第19話 原爆忌 ネジ一本の 暑さかな(1枚目10日目・6月23日)
恐れていたことが起きてしまった。
本作の執筆を始めるにあたり、一日空きで執筆を進めていたのは一つには推敲の時間が欲しいと考えたからであるが、これは副次的な理由である。
そもそもの理由は、何らかの原因でマスクの洗浄が不可能になった際に投稿が途切れてしまう可能性を防ぐためである。
それが二日酔いという名の昨夜の余韻によって断たれてしまった。
ここからは背水の陣を敷きながら執筆に挑む思いである。
ただ、この川はヨード香が私を誘うような気がするのだが、気のせいだろうか。
そのような戯れの中で、中一日でマスクを洗面器に浸した。
今日は沖縄戦の終結から七十五年の節目であったという。
ということは、今年の八月には私の地元である長崎に原爆が投下されてから七五年目を迎えることとなる。
そのことに思いを馳せるとき、いくらでもこの世の惨劇を想像することができるのであるが、それと同時に僅か三か月で長崎駅から蛍茶屋間の運航を再開させたことに目が行ってしまう。
広島電鉄でもごく短い区間ではあったものの、三日で運航を再開した区間もあったという。
この当時の人々の苦しみというのは言語に絶するものがあるが、それ以上に前を見据えて動きを止めない姿勢には頭が下がるばかりである。
そして、再び動き始めた路面電車を見た人々の感慨とはどのようなものであったのだろうか。
池波正太郎氏のエッセイの中で終戦の年に浅草で行われた四万六千日の感慨について触れられているが、こうした心の旗が持つ力強さというのは私にも経験がある。
もう四年前になるのかという驚きを隠すことはできないのであるが、熊本地震の後に行きつけの飲み屋が再開した時の心強さというのはひとしおであった。
私も大きな自然災害に見舞われるという経験は初めてであったから心細さや不安といったものが次々と頭をもたげてくる。
暗い街並みというものが齎したものも大きかった。
しかし、その中で灯り始めた街明かりの中で飲む一杯は格別であった。
無論、震災で多くの酒器も酒も失われていたのであるが、それでも、その味は人生でも最高の一杯に入る。
そして、今回のコロナ禍の中で自粛解除の下で最初にいただいた一杯もまた、堪らないものであった。
不平不満を注いだ杯は不味いものであるが、前を見据えた酒の美味さは酒の持つ本来の在り方に通じるのかもしれない。
しかし、これはあくまでも個人的な心の旗、である。
多くの人々が実感する心の旗を取り戻すのに、今回はどれほどの時を要するのであろうか。
今回の騒動の一番難しいところはそうした拠り所さえも奪われてしまっているところである。
長崎ではくんちの奉納踊りが中止されたというから、これはもう心の損害は計り知れない。
こちら肥後でも、秋季例大祭の神幸行列が中止されるという。
翌年こそは、と願うばかりであるがそのためにはかの疫病の本質を静かに見据え、できることを粛々とこなすよりほかにあるまい。
マスクを干して干場に掲げる。
この象徴たる白い布との語らいもいよいよ十日を超えた。
彼らは私の願う日々を見ることはないのかもしれないが、それもまた在り方なのかもしれない。
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