめのバックを肩に掛けている。

 信号待ちでもなく、特に誰かと待ち合わせている様子もなさそうなので、おそらくは仕事上がりなのかもしれない。暇だから次の予定を決めるために調べ事をしているか、知り合いに声を掛けているのだろう。

 と、普段ならば気にすることもなく通り過ぎてしまうのだろうが、幸か不幸か今の公彦は時間を持て余していた。しかも給料が入ったばかりなので、財布にも厚みがある。

 だから強気になってしまったのか、公彦は気まぐれにも、生まれて初めてナンパをしてしまったのだ。

「お姉さん、今暇?」

「ん~?」

 その女性はスマホから顔を上げると、一度キョトン、としてから左手を掲げて見せた。その薬指には自らの人生を捧げた相手、生涯の伴侶がいるという証がキラリと光っている。

「失礼、奥さんでしたか……」

「まあ、若い子にナンパされるのは、悪い気がしないけどね~」

 彼女は公彦を軽く笑うと、スマホをジーンズのポケットに差し込んだ。

「……君、ナンパ慣れてないでしょう?」

「というより奥さんが初めてです」

「ちゃんと観察しないと駄目だよ~男がいるかどうか」

 しかし当の奥さんはむしろ楽しげに、公彦のことを見つめていた。身長が少し低いから上目遣いとなってしまい、男子高校生の心臓を無駄に高めている。これで谷間が見えるくらいに胸が大きければ、まともに見つめ返すことも難しかっただろう。

「まあ、久しぶりにナンパされて気分いいから、軽い注意だけで留めてあげよう」

「ありがとうございます。奥さんは……ナンパ慣れしているんですね?」

「若い時はけっこうモテてたからね~」

 今でも若いと思う公彦だが、口に出すことはなかった。

「おかげで単身赴任に行った旦那からは直前まで心配されまくり。おっぱいちっちゃいからセクハラはないけどね~」

「代わりに大きい人がセクハラを受けているんですか?」

「おっぱい大きくて浮気癖のある他の人妻と不倫しているから、おとなしくしている感じ」

 へぇ、と乾いた返事しかできなかった。ただの男子高校生である公彦にとって、浮気や不倫をするという感覚が理解できないからだ。

「……おや、浮気するという感覚が分からない?」

「まあ、そんなとこです……」

 特殊な事情がない限り、相手を一番愛したから付き合うという感覚が正常なのだろう。公彦もよくいる男子高校生なのでその手の本や映像も見たことがあるし、浮気や不倫、なんならNTRという言葉も知っている。それでも経験にとぼしい公彦には、その概念を理解することは難しかった。

「なるほどなるほど……ちなみに夕飯までには家に帰るつもりだった?」

「いえ、親の仕事が忙しくて、平日はいつも一人飯です」

「そかそか……よし、一緒にご飯を食べに行こう」

「…………へ?」

 公彦の口から、間の抜けた声が漏れ出てきた。

 浮気や不倫に対して否定的だと思っていたのに、なぜかご飯を食べに行こうと誘われたのだ。単身赴任に行っているとかいう旦那はいいのだろうか。

「実は旦那が全然連絡くれなくてね。忙しくても音沙汰がないと浮気しちゃうよ、って言っちゃっているから……せっかくだしどうかな、って」

「ええと……」

 果たして行ってもいいのだろうか?

 公彦は少し悩んだが、それでも性への欲求が留まることはない。

「……じゃあ、近くの洋食屋とかどうですか? 一度行ってみたいところがあるんですよ」

「おっけおっけ。ちょうどお腹も空いてきたし、さっそく行こっか」

 そして彼女は、公彦の腕を抱きしめてもたれかかってきた。

「え、へぁ?」

「こらこら。ナンパしようとしといて、これで照れてたら身体が持たないよ~?」

 若くて明るい人妻に遊ばれているのは感覚で分かる。けれども年上の女性と食事に行けるということに、思春期の男子である公彦は鼻の下が伸びるのを止めることはできなかった。

「ところで君の名前は?」

「雨宮、公彦です……」

「そこで本名かたっちゃ、面倒事が増えるよ~」

「うう……じゃあお姉さんのお名前は何ですか?」

「仕方ない、本名を教えてあげよう」

 若き人妻はやれやれ、といった感じで腕を組んだまま、公彦を見つめながら名乗った。




未晴みはる柄澤からさわ未晴みはるって名前だけど、きずりの関係希望なら覚えなくてもいいよ~」




 二人は腕を組んだまま、目的地の洋食屋へと歩き出した。

 幸いにも互いの知り合いが二人を見ていなかったので、揉め事が起きないまま洋食屋の扉を開けて、テーブルへと着くことができた。

「ふむふむ……結構いい雰囲気のお店だね」

「良かった。前から気になってたんですけど、普段食いするにはちょっとハードルが高くて……」

 とは言いつつも、値段に関しては割とリーズナブルな方だ。常連としては難しいが、たまの贅沢に来る分には問題ないくらいだろう。しかし慣れない雰囲気に気後れしてしまい、年上の人と一緒に食事する機会とかでもないと、こうして来ることは男子高校生にとって難関だ。年上の美人のナンパに成功(?)したからこそ、こうやって訪れることができたのだ。

 その幸運に感謝しつつ、公彦は注文したデミグラスオムライスを頬張っている。その様子を眺めながら、ナンパされた人妻こと未晴はチキンドリアを口に運んでいた。

「というか、無理に敬語じゃなくていいよ。面倒臭めんどいでしょう?」

「じゃあ、ちょっと適当にします。……未晴さんは、いつも食事はどうしているんですか?」

「人妻やっているんだから、しっかり自炊しているよ~。まあ、食事のネタがなくて買い出し前に献立を考えていたらナンパされちゃって、今ここで一緒に食事しているけどね~」

 どうやら最初に見たスマホをいじる行為は、夕食をどうするか考えていたらしい。だから気まぐれに公彦のナンパに引っかかったのかもしれないが、そんな些細なことは関係なかった。

 今の公彦にとっては、未晴と一緒にいられれば過程等どうでもいいのだ。

「……そう言えば公彦君って、門限とかあるの?」

「いや、特には。いつもバイトとかしているので、遅くとも22時には帰っていますけど」

「そっか……じゃあ食事の後どこか行く?」

 公彦は無言で何度もうなずいた。すごい勢いで大抵の人間は引きそうなものだが、未晴は気にせず微笑ほほえんでいる。

「よしよし……まあ今日が初めてだし、この後はどこかで遊んでから解散、ってことで」

「……また会えますか?」

「こらこら、人妻に期待しちゃダメだって。……でも、ま」

 ドリアをすくっていたスプーンを置き、その手で頬杖をついた未晴は、公彦に静かだが楽し気な笑みを浮かべながら言った。




「そこは君との相性次第……かな?」

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