第32話 壊れた機械
ラティアは、チェニスに背を向けた。自分個人が狙われるより、ラティアはかつての自分そのものなスフェーンKをなんとしても止めねばと、それを焦っていた。チェニスはそのうちケリを付ければ良い。そう判断してしまったのは、日頃からチェニスの下手な姿勢にバイアスがかかってしまったせいか。
「わかりました! 取り引きをしましょう」
初めて聞くチェニスの強い声だった。ラティアの足が止まった。
「ゲリラたちのテロ活動を阻止するなら、あなたを狙った者をお教えしましょう。実は、私はあなたを狙った者を突き止めています。でも心配しないでください。あの者は恐らくもう、新渋谷内であなたを狙撃することはありません」
「勝手な取り引きだな。私は取り引きなど関係なしにゲリラたちのテロは阻止するつもりだ」
「あなたは私を疑いました。今度は私があなたを疑う番です。今うっかりあなたを狙う者を明かしては、ゲリラはそっちのけで、そちらに気移りしてしまうのではないでしょうか?」
「そんなことはない」
「証明できますか? 口先だけでは信用は置けませんよ?」
「子供じみた言い返しを……」
向き直るラティアにチェニスは満足したのか、笑みを漏らしている。
「そうです、私たちは子供じゃない。分別有る大人です。お互いキンキン叩き合っては、まとまる話もまとまりません。肩の力を抜いて、お互い柔らかにいきたいもので」
ラティアはチェニスの誘導にうまうまと乗せられているとわかっている。わかっていて、その思わせぶりな態度が気になった。チェニスが正論を述べればうなずかざるを得ない。
ラティアはチェニスとロケット砲を撃ってきた者は共犯だと確信している。けれども、それにしてはチェニス当人の表情、目つきからはまるで殺意や敵意を感じられないのだ。その上わざわざ共犯者の名前を明かそうと言う。仲間への裏切りと取られかねない取り引きを、瞬時に提案してきた。顔色一つ変えず。本当に共犯者なのか? ちらと確信が揺らぐ。あるいは諜報部員なら、その手の訓練は積んでいるということか? チェニスは一本立てた指をゆっくり振りながら、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「嫌でしたら取り引きと言ったことは気になさらないでください。おいおいゆっくり話しましょう。それより焦眉の急はゲリラたちの無差別テロを阻止することです。そのための情報を私は用意してきているのです。よろしいですか?」
「わかった。先の恵比須港の話を聞こう」
「それでは話を元に戻しましょう。改めて申しますが先ほど私が告げた三つの化学物質は、硫化ベデロクスの原材料となる物質です」
反発や怒りは削がれ、ラティアは誘導されるかのように無言でうなずいていた。
「今現在も新渋谷で硫化ベデロクスが使われましたが、今回恵比寿港で奪われた化学物質は各数百キロに及ぶようです。私は暗算は得意ではないのですが、ざっと見積もっても新渋谷規模の都市十個分はパンゲアノイドを全滅させることができる。それくらいの硫化ベデロクスを生成可能なはずです」
スフェーンKは新渋谷周辺で陽動作戦を展開していた。延々小規模な爆破を繰り返し、恵比寿港から治安部隊をつり出した。
「恵比寿港の警備を慌てて解いて、新渋谷へ向かう。今度は手薄になったところで化学物質が収奪される。完全に後手に回っているわね」
チェニスはその本心は全くつかませない。だがゲリラ退治はあくまで本気に見える。ラティアは話に乗らざるを得ない。チェニスは言葉巧みに、やがてラティアを核心へと導いた。
「そしてもう一つ重要な情報です。ロナウ・ヘイズが失踪しました」
ラティアはその名に不意を突かれた。
「新渋谷市街には、占領統治府の敷設した対人監視システム網が設置されています。そのシステムを私もハッキングしていたのですが。ところがあなたがカフェバーを離れて程なく、ロナウが店を飛び出しました。道玄小路を北へ抜けたところで、この監視システム網から消えてしまいました。占領統治府の監視網から姿をくらましたのです。それは一体、何のために?」
ラティアはがく然とした。
スフェーンKの口からも、既にロナウが彼と手を結んでいると聞かされた。ロナウがゲリラと行動を共にしているのは決定的になった。
「まず、なすべきことはロナウとスフェーンKの共闘を阻止することです。そして彼らを止められるのは、あなたしかいない」
チェニスの告げることは正しい。治安部隊は化学物質の存在を知らなかったために、ゲリラたちの策に乗せられてしまった。当然この先もゲリラたちは治安部隊の動きに備えているだろう。治安部隊だけでは態勢のばん回は難しい。ゲリラたちへ想定外の一手を打ち込まないと。
チェニスは手元から携帯情報端末を取り出し、ラティアへ電子メールを送った。
「データを送りました。新渋谷周辺でのゲリラ拠点について、座標とその概要を記録しています。彼らはこのどこかに化学物質を持ち込んでいるはずです」
ラティアは着信したメールを脳裏のヘキサセルディスプレイ上で展開する。
ラティアは驚いてチェニスを見返した。
「よくこれだけ調べあげたものだ」
そこには新渋谷周辺の複数箇所の座標と、その座標の人員と構成主要メンバー、それに設備の概要までが記載されている。
「さあ、参りましょう。ロナウ・ヘイズを捕らえに。そして化学物質を奪い返すんです」
ラティアはうなずき、チェニスが先導する路地へと入っていった。
急に辺りが静かになった気がした。
その両脇は高いビルに囲われ、陽が陰っている。さながら岩の割れ目にのぞく地の底への裂け目のようだった。一見華やかな都会にもこうしたダンジョンを思わせるエリアがある。この新渋谷などはすり鉢状の地形に尾根筋が幾重にある。まして最近はパンゲアノイド様式の建物が入り込んで人間のものと違う町並みがはびこっている。そして裏手には戦争で壊れた建物がまだたくさんあった。地の底というよりも、ダンジョンというよりも、何か異世界のような。
違う。
何か違和感がある。
その違和感は何か?
そう、どこかチェニスから感じ取る印象と重なり合う。この元スパイは、仮面をかぶっている。決してラティアへ本性を現さない。その一見もの静かな姿の裏にラティアへなんらかの感情を隠した薄気味悪さが微かに漂い出てくる。
チェニスはどんどん先へ歩いていく。
「こちらです。さぁ」
先へ進むチェニスが立ち止まり、手招きをしている。
「この先は入り組んでいますからね。私を見失わないように付いてきてくださいよ」
引き込まれていくようだった。その先が薄暗いあかね色のトンネルになっていることに、ラティアは気付いていなかった。ラティアはチェニスの後を追ってそこへ足を踏み入れた。
ただ、そのときだった。
両側から押し迫るようにビルが居並ぶ中、建物同士の僅かな隙間からかすかに一筋の陽の光が漏れていた。陽射しがラティアの右目を過ぎり、そのまぶしさにまばたいた。
一瞬、陽の光がまつげの中で虹色ににじむと脳裏にノイズが走った。
そこにボギーの姿が浮かんだように思えた。
朝、道玄坂をボギーと一緒に歩いていたのを思い出す。ボギーは今と同じように陽の光でノイズが走ったラティアを支え、不安げにラティアを見つめていた。
ラティアは立ち止まった。
「いかがしました? さ、急ぎましょう」
「駄目だ。ボギーがいる。私が彼を守らないと、あいつはまずいんだ」
「ボギー? 彼が心配というなら私が手配しましょう。ですが、あの凶悪なゲリラと戦うことは私にはできない。幾千の人やパンゲアノイドの命があなたにかかっているのですよ?」
チェニスはあくまでスフェーンKを止められるのはラティアしかいないと言う。ゲリラのテロ攻撃とボギーの安全確保が脳裏に渦巻く。戦うということと守ることと。二律は背反することなのか?
違う、と思った。ノイズがきっかけだった。視界に異常を来したことでノイズキャンセラーが作動した。思考デブリのリセットも同時に働いていた。ラティアの人工シナプスがチェニスに流されていた思考を正した。
「チェニス、お前の言うことは確かに正論だ」
我に返ったラティアの、凜とした声が小道に響く。
「だが、私はお前に言われるがままにはならない。お前は私を言葉巧みに操ろうとしている。本心を覆い隠そうとするお前には『信』がない。ボギーをお前には任せられない!」
紺青色のマントが大きく翻る。ラティアはチェニスを置いて小路を駆け抜けた。S字の階段、スペイン坂へ飛びだし駆け下っていった。
「フム。壊れた機械が人間のまね事など。高校生一人の命がそんなに大切なのでしょうか? 幾千の命と、どちらがより重いか。それを比較検証すらできない……いや、壊れているから合理的な判断ができなくなっているのか。あるいは、それは人倫に反すると? 命は数えるものではないと? それは確かに人間らしい考え方。私も否定はしません。むしろ尊重さえします。ですが、あなたは違う。あのベルトーチカの大殲滅戦をたった一人で戦った、その勇気は私も奮えるほどに好きなものでした。本心から敬意すらおぼえた。けれど同時にそこで覗き見てしまった。あなたの本質は闘争だと。さらには、あってはならない恐怖だったと後に分かった。私は今もって、それを看過できません」
その狭い路地裏の数度折れ曲がった果ては、どことも知れぬ、誰も知らぬあかね色に囲まれた小さな空間へ通じていた。
「二度の狙撃に加えてスフェーンKまで関わってくれたおかげで、データの積み増しができました。私の推論は確証へと変わっています。これ以上壊れたままのあなたを放置することは危険だ。ゲリラ拠点の情報をまんまと持ち逃げしたとお思いでしょうが、そんなことはありませんよ。チェック・メイトです。私はあなたをラムナック大要塞で待つとしましょう」
ラティアが井の頭通りへ去っていく。チェニスも消えた。あかね色に囲まれた空間の奥ではパンゲアノイドがゆっくり立ち上がっていた。
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