第三三宝典魔術
「なんでこの距離で当たんないのよッ! 下手すぎでしょッ!」
「銃の扱いは苦手なんだ。過去に試したんだが、そのときもまったく駄目だった。久しぶりだったからもしかしたらと思ったんだが、やはり難しいな」
「だったら最初からあたしに任せとけば良かったじゃないッ!」
「だが、これで俺が敵ではないとわかっただろ?」
「う、」
敵からの反撃。車内が再び激しく揺れる。
油断していたのか、琴乃が助手席の窓に側頭部をぶつけた。銃声には及ばないが、痛々しい振動が伝う。
「いったぁ~ッ!」
「大丈夫か? ぶつけた箇所が腫れているぞ」
「うぅ~……」
またも弾丸が飛来する。今度はぶつけなかったが、琴乃は腫れた位置を手で押さえ、長い呻き声を発していた。それは痛みを和らげるためではなく、葛藤していたのだ。
一旦口を閉ざすと、琴乃は後部座席を覗き込んだ。
「……わかったわ。アンタが敵じゃないって認めてあげる。ただし、これは一時的なものだから。完全に信用したわけじゃないから」
「ありがとう、琴乃」
「何に対するお礼?」
「信じてもらえるっていうのは、それだけでありがたいものだ」
「そう。なら、受け取っておくわ」
琴乃と交代するように、俊平が慧を眇めた。
「このまま追われるのも鬱陶しい。僕は何事も追われるより追うほうが好きでね。心を許した者以外が後ろに立っているのは我慢ならないのさ」
「信頼してくれてるようで嬉しい限りだ。だがどうする? 悪いが俺は力になれない」
「上倉は休んでいてくれ。ここは、僕たちAMYサービスの実力を見せようじゃないか」
そういうなり、俊平はアクセルペダルを急激に踏み込む。
静かだったエンジンが怒声をあげて、タコメーターの回転数が赤色の領域に迫る。突然の加速に、助手席の琴乃の肩がビクッと浮き上がった。
車は頂点の見えない長い直進道路を爆走する。追跡する敵車両も、撒かれないよう速度をあげた。
「知ってるかもしれないけど、この坂を上りきった先に山で一番の急カーブがある。そこを曲がらず、全速力で直進しようと思う。うまくいけば、ナビに映ってる延長線上の道路に着地できるはずだ。どうだい、胸が躍るだろう?」
「馬鹿なのアンタッ! アンタみたいな狂人と一緒にしないでッ! 向こう岸までどれだけ離れてるかわかってんの!? そんなことしたら、半分も越えられず谷底に真っ逆さまよッ!」
「だからこそ、これは僕たちにしかできないのさ。天谷さん、頼めるかな? この車を反対側まで〝飛ばして〟ほしい」
「わかりました。やってみましょう」
常識ならば不可能と即断できそうな依頼に、鏡花は逡巡せず頷く。
車内にいながらも加速を肌で感じられる。そんな状態にありながら、鏡花は膝に重ねていた右手を水平に伸ばす。運転席の背にかざすよう手のひらを広げると、彼女はその先にある虚空に意識を集中した。
寸秒後、何もない空間に淡い緑色の光が現れる。
微かだった光は次の瞬間には眩しくなり、収まると、輝いていた箇所に辞書のごとく分厚い本が出現した。本の表紙は茶色で、全体が怪奇的な緑色の燐光をまとっている。
その本のことを、慧は知っていた。
「第
鏡花がそう呟くと、宙に浮く本のページが風に煽られているように、触れてもいないのにぱらぱらとめくれていく。それは行頭に≪第三三宝典魔術≫と記されたページで止まり、開かれた本の内側から青色の粒子が溢れ出た。
しかし、長かった坂道の終点も、もうすぐそこまで迫っていた。
急峻な道路は辺りの樹木の高さを越えた。窓の外に広がっていた新緑の樹海が遠くなっていく。
鏡花は何をしようとしているのか。間に合うのか。
慧がそんな心配をしているうちに、
車はガードレールを突き破り、樹海の上空に飛び立った。
「へ……? う、うそ――」
琴乃が気の抜けた声を漏らす。
慧は生まれて初めて、道路のない場所を走る感覚を味わった。摩擦による揺れがないので、その一点に関しては快適かもしれない。
だが、それも一瞬。
重量のあるフロント側が谷底に傾く。
空中に飛び出した車は、当然のごとく放物線を描いて落下を始めた。正面のガラスいっぱいに、底のない闇のような樹林が映る。
「あぁぁぁぁぁッ! ちょ、ちょっと鏡花まだなのッ!? はやくはやくッ! しんじゃう、しんじゃうぅぅぅッ!」
「――フレンジィ・ターコイズ!」
琴乃の悲鳴と同時に、鏡花の口から魔術の名前が発せられる。
青と緑の粒子をまとっていた本が霧散して、拡散した光が車体を包み込む。
瞬間、眼下の森林に突き立つのではないかと思われた車体が、噴水のごとく勢いで上空に押し上げられた――というより、吹き飛ばれた。
スリップするように派手に一回転しながら、車体は飛び立った崖よりも高い位置まで舞い上がる。慣性によって道なき道を進行していた車は、見事に対岸の道路まで到達した。
正確には、対岸にあった道路上の、十メートルほどの高さにある上空に。
「ちょぉッ!? 高すぎよこれぇっ! え、まってまってッ!」
「安心していいよ。この車は、この程度の落下で壊れたりしないさ」
「車が無事でも乗ってるあたしたちは人間よ!?」
「素人じゃないんだ。なんとかなるさ。さて、着地だよ。舌を噛まないようにね」
一度は体勢を立て直した車が、またも頭を垂れていく。曇り空を映していたフロントガラスに、アスファルトの灰色が見えた。
着地。車体を巨大な鈍器で叩きつけられたような衝撃が伝播する。尻が座席から浮き上がり、直後に押し込められた。
車輪と路面が擦れ合うスキール音が耳を刺激する。
尋常ではなかった。
だが俊平のいうとおり車の機能に支障はなく、車は恋しかった道路を平然と走行していた。
「忘れられない体験になっただろう? 思い出の一ページってやつだね」
「むふぅっ! むふぅっ!」
異状がない証拠に、安全装置であるエアバッグも正常に作動していた。車内にクッションを膨らます際の火薬のにおいが充満する。
俊平は萎んでいくクッションの上に顔を出して運転を続けていたが、助手席の琴乃は埋もれていた。彼女の身長が小さいこともあるが、飛び出たクッションのサイズが大きいことにも起因している。
慧と鏡花は無言のまま後部座席の窓をあけた。爽やかな空気がきな臭さと入れ替わる。
呼吸困難から解放された琴乃も、すかさず助手席の窓を全開にした。
「ふぅーっ! ふぅー! 二度も死ぬかと思ったわ……」
「後ろにいた方々はどうなったのかな?」
「落ちました。カーブを曲がりきれず」
「そうか。悲しいね。けれど、これも人の命を狙った報いか」
鏡花の報告を聞いて、俊平は沈んだ声色で呟いた。慧も、追っ手が谷底に落ちる場面を確認していた。
共に暮らしていた者たちの最後に、慧は思う。ほんの少し早く死期が訪れただけなのだと。
あの組織に所属していれば、ここで助かったとしても、いずれは同じ結末を迎える。未来を生きたいなら、行動すべきだったのだ。
彼らと違ってみせるために、慧はAMYサービスに寝返った。
目的を果たすためには、フリーフロムを潰せると断言した鏡花たちの能力を利用する必要があった。大前提として慧は彼女たちの信頼を得なければならなかったが、それには成功したと彼は確信していた。
「上倉くん、怪我はないですか?」
慧の内に秘める感情を知らない鏡花は、真摯な瞳で心配する。
「問題ないが、こんな経験一生に二度はしたくないな」
率直な感想を答えたが、頭のなかではまったく別のことを考えていた。
組織に残してきてしまった、大切な〝彼女〟の安否を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます