光陰矢のごとし。目的をもって過ごす日々というのは、瞬く間に過ぎ去っていく。


 弥生、満月の晩のその日が、とうとう訪れた。

 天気は快晴。春らしい温かな気温で、程よい風も吹いている。桜も満開こそ僅かに過ぎたが、それでもまだ綺麗に咲き誇っていた。

 

 左近と隼人は子供達を館の部屋に集め、最後の講義にのぞんだ。左近が子供達の前に立ち、隼人は窓枠に寄りかかって子供達の方を向いている。



「今日は忍びが一番大事にしなければいけないものについて、改めて勉強するよ」



 机に並ぶ子供達は、何度目かになるこの内容にも、ちゃんと耳を傾けようとしている。


 今までは自分達が一番下だったから知らないことがあっても許されていたが、もうそうはいかない。後輩達の手前、知らない、できないとは言えないからと、最近とみに講義にも鍛錬にも熱が入っていた。


 

「三郎。忍びが一番大事にしなければいけないのは?」

「どうほうです」

「……そうだね。確かにそう。僕が聞き方を間違えた」



 三郎が真面目な顔で、完全な間違いとは言えないことを口にした。その答えには左近も同感である。確かに、同胞は大切にしなければならない。

 ただ、左近が問いの答えとして求めていたものとは違う。


 左近は軽く咳払いをし、もう一度三郎の方を見た。



「じゃあ、忍びが一番大事にしなければいけない心構えのことを何という?」

「せいしんです」

「そう。正心」



 再び問い直すと、今度こそ求めていた答えをきちんと得ることができた。しかし、言葉だけ知っていても意味がない。


 左近は三郎から視線を前の方にやり、こちらを仰ぎ見る利助に目を止めた。



「利助。正心とはなに?」

「しゅうとくしたしのびのわざをしりしよくのためにはけっしてつかわず、しゅくんのためにつくす。じんぎちゅうしんのこころのことです」

「そう」



 二人連続で当てられたのだから、今度は自分の番かもしれないと、残りの三人がにわかにそわそわとしだす。正心について、自分達が知っていることはもう問われた後。次はどんな問いが左近の口から飛び出すのかと、心中穏やかではいられない。


 左近は、今度は視線を斜め後ろ――藤兵衛へ向けた。



「じゃあ、藤兵衛。忍びの三禁は?」

「えっと、おさけ、いろ、よく……ですか?」

「合ってるよ。自信をもって大丈夫」

「はい」



 心配そうにする藤兵衛に左近が微笑んで見せると、藤兵衛も安心して小さく笑い、こくこくと頷いた。


 そして、そのまま藤兵衛の前に座る宗右衛門へ、左近は視線をやった。



「宗右衛門。忍びの三病は?」

「おそれること、てきをあなどること、かんがえすぎること、です」

「正解」



 最後になった小太朗は、人知れずごくりと唾を飲み込んだ。恐れることや考え過ぎることが三病ならば、もうそれにまんまとはまってしまっているかもしれない。よく分からないが、なんだか背筋をすっと伸ばしたくなり、気づけばその通りにしていた。


 それを見計らったかのように、左近が小太朗の名を呼んだ。



「外に出る時の注意は?」

「……いっぽでもさとをでたら、どんなあいてにもけいかいをおこたるな」

「そう。忘れないでね」

「……はい」



 小太郎はなんとも苦い経験を思い出した。簡単にだまされてしまった上に、拉致らちされて、左近達に迷惑をかけてしまった。無事に助け出されたからいいものの、あんな経験は二度とご免である。


 そして、小太朗にこそ伝えられていないが、あのアドリアーノという男、表では主に生糸を輸出する南蛮商人だが、裏では人身売買もやっていたらしい。本当に警戒を怠ってはならない相手だったのだ。伊織が即刻理由をつけ、翁、主上に上申し、国外退去となった。


 小太朗の優しく素直な性格は美徳ではあるが、忍びになる以上、それは何重にも覆い隠した上で持ち合わせなければならない。


 左近は背後の壁に寄りかかり、子供達ではなく、後ろの紙の方を見つめた。



「僕達がやっていることは、主君である皇家のため。でも、実際にやっていることは盗賊や夜盗と紙一重。だから、この正心を持たずして、自分を忍びだと言うことは許されない。時には辛い任務もある。その時は、この正心と……ここにいた六年を思い出せば大丈夫」

「……せんせい?」



 視線を自分達に戻して微笑む左近に、違和感を感じた藤兵衛が首を傾げた。こういう勘が働くのは悪い事ではない。ただ、悟らせるわけにもいかない。


 左近は寄りかかっていた壁から反動をつけて離れた。



「はい。講義はここまで。この後は隼人が外で走り込みの鍛錬をするって」



 その場に立ち上がる子供達の背を、次々に部屋の外へと送り出す。隼人も子供達の後ろに続いていると、子供達は振り返って見上げてきた。



「せんせい! しらぬいたちもいっしょですか!?」

「あー、いいぞ。出してきてやろうな」

「やった!」

「せんせー! さきにいってまぁーす!」



 子供達は自分が一番とばかりに小屋の方へと駆けていった。廊下を走るのは危ないぞと何度言っても聞きはしない彼らに、隼人は苦笑いをこぼした。


 一方、左近は後ろの壁際に移動して、壁に貼られた紙を眺めていた。



「左近」

「うん。行くよ」



 戸に手をかけて顔を覗かせる隼人がどれだけ声をかけても、返事をするだけで一向に動こうとしない。その姿には、釘付けという言葉がお似合いである。


 だが、その実、先程まで隼人も左近に当てられて答える子供達の声を聞きながら、その紙をぼんやりと眺めていた。正確には、紙に書かれた文字を眺めていた。

 

 こういう日が来ることを予見していたかのように作られていたその紙は、左近や隼人にとって、子供達との思い出をなぞる上で大事なものとなっていたのだ。


 左近は片手を伸ばし、子供達に触れる時のように慈しみを込め、紙に触れた。


 

「……先、行ってるな」

「うん」



 目を僅かに伏せた隼人は、先に行った子供達の後を追うべく、きびすを返した。

 一方、左近はそれからしばし経ったのち、部屋の中を一回り見渡し、何かを振り切るように颯爽さっそうと部屋を出た。


 そして、どちらも二度と振り返ることはなかった。


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