第32話 せんせー、ここに彦星にすら嫉妬している子がいまーす(2枚目16日目・7月7日)

いよいよ、一枚二十円を僅かに切るマスクを発見した。

職場の同僚とマスクの話になった際、その程度のマスクもあることを伺い、近所のディスカウントストアで発見するに至った。

しかし、まだ手が伸びるには至らないのが現実である。

そろそろ原料高を差し引けば順当な値段となっているのかもしれないが、ひとまずは今日もこのマスクを洗おうと思う。


七夕の話をするときに、常々感じるのは今の暦と旧暦とのずれである。

国語の授業で七夕が秋の季語であることを知って驚いてからどれほど過ぎただろうか。

そこに仙台七夕まつりの知識がさらに増え、今に至るのであるが、七月に七夕の風情を感じることがそれに伴って薄くなってしまった。

確かに、誘われれば笹に願い事を書くことなどはするのであるが、空を眺めて星の行き来を見るときに意識をすることはない。

そも、星月夜も秋の季語であり、やはり梅雨を越えた先に本来の七夕はあるべきであろう。

「こんなに雨が降ってると、織姫と彦星は会えないからかわいそうだよね」

「一年に一回しか会えないのにね」

などというやり取りを今年も耳にしたが、

「どうせ会うのは八月だから会えそうだけどな」

と、思わず間に入りそうになった野暮天である。


さて、この季節感というものが俳句を学んでいくうちに変わっていくのを感じる。

敏感に季節を感じ取り、その変化の一瞬を感じ取る感性というのが重要であるのかもしれない。

どんくさいことに自信のある私にはなかなか難しいことは分かっているのであるが、それでも駄作を捻り出すことに余念がない。

そして、近頃は「絶滅寸前季語辞典」なる夏井いつき氏の著書でさらにその幅を広げようとしている。

今では失われた光景や普段目にすることのない言葉も多く、言葉の広がりが世界の広がりに貢献していたことが実感できる。

掲載されている季語から拙作をいくつか。


  二日酔い並ぶ空き缶あっぱっぱ


「あっぱっぱ」は夏服の副題。

自宅で飲んで軽く頭痛の残る朝に居並ぶ空き缶の姿と自分の軽装に風情を感じてしまったのは不思議なものである。


  温風の至るや線状降雨帯


温風おんぷう」は南太平洋高気圧から噴き出す湿った暖かな風のこと。

こうした風も今やひどい雨を齎す存在となってしまった。

風情どころではなく本当に絶滅してしまうのかもしれない。


  アパートも肥後は豊かに家清水


「家清水」は家の庭などから湧き出す清水のこと。

熊本の場合には水道の蛇口を捻れば湧き出すので、実は豊かな生活を送っているのかもしれない。

この水でマスクを洗うというのは何と豪著なことか。


こうした句を詠む際には季節感をつぶさに感じ取ることが必要なのであろうが、気づけば季節は過ぎてしまっている。

豊かな生活を送っているな、と私は多々思うことがあるものの昔の季語を学ぶにつれてその思いが揺らいでしまうのを感じてしまう。

今年は初秋に七夕を覚えていることができるのかどうか、といつもながらに心配である。


マスクを干すにあたってやや黒ずんだ場所が現れ始めている。

一度、煮沸でもした方がいいのであろうか。

いずれにせよ晴れの日が続くのもそう遠くはないものと信じつつ、雨の続く日々にまた拙作を重ねるのであった。

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