誇りの消えたそのあとも
暮石 引
2006年 大晦日
大晦日を家族以外の人と過ごすのは、初めてだった。
桜木尊は、高揚していた。
さいたま新都心駅に降りたのは、待ち合わせの時間の一時間前で、駅の周りを歩き回っていた。
新しく買ってもらったスライド式携帯電話に、専用のイヤフォンを指して、曲を聴いている。入会した時に、無料で一曲ダウンロード出来るというので、限られた曲の中でやっと選んだその一曲を、ただひたすらに繰り返して聞く。一也が少し遅れるというメールを送ってきたので、先にさいたまスーパーアリーナを下見にいくことにした。
しばらく歩いた先に見えた、あまりにも大きすぎるその建物。胸の高鳴りはさらに増し、一分一秒がとても長く感じた。この、とてつもなく大きな会場で、今から戦いが始まる。
総合格闘技の試合を見に行くのは、初めてだった。それも、毎年見ていた大晦日の大会に行けるなんて。長く生きていればいいこともある、と、まだ15年間しか生きていないのに、真剣に思った。
親に頼み込んで買ってもらったチケットは、何度も確認して、カバンの中に入っている。携帯の予備のバッテリーも、もしかしたらどこかで有名な選手に会えるかもという淡い期待から、色紙とペンもカバンに入れて、準備は万全だった。
冷たい風が吹いている。寒いのは嫌いだが、ほとんど気にならなかった。歩き回ったからか、身体は火照り、コートの中は少々汗ばんでいた。
「たかし」
肩を叩かれた。振り向くと、そこには村城基道がいた。
黒いコートに、黒いズボン。坊主頭が寒々しいが、彼も寒さなど微塵も感じないようだった。嬉しそうに笑う彼の姿を見ると、自分も同じような顔をしているのだろうと思った。
「早いね、今ついたの?」
「そう、一也が遅れるっていうから、先にアリーナ見ておこうと思って」
「俺も」
基道もアリーナを見て、感心している。その目は、教室では決して見れない表情だった。
「ついに、来たな」
「来た、来たよ」
基道はニヤニヤしながら、拳を構えて来る。それに答えるように構える。右手は顎のすぐそばに、左手は腹より少し前に置き、掌を広げる。一字構え。自分自身のバックボーン、少林寺拳法の基本的な構え。
「少林寺拳法でPRIDE出るつもりか?そんな奴いるのかよ?」
基道は構えた拳を開き、両手を開いて前に構える。柔道の構え、自信満々の彼の表情から、柔道をやっていることに強い誇りを感じる。
「どんな格闘技だって、強い奴が強いんだよ」
「いったな、それじゃ第0試合だ」
身体を沈めた基道は、そのままタックル気味で太ももをすくって、軽々しく持ち上げられてしまった。アリーナに向かう人々は怪訝そうな顔をして横を歩いていく。
「柔道でタックルは禁止だろう?」
持ち上げられたまま、ジタバタと身体を動かすが、引の力は強い。
「諸手刈りだよ、実践じゃそんなこと言ってられないぜ」
肩に担がれるような体制のまま、ぐるぐると回って見せる。風が冷たい。締め付ける腕の圧が痛い。けれど、お互いに笑っていた。やっと、この目で試合が見れる。男同士の戦いが見える。
一也が駅に着いたとメールが来ると、走って駅まで迎えに行った。おしゃれに無頓着な引に比べて、一也は小奇麗な格好で現れた。Pコートと呼ばれる腰丈の外套は、一見学校指定の冬用のコートに見えるが、彼の来ているのはとてもかっこよく見えた。
「寒いなぁ、早く会場に入ろう」
一也はついて早々、肩を縮めて言う。それから、今回の大会のカードについて、それぞれ好き勝手に口を開く。基道が一番見たい試合は、吉田秀彦と中村和裕の試合だという。基道は柔道がバックボーンの選手が好きだった。特に寝技の展開が好きで、柔道の稽古でも受け身よりも関節技を教わりたがっていた。
「青木の試合も楽しみじゃないの?」
「青木って奴の試合、見たことないんだよ」
「じゃあきっと気に入るよ」
それから話は一也の注目カードに移る。
一也はヒョードルが見たいらしい。部活や習い事はしておらず、全般的にスポーツを見る一也は、ミーハーだった。とにかくデカくて強い奴の殴り合いが見たいという。どんな相手でも、顔色変えずに試合を終わらす冷酷さを持ったロシア人に、彼は魅了されていた。
「尊は誰の試合が楽しみ?」
再び、さいたまスーパーアリーナが見える。一也は声を上げると、うるせぇと基道は一也の肩を殴る。ふざけてもみくちゃになっている二人を見て、嬉しくなった。基道が言った質問の答え、選べないというのが本音だった。どの試合だってかまわない。ただ、試合が見れればそれでいい。
「それで、誰なの?」
一也が基道にチョークスリーパーをされながら、再び聞いてくる。基道は本気で首を絞めていない。彼は、その痛みを誰よりも知っている。友人の我々とじゃれ合って叩いたりするが、柔道の技を出すことはない。けれど、ケンカは誰よりも強かった。そんな彼を、尊敬していたし、素直にかっこいいと思っていた。だからこそ、自分も少林寺拳法で強くなりたかった。クラスでいきっている奴らも、基道にケンカを売る奴はいない。むしろ、だれからも愛される、人気者だった。そんな彼が、いつもそばで、同じ好きなものを語れることが誇らしかった。
「美濃輪と田村、あとはジョシュとかかな」
「プロレスラー好きだよな。俺は全然好きじゃない」
基道の言うことに、一也も頷く。けれど、嫌な気持ちにはならない。彼らの好きな選手達だって、好きだったし、それを否定する必要もない。戦う人間は全てかっこいい。それが何のバックボーンを持っていたって。
アリーナに入るまでに、時間がかかった。列に並ぶ大勢の人の中に、我々はいた。少しずつ、少しずつ近づいてくるアリーナの入り口。鼓動が早くなる。そして、中にないってからアリーナの内部を目の当たりにした時、3人で大げさにはしゃいでしまった。
あまりにも大きい、大きすぎる。学校の校庭よりも、体育館よりも広い。
内部の中央にはリングが立てられている。その神々しさに、開いた口がふさがらなかった。四角いジャングル、闘技場、いや、聖域。初めて見るリングに、胸が躍った。
天井からつるされたいくつもの照明が、美しくリングを照らしている。会場内も多くの人がひしめき合っており、老若男女様々な人がそこにいた。チケットを手にし、座席を探す。なんと、我々の席は選手達が入場するゲートの真横だった。
「俺、死んでもいいかも」
「まだ試合も始まってないのにか」
基道も、一也も、ずっと笑っていた。初めての遠出、初めての家族以外の大晦日、そして、初めての試合観戦。死んでもいい、という言葉に嘘はなかったと思う。テレビや雑誌の中にあった、自分の世界とは遠く、アニメや漫画のようだった世界に、足を踏み入れた。
それは、15歳の我々にとっては、十分過ぎるほどの麻薬だった、覚せい剤だった。
それから、あれほど長く感じた時間は、恐ろしいほどの速さに変わった。オープニングが始まり、高田延彦がふんどし姿で現れる。あの、血沸き肉躍るテーマソングが大音量で流れると、大歓声が起こった。ものすごい熱気、ものすごい熱さ。学校では決して出会うことの出来ない、この高揚感。
PRIDEが、始まった。
戦いが始まる。男達の祭典が。
嘘じゃない、死んでもいい。
選手紹介の最中、ふと一也と基道の方を見る。一也は、選手の名前がコールされるたびに、手を叩いてサルのように喚きちらした。基道は、ただ茫然とその世界を俯瞰しているように思えた。ただ、何もいわず、じっと大音量のテーマソングと歓声、そしてコールされた選手の姿を見つめている。ただ、拳はぎゅっと握りしめたままだった。小刻みに震えるほどの力で、彼は拳を握る。彼も、きっと同じ気持ちじゃないかと思った。
第一試合が始まる、終わる、そして次の試合に、一試合がとても速く思える。
すぐそこを歩いて入場する男達。彼らはまるで人間ではない存在に思えた。入場後、男達は全力で殴り合う。人を殴る所、人が倒れる所、初めてだった。学校でのケンカなんて、目じゃないほどの迫力試合が始まると、叫んだ。手を叩いた。もう明日以降のことなど考えもせずに、ただひたすらに、今ここにいることを楽しんだ。
どれくらいの時間が経っただろう。入場する選手、全てが輝いて見えた。知らない選手であっても、その未知の脅威に胸をときめかせ、テレビで見た有名選手が出てくる時は少しでも声援が力になればと、大声を張り上げた。その声が、彼らの力になると真剣に思っていた。
あっと言う間に、メインの試合になった。その頃には、携帯電話の電池が切れそうだった。何枚の画像をこの小さな機器に収めただろう。熱を持って、手汗でべたついたそれを握りしめて最後の試合が始まる。
マーク・ハントは腕を取られて負けた。ヒョードルの勝ちが決まった時、一也は飛んで喜んだ。
それは、その空間にいる全ての人が同じだった。大歓声、大熱狂、その中に我々はいた。そして、男達の戦いは幕を終えた。しばらく、その場から動くことが出来なかった。リングの上に選手達が集まり、大会を締めくくる。その姿を呆然と見つめていた。
「良かったな、本当によかった」
一也は騒いでいる。会場を出るまでの間、一人で喚き散らしている。適当な合図をうっていると、一也は異変に気がついたのか「大丈夫か?」と聞いてくる。
「大丈夫、ただ、圧倒されて。本当によかったよ。来てよかった」
その時、人はあまりにも心を動かされると、何もしゃべられなくなるんだな、と思った。その後も一也は一人でべらべらとヒョードルの強さについて語っていたが、そんなこと語らなくてもわかっているよとは言わなかった。基道はどう思っているのだろう、そう考えた時、ふと隣を歩く基道の横顔をのぞき込んだ。
彼は、笑っていなかった。無理もない。自分が信じている格闘技、柔道を背に戦った選手は、ことごとく負けてしまった。試合の最中は彼も必死で応援していたが、その熱が冷めた時に、その悔しさがこみ上げてきたのだろう。
「俺、きめた」
会場を出たあたり、熱気で火照り切った身体に、真冬の大気は容赦なく吹き抜けていく。けれど、その寒さがむしろ心地いいくらいだった。
「俺、PRIDE出る。絶対」
基道のあまりにも唐突な発言に、一也は声を上げて笑った。引の顔は、真剣そのものだった。笑われたことにムッとしているようにも見えた。
「絶対に出る。俺、格闘家になる。」
「本気?」
「ああ、尊だってそう思っただろ?」
図星だった。自分の思っていたことを、信頼する友人も同じことを思ってくれていた。嬉しかった。その言葉に、今さっきまでリングの上で戦っていた人々以上に、勇気をもらった気がした。
十五年、あまりにも退屈な時間。勉強も出来なければ女の子にモテるわけでもない。ただ過ぎていくだけの時間の中で、格闘技に出会えた。そして、格闘技が友人を与えてくれた。そして、夢も。この一瞬の時間が、これからの生きる時間を照らしてくれる気がした。
「俺も、なる。格闘家に。俺もPRIDE出る」
基道は、やっと笑顔になった。きっと、基道も同じ思いだったに違いない。そして、今日あった時と同じように、両手を前に構えた。
「いったな。じゃあ約束。何年かかるかわからないけど、リングで絶対戦う。決定。」
真剣に話し合う二人に、一也は呆れていた。
「バカじゃないのか?無理に決まってるだろ?」
「無理じゃない。めちゃくちゃ努力して、めちゃくちゃ頑張って、強くなる。努力すればなんだって出来る。一也、お前はどうする?」
「どうするって?」
「俺と尊は約束したぞ?お前はこれからどうすんだ?」
まるで、修学旅行で好きな子を言い合うような時間。俺は言ったぞ、お前も言えと、引なりの照れ隠しだったのかもしれない。
「俺は戦うなんて無理だね。ヒョードルみたいな奴と戦うなんて出来ない。やれるなら、レフリーかな!誰よりも近くで試合が見れるだろ?」
「決まったな」
基道は、構えた拳を開き、手を差し伸べてきた。手を掴み、無理やりに構えさせようとする。お互いに拳を構えた。
「俺と尊の試合は、一也が裁け。約束。絶対にな」
一也はニヤニヤと笑い、呆れ顔で頷きながらOKサインを出す。大勢の人々が歩いている中、微笑みながらにらみ合う二人。そうだ、カメラ、写真を撮ろう。ポケットにいれていた携帯電話を取り出して、カメラ機能を起動させた。
「またカメラかよ」
「いいから、記念に。何十年後、煽りVTRで使えるだろう」
3人がうまく入るように、何度も写真を撮り直す。そして、やっとのことで3人が映し出された写真が撮れたところで、携帯電話の電源は切れてしまった。予備のバッテリーももうない。
「さぁ、帰ろう」
帰ることは考えていなかった。親には友達の家に行くと言っている、基道も、一也もそうだった。電車はとうにもうない。怖かったが、それ以上に総合格闘技が見たかった。
「なぁ、歩こうぜ。朝まで」
基道が言うと、安心した。いや、今はもう何も怖くなくなっていた。
歩きながら、様々な話をする。見て来た試合のことが大半だったが、これからの高校生活のことも、いつしか話題になった。
「尊と基道は同じ高校だもんな。いいな、俺は四月から一人だ」
「いつでも会えるよ。携帯だってあるし、いつでも連絡できる」
どこまでも歩いた。身体はくたくたで、一歩も歩けないと思っていても、歩くしかない。その時間は、試合を見る前に感じたように時間の流れが速く感じた。
十五歳。我々は途方もなく子どもだった。願いと夢が、胸の中に溢れ、その一つ一つが全て叶うと真剣に思っていた。。建物の陰に隠れて見えなかった初日の出の光とともに、動き出した電車に揺られ、家についた時には体力はほとんどなかった。そして、元旦早々大熱を出した。
呆れかえる親に看護されながら、基道と戦うには、基道に勝つにはと、そのことばかり考えていた。
冬休みはあっという間に終わり、学校が始まった。そこで、基道の父親が亡くなったことを知る。しばらくの間休んでいたが、一向に彼が来る様子はない。卒業式までも来なかった彼は、同じ高校に来るはずだったのに、新入生名簿の中には彼の名前は入っていなかった。
そして、世界最高峰の格闘技の舞台、PRIDEは、暴力団関係者との繋がりが報道され、中学を卒業する頃に事実上の消滅が決まった。
約束した場所は失われ、あの頃を生きた友人達とは離ればなれになった。
それから、10年以上の歳が経った。
格闘家になる。その夢をずっと心の奥底に眠らせて、いつしか27歳になっていた。
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