第三章 魔女と猫(1)
蝋人形たちが、壁際に所せましと並び、作業員たちを監視していた。
金刺繍の重たいカーテンが窓から垂れさがる、古い館。
ここが、今のイザベラの職場だった。
ランプフィルド王国の主な生産物、蛍石の加工場である。蛍石を高熱で溶かして蝋状にし、さらに蝋を固めて製品を作っている。
照明の蝋燭から、観賞用、装飾のためのおしゃれなキャンドル、さらに趣味の蝋人形まで。お客さんからの注文があれば、なんでも応じる。
ミルフィ通りの表には、直売する店舗を構えている。裏側が、この作業場だ。
地味な菜っ葉服を着たイザベラは、赤く色づけた蝋の塊の表面に、紋章の印を彫ろうとしていた。
王国みやげの記念キャンドルを担当しているのだ。
新人がまず担当する見習いの仕事なのだが、これが難しい。彫刻刀を握る指が、引きつりそうだ。
まさか、自分の国の見慣れた紋章を、自分で蝋燭に彫ることになるとは。予想だにしなかった。
作業員は、全部で二十人ほど。長机で向かい合っているが、私語は厳禁。誰もが黙々と手を動かしている。
刻印どころか、薔薇の形に立体化したキャンドルを作るベテラン職人もいた。
その精密な手仕事に、イザベラは目を見張る。
と――よそ見をしたその時。
刃の切っ先が左手に、さくっと突き刺さっていた。
白い手袋に血の色がにじむ。
「ぎゃああああああっ!」
イザベラの悲鳴が、作業場の沈黙を破った。
指を切ってしまったイザベラは、呼び出しを食らい、控室で店の主人と二人きりになった。
自らが蝋人形マニアである主人は、バンダナを取り、もじゃもじゃの頭をかきまわした。
「君は、サクラさん、だったか」
「……はい」
包帯を巻いた手で、弱々しくうなずく。サクラとは、ここで通している偽名だ。
「どうも集中力が足りてないよ。手が治るまで、しばらく休んでいいから」
「はい」
イザベラはうなだれた。
「ご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした」
頭を下げる。
生まれて初めて口にする、言葉の数々。
職場では、イザベラは姫でもお嬢様でもない。ただの「使えない新人」となる。
労働とは自分が本当になにもできない人間だと、毎日、証明されるようなものだった。
今までの人生で、料理や裁縫を習ったこともなく、掃除も家事も庭仕事も、すべて城で雇われたプロがこなしていた。
イザベラは、実生活に必要なことはなにも知らず、ただひたすら、卓上における勉強をしていただけだ。しかも、その勉強もさぼりがちで、ろくに身についていない。
たった三日、試用として作業場に入り、一日七時間もひたすら蝋燭に模様を彫った。結果、イザベラの、箸より重いものを持ったことがないようなすべすべの指は、すっかり荒れて、ささくれ立ち、アカギレだらけになってしまった。
働くって、こんなに大変だったとは……。
城で、せっせと働いてくれていた人々に、今は素直にありがとうと伝えたい。
今となっては、そんなことも叶わないのだけど。
イザベラは、ひとり公園に来た。経費を節約するために、家から持参してきた固いパンを水に浸して食べた。味気のない食事だ。我知らず溜息をついた。
しばらくバイトは休み。ルララの捜索も、これといった成果はない。
しょげそうな日々だった。
「むっきいいいいーっ! おもしろくないわっ! なんでこの高貴なあたしが、苦労して働かなきゃなんないのよ!」
イザベラがハンカチを噛んで悔しがっていると、子供連れの若夫人が、ぽかんとした口でこちらを見ていた。いつのまにか来ていたらしい。
「あら嫌だわ、ついつい似合わない言葉を使ってしまった……ホホ、ホホホホ……」
下宿先に帰って、夕飯の席でヒースに一日のことを話した。
すると、ヒースはしばらく顎の下で指を組んで、考え込んでいた。
「……ええと、ベラ君。なにも無理に働くことはありませんよ。貴女は生まれも育ちも、やんごとなき身分のお方。きっと細胞レベルで、労働には適していないのです。彫刻刀を持つお仕事など、危険ですよ。今回は軽傷で済んだものの……」
イザベラはヒースを睨み付けた。
「仕方ないでしょ。だって、お金ないんだもの! あたしはともかくとして、あなたまでっ!」
「……はい。面目ありません」
包帯を巻いた手で指さして指摘すると、ヒースは所在なく顔を俯かせた。
驚くべきことに、ヒースクリフは元・城勤務のエリートにも関わらず、ほとんど財産というものを持っていなかった。生活費は、すべてランプフィルド王国に与えられていた寮室で保管していたそうだ。大慌てで城を飛び出してきた彼は、お金を置き去りにしてきた。
地元に戻ってからのヒースは、友人のツテで短期や日雇いの仕事をしていた。いざという時に動けるように、定職には就いていない。
「そうです、名案を思いつきました」
ヒースは、ぽんと手を打ち、得意げに顔を上げた。
「ベラ君に相応しいお仕事がありますよ。あなたは一般的なスキルは乏しいですが、特筆すべきは華やかな美貌と豪快な言動です。そう、飲み屋です。お客さんに酌をしたり、愛想よく頷いたり、一緒に歌ったり踊ったりするだけの簡単なお仕事。普通のバイトの何倍も儲かります。しかも短時間で効率的に稼げるから、余暇時間にルララ捜しもできて、一石二鳥――」
思わずイザベラは、スプーンを滑らせていた。
かちゃん、と金属がサラダボウルにぶつかる。
「センセイ……あなたは率先して、あたしに、水商売を勧めるって言うわけ?」
「今後一般人として労働に従事されるなら、本気で職業訓練をなさったほうが良いでしょう。ですが、あなたの御意志は違う。一時的に資金を溜めたいだけですよね。ベラ君はお綺麗でいらっしゃいます。夜の仕事なら、引っ張りだこですよ」
まるで職業あっせん所の職員のように、冷静に分析するヒース。
イザベラはむかむかして、卓に両手をついて腰を上げていた。美人だと言われて、こんなに腹が立ったことはない。向かいの教師をにらみつける。
「あの、すみません。なにか、お気に障りましたか……?」
「あ、あたしが、酔った男たちの相手をすること、あなたは何も思うところはないわけっ?」
「はぁ」
ヒースはマイペースに、菜の花のサラダを皿に盛り分けている。
「もういいわよ!」
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