第15話 皿うどんには白いご飯が必須である(1枚目8日目・6月19日)

盥に水をためるように胸の高鳴りが激しくなっていく。

動悸の一部ではない。

今宵の晩酌の友は細麺の皿うどんである。

マルタイの皿うどんの麺は手軽に手にすることができるために重宝しているが、一つだけどうしようもない問題がある。

好みからすれば太すぎるのだ。

雄々しく口腔を蹂躙していく麺も決して悪くはないのであるが、やはり祖たる味となれば細麺に限る。

否応も高まる期待を抑えながら、この喜びの元を探す旅に脳漿を出すこととした。


いわゆる「おふくろの味」というのは幼少期から舌に植え付けられたその人独自の歴史である。

人が摂食と排泄という原初の機序を失わぬ限り、これは変わることがない事実であろう。

画一的な食が広がる現代においても、心に刻まれる順序や風景によってその中身は大きく変わってしまう。

そして、その歴史は人が悩みや疲れを抱えた時に、もしくは、喜びや癒しを得た時にその人に劇的な効果を与える。

楔から解き放たれた存在を賛美するのが現代の在り方なのかもしれないが、そのような矮小な思考は自らの祖の前ではひれ伏してしまう。

社会人一年目の頃に、何かを察したと思われる先輩が、

「こうした時にな、郷土の飯が食えるところを見つけとくといい」

という暖かな言葉をかけて下さったが、その頃の私はその真意が掴めずにいた。

それが今では、この言葉を思い出すだけで目頭が熱くなってくる。

人というのはかほどに変わるものなのかと思わずにはいられないが、その言葉を真正面に受けた今では時折「おふくろの味」なるものを作るようにしている。


ただ、私の場合にはこの味を他所には求めないようにしている。

それがいけないとは思っていないのだが、その味を知るのは自分一人である。

ならば、その探究を人に求めるのは違うのではなかろうか。

偶然に近い味を見つけることもあるだろうが、それは自らの知る味とは異なるはずである。

その妥協は自らの影を朝焼けに置き忘れるようなものでしかない。

また、その味は必ずしも単純に美味いものとも異なる。

これがまたややこしいことこの上ない。


そして、外に出て新たに安らぐ味を得られた人というのは幸せである。

そのような幸運を私はすでに三度も経験しているが、これは浮気性が過ぎるのであろうか。

そのいずれもが確かな腕に裏打ちされた品々を出す店なのであるが、それだけでないというのも事実なのである。

そのため、それらの店には何かがある度に訪ねることとなる。

無論、手ずから自らの歴史を振り返ることもあるが、その店で刻まれた歴史もまた「おふくろの味」とは異なるものの自らの祖を覚醒させる。

その店の条件というのが分かればいいのだろうが、残念ながら共通項はいまだ見いだすことができないである。

いや、正しくはまだその共通項に確信を持てないでいる。

茫漠たる海原にある小島のように私がヤシの実として漂着しただけかもしれない。


マスクを干してその色合いを見る。

微かに口のあたりが色づいているだろうか。

なに、腹黒さを隠さぬ者のどこが面白いのかと独り言ちし、早速、炒め物の準備に取り掛かった。

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