ハレの日とケの日
着物を着たい! 着よう!! と思って、一年がたちました。
自分でもこんなに着れるようになるとは思わなかったほど、現在では着物生活を楽しんでいるのですが。
こうした日々のなかで、着物という服装について、着物を取り巻く状況について、段々と思うところが増えてきてしまった今日この頃です。
なので、ちょっと真面目な話をば。
さて、皆さまは『ハレの日、ケの日』というのをご存じでしょうか。
ハレの日、は、知っている人も多いでしょう。かつて成人式で大変な事件を起こした会社も、このフレーズを使っていました。
晴れ舞台、なんて言葉もあるので、この『ハレ』という言葉には良い意味、人生における節目のおめでたい日、という感覚があります。
もともとは民族学者である柳田國男先生が、日本独自の概念、慣習として提唱された言葉です。日本という地域に古くからある観念ですが、それをはっきりと言語化したのは、近年なのですね。
『ハレの日』は、非日常。『ケの日』は、日常。だと、私は解釈しています。いわゆる、メリハリってものだな、と。
毎日のんべんだらりと生きていくのは、けっこうしんどいものです。
例えば、寝る前に夜着に着替える。これだけでも、気が切り替えられて寝やすくなるのだとか。
つまり、時間を区切るということ。節を作るということは、人生を生きやすくするための知恵とも考えられます。
この時間を区切るという知恵は、地球上のどの地域でも開発されてきた知恵なので、一定の効果はあるものかと。
実際、節目をお祝いするというのは、何も日本に限った話ではないですよね。
日々のなかに、時折そうした節目のお祝い事がある。上手くいっている時、上手くいっていない時、様々な時間のなかで節目はやってきて。
その時の自分がどうであれ、やっぱりその日は特別なんですね。お正月のように。なんとなく、特別。
ちょっとだけ、良いものを食べようか。ちょっとだけ、良い格好をしてみようか。もしくは、周りと楽しく過ごそうか。愛する子の成長を神様に祈ろうか。
『ハレの日』は、特別な日です。
では、『ケの日』は?
のんべんだらりと、ただ生きるために生きていくっていうのは、実はなかなかにしんどい。でも生きるってそういうことですよねって、私はそこそこに知っている歳です。
人間は群れが大きくなりすぎて、本能はあるんだけど、生物としての基本を忘れつつあるような種であると思います。
生物って生き抜くのに必死。安全はないし、生存競争に負ければ死にます。しんどいのがデフォルト。人間だって、実は例外じゃない。
幸せになれる、幸せになりたい、って夢を見がちですけど。基本はしんどい。そしてそれを生き抜いていかないとならない。この世に生まれ落ちたからには。
これが、『ケの日』なのではないでしょうか。つまるところ、生きるために積み重ねている日々が。
さて、何故、私がこんな生物とか本能とかまで引っ張りだして、『ハレの日』と『ケの日』について語っているかといいますと。
この二つはセットにされるべきで、二つは相互関係にあり、コインの裏と表のように切り離せない大事なものなんじゃないかと、そういう気持ちが強くあるからです。
何が言いたいかというと。
「着物界隈って『ハレの日』しか見てなくね?」
なのですよ。
これねぇ、着物界隈の戦略っていわれてるけどねぇ、バブル期の思考なんじゃーないかと。
毎日がお祭り騒ぎ。ちょうど私の親世代が経験した時代で。なんというかトチ狂ったよーな、カルトっぽいおかしな時代だったといいますか。
高度成長っていう、フワフワとした幻想のなかにいるような時代だったんだと思います。今から考えると恐ろしい散財が平気でできちゃうような、後先考えなく派手に遊べてた時代。
その話を始めると話題それていっちゃうんで、これ以上は続けませんが、私が主張したいことは、ただひとつ。
ケの日(日常)を丁寧に過ごさずして、どうしてハレの日(祝いの日)を丁寧に迎えることができましょうか?
これにつきるのです。
今の着物界隈は、あまりにも『ケの日』を見なさ過ぎなんじゃないでしょうか。
そもそも呉服屋さんの人達でさえ、着物を着てない。スーツの販売員さんばかり。聞けば、普段は着物を着ないって…………。
うーん? 確かに『ハレの日』に着る、綺麗な着物は必要だけど。
それなら『ケの日』に着る、普段の着物だって大切にしないと本末転倒なんじゃないの?
という気持ちが強まるばかりです。
しかし普段の着物って、呉服屋さんで買うものじゃなかったんですよね。
木綿やウールの着物は『ふともの』といって、絹の反物とは別に考えられていた。本当に着る物、つまりは服ですね。
日本人がどんどんと洋服を着るようになり、日常での和服は忘れられていってしまったのでしょう。
でありながら、『ハレの日』の着物は忘れられなかった。
これはやっぱり、特別な日だから、大切な行事だから、という日本ならではの観念がそうさせたように思われます。
おかげで着物という服装文化全てが失われずにすみました。それは喜ばしいことです。
ですが、今この時代になって。『ハレの日』の着物ですら危うくなってきた。
お正月に着物を着る人が何人いるでしょう? 人生で着物を着る機会は、片手で足りるという人も少なくない。
もはや『ハレの日』に着物を着る文化すら、薄れつつあるのです。
それでも、和装に憧れる人は多いように感じます。浴衣だって若者に人気ですよね。
今こそ『ケの日』の着物を復興させる機会なのではないでしょうか。
現に遠州木綿やキッペなど、普段使いできる安価な反物が出回りはじめています。
かつてイタリアでルネサンスが起きたように。日本も今一度、かつての着物文化を見返す時がきているのではないでしょうか。
人々の日常に寄り添った服装だったころの、着物文化に。
洋服も和服も、身に纏う布。服です。人々の生活のなかにある物です。
地に足をつけた生活、それに根差した装い。本来の着るものであった、着物を今一度考えてみませんか、着物界隈の皆さま。
ここで「カジュアルな着物なら紬や小紋がありますよ」と言ってしまう販売員さん。その考えがずれている、『ケの日』を考えていないなって私は思ってしまうんですよ。
あのですね、絹の紬や小紋って毎日着れます? お洗濯はどうするの? その着物で唐揚げ作ったりできます?
普段の着物って、それができる着物のことですよ。
時折、着物はもう忘れられていくべき、淘汰されていくべき文化で、博物館に歴史の遺物として展示され、保管されていくべきものかしらと、悲観的に思うこともあります。
ですが、きっと和装が好きな人はまだまだ多いはず。
伝統とか、文化とか、そういう着物でなくて。生活に根差した『ケの日』の着物を楽しんでいきたい。
その日々があるからこそ、『ハレの日』のお着物が美しくなる。
着物が着たい! と思い立ち、一年たった今だからこそ、そうした考えに至りました。
とはいっても、毎日着るわけではないのですが。
でも週末、気が向いたとき、無理のない範囲で。気軽に着物を着る習慣は続けていきたいなーと、よくよく思うこの頃でした!
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