鏡花が守るもの、千奈美が守るもの
千奈美の宝典から光が炸裂する。その速度は彼女が着地した際の風圧を凌駕し、半壊した部屋の隅々まで波及する。
直後、灰色の及んだ範囲を同じ色の氷が覆った。瞬時に凍結したのだ。
――まだ、この魔術が使えるのか。
その魔術から、慧は彼女の本心を推察する。爆発に巻き込まれた際と同じ。彼は狙われた張本人でありながら、そんなふうに心を動かすことができた。
結露した冷凍庫の内部を連想させる景色。慧と鏡花を囲う円形の範囲だけが元の状態を維持していた。
鏡花が発動させた魔術に含まれていたのは、最も硬いと評される宝石。行使された防壁は、まさにその名を冠するに相応しい。
ダイヤモンドの石言葉は〝純潔〟。心に一切の穢れがなく、清らかでなければ使用を許されない魔術だ。そう仮定した場合、これは本来ならば誰にも扱えない魔術といえる。
宝典魔術は術者に異能を授ける。そして、異能は人智を超えた力を欲する者に与えられる。
ゆえに、宝典魔術を得た時点で〝純潔〟とはいえないのだ。
ダイヤモンドの魔術とは、宝典魔術師である以上、宝典魔術師には使用できないといった矛盾を抱えている。使えるとすれば、一度は穢れながらも心を浄化できた者。そんな人物がいるとすれば、それ以上に信頼できる者はいない。
命綱なしの降下でも無表情を貫いていた千奈美が、驚愕を隠せずにいた。眼差しは冷徹を装っているが、その奥には明らかな戸惑いが混じる。
相手の心の乱れなど気にした様子もなく、鏡花は薙刀を片手で振り上げた。
掲げた得物を左から右に薙ぎ払い、自らの展開した結界を切り裂く。
完全無欠の防御を誇る結界が弾け、残滓が四方に拡散する。それは千奈美の放った灰色の氷を悉く粉砕した。瞬く間に凍結された室内は元の色を取り戻す。
薙刀を両手で構え直す鏡花。彼女は片膝をつき姿勢を低くする千奈美を見据えた。
「九条千奈美さん。ここは退いてくださいませんか?」
「私の名前……慧が教えたのか」
「昨夜の一件の際に、上倉くんが呼んでいるのを盗み聞きしてしまいました。お詫びといっては変ですが、私は天谷鏡花といいます」
「どうでもいい。邪魔するなら、お前も一緒に殺すだけ。次も防げると思うな」
「おかしいですね。先ほど防げたのは九条さんが手を抜いていたからだと思うのですが」
鏡花が思わぬことを尋ねた。慧は記憶を探る。
いわれてみれば、過去に何度か見たときよりは威力が抑えられていた。過去に似たような状況で発動された際には、床だけでなく天井までも瞬時に凍てつかせていたのだ。氷自体にも、もっと厚みがあった。
質問には答えず、黙したまま千奈美は鏡花を見据える。
ほとんど身長の変わらないふたり。互いに言葉を交わさず、千奈美は鋭い眼光を飛ばし、鏡花は無感動で見つめ返す。
問いかけに答えるつもりがないと判断したのか、鏡花は返答を待つことをやめた。続けて口を開く。
「伝えてあげればいいと思いますよ。それで解決するかもしれません」
「……なにを言ってるかわからない」
「そうですか? 九条さんが手加減したのは、かみく――」
「――っ!」
千奈美が左手で素早くナイフを引き抜く。鏡花を目指して駆け出す。
いいかけた言葉を中断し、鏡花は薙刀を軽く突いて牽制。長柄武器の突きを、千奈美は上体を逸らす最小限の動きで回避する。
千奈美は捻った身体を戻し、ナイフで綺麗な半月を描く。
標的は薙刀を握る鏡花の手元。避けようがないほどの電光石火のカウンター。
鏡花は冷静だ。手元に迫る刃に、薙刀の柄を立てて対処した。
「格闘も得意なんですね」
「お前なんかにッ!」
競り合う両者。薙刀が両手武器に対して、ナイフは片手武器。手数で勝負すべきナイフ側は、無理に抵抗せず一旦飛び退いて体勢を立て直すべきだ。
けれども千奈美は引かない。鏡花の圧力を華麗に受け流す。
それだけでは終わらない。
逃がした力を巻きつけるように、右足を軸に身体を半回転。流麗な動作から、遠心力をのせた左足の回し蹴りが放たれる。
卓越した身体能力と状況判断能力が可能にした超人的な対応。
今度こそ一撃をもらってしまうかと思われたが、鏡花はまたしても防ぐ。薙刀を握る両手、その手と手の間にある隙間で千奈美の蹴りを受け止めたのだ。
魔術だけでなく格闘術までも完璧に凌がれ、堪らず千奈美は飛び退く。
ふたりは互いの武器を構え直す。無言のまま視線を交錯させる。
《慧くん、君たち無事かい?》
「いまのところはな」
《それはよかった。しかし気をつけてくれ。さっきのヘリが、いまそちらを目指して高度を落としている》
悠司の発言を裏付けるように、一度は遠くなったローターの駆動音が大きくなっていた。当然、その音は千奈美にも届いている。この場は退いてくれることを慧は期待する。
意表を突くように、千奈美は唐突にショルダーホルスターから拳銃を引き抜く。
銃口は鏡花。引き金は逡巡もなく引かれる。
身の毛がよだったが、鏡花は咄嗟に宝典を盾として銃弾を防いだ。勢い余ってさらに一発、余分な銃弾が撃ち込まれる。
宝典に弾かれた銃弾が硬い床を転がる。音は、ヘリの奏でる騒音に打ち消された。
――退くしかないか。
迷う慧。もはや会話ができないほどに、ヘリが近づいている。
煩わしい音などまるで聞こえていないように、千奈美と鏡花は拳銃と宝典を向け合ったまま動かない。
やがて、硬直していた千奈美の肩から力が抜けた。
直後、彼女の構える銃口が慧に向いた。
火薬の
鏡花が彼を見た。顔に張り付いていた無感動は崩れ、激しい驚愕。
彼女を安心させるよう目を合わせ、慧は銃弾を撃った千奈美を注視した。昨日と同じ、嫌悪感を滲ませた苦い顔を浮かべている。
銃弾はそれ以上放たれなかった。互いに何もできず膠着する。
吹き飛んだ天井から、先端に輪の付いたワイヤーが降りてきた。
千奈美は唇を結んだまま拳銃をホルスターに戻した。崩壊した床のふちまで後ずさる。
「待て――」
お前とは戦いたくない、目を覚ましてくれ。
慧はそう伝えようとしたが、言葉を続けられなかった。
明らかな憎悪をはらむ眼光を前に、喉から声が出なかった。
口を閉ざす慧を睨み、千奈美は風に揺れるワイヤーを掴む。ヘリが上昇する。
視界から彼女の姿が消えるまで、慧は目を逸らさなかった。彼にできることは、それで精一杯だった。
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