逆転した立場

 ――なんなの、あの女。


 アジトに帰還した千奈美は、慧の殺害を阻んだ長髪の女性を思い出す。

 彼女さえいなければ完遂できた。終わりにできたはずなのに。

 思いに耽れば、怨嗟は深さを増すばかり。


 ――違う。


 邪魔されて苛立つ千奈美だが、目を背けてはならない事実もある。

 殺せなかったのは、妨害だけが理由ではない。

 最後に銃を向けたとき、彼女は彼を撃ち抜けた。

 当たらなかったのではない。当てなかったのだ。彼女が、彼女自身の意志で拒んだから。


 言い訳はあった。それが言い訳にならないともわかっていた。

 鏡花に余計なことを指摘され、感情が蘇ってしまったのだ。

 殺したい欲に嘘はない。恩人を最悪の形で裏切った彼への憎しみは深い。

 だが八年間という時間は長すぎた。彼と育んだ思い出のすべてが偽りで、無価値なゴミ。そう決めて千奈美は忘れようとしたが、数日で記憶から消えるほど浅くはなかった。

 初対面の鏡花は、千奈美が捨てようとする感情を見透かした。大切なモノであるはずだと、思いださせた。

 鏡花さえいなければ、慧への想いが蘇ることもなかった。


 ――それも、違う。


 割り当てられた部屋のベッドに座り、千奈美は古びた電灯の下でかぶりを振る。

 認めたくないが、認めなくてはならない。

 忘れられるわけがないのだ。

 千奈美の胸に渦巻く慧への憎悪は本物だ。彼を消してしまいたい。胸の内から湧き上がる殺害欲求が、繰り返し彼女を刺激する。

 彼の殺害は藤沢のためになる。ならば、千奈美の選択も決まっている。


 彼を殺しても、過去の幸せまでがなくなるわけではない。それに気づけなかったから迷ったのだと、千奈美は自己を分析した。結果的に殺しあう関係となってしまったが、彼の生涯の全部を憎むことはない。

 何もかも否定しようとしたから、矛盾に迷った。鏡花はその弱点を的確に見抜いた。


 ――得体の知れない奴……。


 AMYサービスに寝返った慧の隣には、いつも鏡花がいる。

 新たなアジトを偵察に来たときも、慧を急襲したときも、彼女は慧のそばに立っていた。AMYサービスの本拠地で慧に向けられた刀も、鏡花が彼に手渡した。

 フリーフロムにいた頃、慧の隣にいたのは千奈美だ。彼を守ることもサポートすることも千奈美の役目だった。彼女はその立場が好きだった。心の支えになってくれる慧に、恩返しができている気がしていたから。

 だけど、本当はもっと単純。ただ隣にいるだけで嬉しかった。

 それなのに、鏡花は何食わぬ顔で代わりを務めている。慧も彼女には心を許している。千奈美はそう決めつけずにはいられない。でなければ、常にそばに置くなんてありえない。

 ともすれば、男女の間に芽生える特別な感情さえも――


「ふざけないで……ッ」


 頭に浮かんだあまりに許せない可能性。耐えるように握られる千奈美の拳が軋む。

 呻き声をあげた。行き場のない怒りを抑えようと額を両手で抱え込む。


 ――……認めよう。


 慧には未練がある。慧を殺す覚悟が足りていない。

 彼に対する本心を認める。そのうえで、決意しなければならない。

 彼女の知る慧はどこにもいなくなった。彼は変わってしまい、戻ることはない。

 独りになってもいい。本来なら失われていたはずの命。なにかを手に入れられるほど、自由を許される立場ではない。

 生涯をフリーフロムに尽くす。恩人のためにも、それ以外にありえない。

 恩人の脅威となる裏切り者の首は狩るしかない。

 彼に、愚かな選択を後悔させるためにも。


 千奈美はベッドから立ち上がる。安価な木製の机に置かれていたナイフを手に取り、ホルダーから刃を抜く。鈍く輝く刀身に彼女の瞳が映った。

 その瞳は、歪んでもいなければ笑ってもいない。標的を殺すという目的を遂げるためだけに在るようだ。

 今日の深夜には、各地に散らばるフリーフロムの構成員が本拠地に集結する。しかし藤沢は当初の予定を変更して、あさっての早朝に総力を挙げてAMYサービスの邸宅を奇襲すると決めた。雇った傭兵の到着が明日となるためだ。

 千奈美でも仕留めきれない相手が敵にいるならば、フリーフロムのみでは不安がある。武器はあれども、宝典魔術師は千奈美しかいないのだ。やむを得ず藤沢は計画の変更に踏み切った。

 いずれにしても、襲撃の際に慧と千奈美は対峙する。


 ――もう、同じ失敗は繰り返さない。


 千奈美は後頭部に手をまわす。髪をまとめていたゴムを外した。ほどけた髪から汗の臭いが広がる。構わず握り束にして、ナイフを下から当てる。

 決別のためだ。

 慧が変わってしまったのなら、自分も変わらなければならない。

 慧の知る姿でなくなれば、迷いを完全に断ち切れる気がした。


 ――……。


 彼女はナイフを動かさなかった。

 束ねていた髪を解放する。指の隙間から、一本一本が流れ落ちる。

 手にしていたナイフをホルダーに戻し、元あった場所に置いた。


 形にしなければ気が済まないなんて情けない。千奈美は自分の弱さに嫌気がさした。

 そんなことをせずとも、もう迷ったりはしない。

 掲げた決意は揺らがない。

 入口のドア付近にあるスイッチを押して、千奈美は部屋を消灯した。ベッドに身体を預ける。

 昨夜と同じく、今日も眠れそうになかった。

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