第三章 新渋谷テロ事件
第27話 謀略胎動
後ろ手に店のドアを閉めると、ラティアの表情は険しいものに改まった。
外にはチェニス・ワグルムが待っていた。
「ああ、ラティアさんですね? 友人との楽しいモーニングカフェはいかがでしたか?」
チェニスは心の抜け落ちた微笑を浮かべている。文字通り形ばかりな笑い。だからこそ引っかかる笑い。本心を隠すスパイそのものなふるまい。不快だった。
「皮肉か?」
夕べ百式ロケットで狙撃をしてきておきながら、よくもいけしゃあしゃあと人を呼び出してきたものだ。けれどその上で微笑を浮かべている。本当に狙撃してきたのだろうかと、疑心が浮かびさえする。狙撃した確たる証拠はない。ただし確信はしている。こいつだと。間違いないと。では、こいつの本心は一体どこにある? 狙撃しながら、まだ本心を隠して友好を示して接してくる。隠している本心はいったい何か?
「大至急、お話ししたいことがありまして」
チェニスはラティアに構わず、さっさと話を進めていく。
「手短に申し上げます。スフェーンK一派に動きがあります。昨夜あなたが通った後に代々木原野の防御線へ侵入し、現在治安部隊と交戦中です」
「既に出動済みならいいじゃないか。治安部隊の出動で何が足りないんだ?」
「スフェーンK率いるゲリラたちは実に猛々しい。あなたは新渋谷へ姿を隠して侵入した。彼らは同じコースを取りながら、まるで正反対な行動をしています」
「思わせぶりな切り出しだな。何が言いたいんだ?」
ラティアのいらだちに、チェニスは抑揚のない口調で続ける。
「これは占領統治府内でも知る者が限られる極秘情報ですが、新渋谷南東の海岸、恵比寿港には旧フェムルト軍の保管していた化学物質、ブレル酸、アスペジウム、レニョール錯体が大量に集積されています。一方スフェーンKのゲリラ部隊は全く正反対の北西の位置にいます。かつ、何もない原野で暴れている。これは単なる幸運でしょうか?」
ラティアははっとした。
実のところラティアは、昨夜ロナウがマンションに帰ってからカフェバーの中を調べた。当然こんなセキュリティのかけらもない賃貸のテナントに、テロに使う武器弾薬を隠すはずはない。ただし、それらをロナウがどこかで扱えば衣服や肌に微量の火薬が付着し、それが店内にも持ち込まれる。
ラティアの、人間の目を模した部分は視覚センサモジュールとなっている。赤外線波長センサに、スペクトル分光分析も搭載している。物質の分子を特定し、それを検出できる装置だ。結果、火薬は見つからなかった。だがレニョール錯体を検出していた。カフェバーなどにあるはずのない化学物質だった。
レニョール錯体だけでは首をひねるだけだったが。チェニスの情報で重大な意味を持つことになった。ブレル酸とアスペジウムは不安定な分子で、自然界では短期間で分解してしまう。ロナウがレニョール錯体だけでなく外二種の化学物質も扱っていたら。ロナウとゲリラ、恵比寿港保管の化学物質が、不吉な連想を思い起こす。
「賢明なあなたは既にお気づきかと思います。先の三種化学物質は硫化ベデロクスガスを製造するための原材料になります」
硫化ベデロクスは人間には全くと言っていいほど無害なガスだ。しかしパンゲアノイドにはごく微量でも致命的な猛毒となる。フェムルト共和国が大戦末期に開発した化学兵器だった。
チェニスはさらに事態の深刻さを訴える。
「そしてこれはフェムルト軍部内部でさえ限られた、一部しか知らないことですが、大戦末期に一度だけ硫化ベデロクスが実戦で使用されています」
「待て、硫化ベデロクスガスは実戦には使われずじまいだったはずだ」
「あんなおぞましい兵器を人間が使ったと、そう信じたくないのは私も同じです。ですが、ロナウ大佐が断行した。それがコーネリア事件だったのです。私が急ぐべきとする理由、おわかりいただけたでしょうか」
コーネリア事件。
実は大戦末期、帝国軍のグエン大将がフェムルト東岸に上陸をかけようとしたとき、南へ100km下った先、別働隊千人が上陸していた。ところがコーネリア峡谷に達したという通信を最後に千人は唐突に消えて、今も消息不明というものだ。
「ロナウさんがコーネリア峡谷で化学兵器を使った……?」
「弱いフェムルト軍にあって唯一でした。あの方がときに際どいまでの作戦指揮で勝利を重ねたのは。同じ戦闘母艦ブルーベースで戦ったあなた自身も、よくご存じのはず。コーネリア峡谷の地には今も硫化ベデロクスガスで死んだパンゲアノイド兵千人が埋まっています」
「まさかそんな……」
「証拠が必要でしたら、私と一緒に掘り返しに参りましょうか? けれども今この瞬間にも、新渋谷周辺へ刻々と民族主義ゲリラが迫っている。硫化ベデロクスガスを実戦使用した指揮官が新渋谷にいる。彼らが手を組み、今まさに行動を起こそうとしている」
ラティアはふっと吐息をした。
「チェニス、お前の話には恐れ入るよ。私も乗せられかけた」
「はて? 乗せられたとは?」
「お前は随分と元諜報部しか知り得ない情報を開示してくれた。でも私が知る真実は二つだけだ。レニョール錯体がカフェバーで見つかったこと。コーネリア事件の真相は私を含め、今も世間では謎だと言うこと。信じるに足る情報はこの二つだけだ」
「その不足分に付いては今、私がご説明した……」
「お前の言うことは信用できない。私はお前の思うとおりには動かないよ。夕べもお前に乗せられて代々木原野を通れば……」
そのとき後ろでロナウのカフェバーの入り口が開く音がした。振り返るとボギーがドアを閉めている。向き直ると既にチェニスは姿を消していた。薄気味悪さだけを後に残して。
「どうしたラティア? 何かあった?」
「うん。話したいことがある」
ラティアはカフェバーの方をちらと見た。窓ガラス越しには中にいるロナウの様子はうかがい知れないが。
「少し歩こう。遅刻しちゃいけないし」
ボギーを促してラティアは新渋谷の中心、新渋谷駅へと向かった。
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