エスメラルドの宝典
のーが
第1部
プロローグ
普段は静けさに満ちている建物に、耳を塞ぎたくなる雑音が響いていた。
重たい色の空から滝のように打ちつける雨。それさえ凌駕して、銃声が鼓膜を刺激する。建物は硝煙の臭いで満ちていた。
幾重にもなって聞こえていた炸裂音が、ぷつり、ぷつりと、糸が切れるように数が減っていく。
地下に続く隠し通路の扉を開いた盗賊組織の頭目・
「
「誰かがやらなければならないんだ。ボスが謝ることはない。これまでは別の奴に任せてきたが、自分の番が来ただけだ。与えられた役割は果たそう」
「無事に出られたら、合流できるよう手を回す」
藤沢は隠し通路に設置された梯子を降りた。脱走部隊に選ばれた構成員たちが、次々と彼の後を追う。
最後に残った少女も梯子に手をかけた。平和な時代なら、慧と一緒に高校に通っていたであろうはずなのに。
少女は敵の手から逃れる前に、囮を命じられた慧の顔を見上げた。
「無茶しなくていいから。私が絶対、迎えにいくから」
「こんなところで死ぬものか。今夜にでも合流できるはずだ」
「うん。じゃあ……行くね」
少女は寂しさと不安を混ぜ合わせた表情のまま、直視したくない現実から目を背けるように地下へと降りた。
「……これで、終わりだな」
誰もいなくなった室内。慧の呟きが小さく反響する。
彼は隠し通路の入口を閉じると、最後の勤めを果たすために屋上へ向かった。
雨音に混じり聞こえる銃声は、一人か二人分だけになっていた。
◆
完成間近で建造を放棄された建物の屋上には、当然ながら何もない。
時刻は正午を回ったばかりだったが、悪天候のせいか空は妙に暗かった。
激しい雨のなか、髪と服が濡れることも厭わずに慧は歩み出る。屋上の縁に寄って、眼下の様子を探ろうとしていた。
「――そこまでです。武器を置いて、こちらを向いてください」
不意に勧告してきた聞き覚えのない声に、足を止める。悠然と振り返った。
下層に続く階段室の手前に、青色の軍服めいたジャケットを着た女性が立っていた。ストレートに伸ばしたセミロングの髪が雨に濡れ、ぺたりと顔に密着している。
彼女が何者なのかは考えるまでもない。健康的な肌色の手に握られた武器が、慧の推測が間違いではないことの証左だった。
自身の身の丈ほどもある漆黒の柄に、水を帯びて煌く白銀の刃。向けられる薙刀の尖端が、反応を示さない慧を刺激せんと前に出る。
「聞こえませんでしたか? 武器を置いてください。あなたは包囲されています」
「そのようだな」
「あなたで最後です。このアジトにいた方々は、私たちが全員制圧しました」
「頭目に逃げられておいて全員制圧とは驚いた。まさか、気づいてないのか?」
「藤沢智弘が、ここにいたのですか?」
慧は失望した。自分の仕事は常に完璧だと、根拠もなく信じてしまう類の生き物らしい。敵対する者に質問を投げてしまう点からも、甘い環境で生きてきたことが窺える。
さらに彼女は肉薄する。出し抜かれた悔しさは見せず、凛々しい表情を崩さぬまま。
「抜け道があったのですか。どこに逃げたか、教えていただけますね?」
「さぁな。捨て駒に行き先を告げるわけがないだろ? お前が来てくれたことで、無事に役割を果たせたわけだ」
両者が黙して、沈黙が場を支配する。あるのは降り注ぐ雨の音色だけ。しかしそれも勢いを落としていた。
武器を構えたまま硬直する彼女。その丸々とした瞳を、慧は見据えた。
「ボス――藤沢が指揮するフリーフロムを潰せるだけの能力が、お前たちにあるのか?」
唐突かつ意外だったであろう慧の問いかけに、彼女の反応は薄かった。寸秒だけ間を置き、小さな唇が動く。
「ありますよ」
短く、あまりにも素直に答える。慧が質問に含ませた意図を汲み取った様子はない。単に訊かれた内容に答えただけだ。
「あなたにも、あるんじゃないですか?」
「何がだ?」
「あなたのいる盗賊組織を終わらせるだけの能力が、です」
「初対面のくせに随分と期待してくれるんだな。そんな実力があれば、囮に選ばれるわけがない」
「戦いにおける強さの話をしているのではありません」
いったいどうして、そんなふうに断言できたのか。彼女と出会ったばかりの慧には根拠がわからない。
わからないが、彼女は理解していた。
たった数回程度の会話で、慧が彼女に対して刃を抜かず、話さなくてもいいことを喋った理由を察していた。
――こいつなら、利用できる。
慧は灰色に染まる天を仰いだ。冷たい秋の雨は衰えていたが、それゆえに屋上に打ちつける水音が悲しくこだまする。
それはまるで、彼の選択した未来の結末を暗示しているかのよう。
――それでもいい。覚悟は決めている。
ジッと見つめてくる女性に、慧は視線を重ねた。
「こちらの実力を確かめてみたいのか?」
「あなたの言動によります。それとも、投降しますか?」
「いや、どちらでもないな」
もはや、慧が屋上に残っていた理由は告白したも同然だ。しかし、わずかばかりの疑念が彼女に残っている。それを晴らさずには、始められない。
汚れきった過去と決別するために、慧はその一言を伝えた。
「俺を、お前たちの仲間にしてくれないか」
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