第2話 方向指示器はランプがひとつ切れると高速になる(2枚目1日目・6月5日)
往く水の流れは絶えずして、さらに元の水にはあらず。
と言いながら、蛇口をひねって水を止める。
鎌倉時代の文章に対して難癖をつけるなどナンセンスであるが、それを乗り越えてこその自由な精神である。
洗剤を少し入れてゆっくりと右手で押し洗いしていく。
ゆったりとした手の動きを意識しながら、出社時の運転を思い出す。
目の前を走る車が指示器を出さずに私の前へと自然な流れで入ってくる。
それに一度は腹の虫が騒いだのであるが、それを繰り返す車を見ているうちに不思議と落ち着く自分があった。
見れば、他の車も指示器なしでの車線変更を繰り返していく。
不意に忘れてというのにはあまりにも回数が多すぎる。
ということは当人たちにとってはそれが常道なのだろう。
車線を変更する際に指示器を出すというのは、私の中では常識である。
不意に忘れることはあっても、基本的にはそれをせずに進路変更や右折を行うことはない。
ゆったりと右の中指と人差し指を伸ばし、弧を描くようにウィンカーを出す。
この一連の動きを何の疑問も持たずに行ってきたことに対し、はとさせられるものがあった。
固定観念とは面白いもので、一度、その沼に嵌ってしまえば抜け出すのは容易なことではない。
普段からその険を躱そうと生きているつもりではあっても、落とし穴というのは容易に人の足元を掬う。
自分の意志ではなく無意識で指示器を出してきた私はそうした傀儡と化していたのかもしれない。
では、指示器を出す目的とは何なのか。
それは自分の意志を他者に知らしめるという行いである。
ということは、指示器を出さずに運転を続けていくということは他者の思いをその仕草などから汲み、安全を図るというものなのかもしれない。
それこそ場の調和と「空気を読んだ」無言の配慮を進めていく高度な運転なのかもしれない。
そうした高度なコミュニケーションを取るのは大人の在り方の一つなのかもしれない。
ただそう考えると、やはり自分はマイノリティとして自分の意志を示すことをやめる訳にはいかない。
安易に他人の常道に乗るというのが苦手であるのと同時に、一言挟まずにはいられない天邪鬼なのである。
それならば、今後も自分の意志で自分の思いを伝えるべく、カチカチとした音を鳴らしていこうと思う。
そうこう考えているうちにすすぎも終わり、水気をよく絞ってから干す。
あとは浮世の憂さから離れて晩酌に入るとしよう。
なお、合図不履行違反は七千円也。
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