第174話 邪悪と忍者④

「――……?」


 その手を、止めた。

 己の意志でではない。彼の手を握る、多くの手によって。

 大きな手。小さな手。細い手。温かい手。

 サーシャが、カレンが、アンジェラが、クロエが――彼の殺意を、引き留めていた。

 誰も彼もが怪我を負い、立てるほどの体ではなかった。瓦礫に埋もれていた者もいれば、地に伏せる者もいた。それでも、フォンを止めるべく、あらん限りの力を振り絞って、彼の手を掴むだけに全ての生命力を捧げ、後ろに、傍に駆け寄ってきたのだ。


「……駄目でござるよ、師匠」

「お前に、そんなこと、させない」

「ガラじゃないけど、傷ついた貴方を見るのは嫌なのよね」


 血で汚れた手が、フォンの闇で滲んだ目に、火を灯す。


「………………みん、な」


 そのうち一つの手が、彼の力ない手を離れ、腰に回った。


「戻ってきて、フォン……あたし達の知ってる、フォンに……!」


 嗚咽交じりに背に顔を埋めるクロエの声が、涙が、彼の心を照らした。

 曇天に差し込んだ晴れ間の如く、フォンの心が溶けてゆく。

 今しかない、今を逃せば永遠に彼の正しさが失われると直感した他の面々も、自分達が下手をすれば死んでしまうかもしれない重傷を負っているのも忘れて叫んだ。


「師匠、人を殺めてはならんでござる! 拙者の知る師匠は、己の決意を決して折らない忍者でござるよ!」

「サーシャ、お前が人を殺す、嫌! 何だが知らんが、嫌だ!」

「仲間を悲しませるなんて、貴方らしくないじゃない!」


 カレンは師匠の正しさと、自分に教えてくれた強さを。

 サーシャは言葉にできない、自分に初めて生まれたふわふわした気持ちを。

 アンジェラは同じ闇に沈ませまいという強い決意を、それぞれ叫ぶ。

 一つ一つでは力不足にもなりかねない言葉は、重なり、紡がれ、フォンの魂に紐づけられる。邪悪なる人格が引きずり出され、苦無を握る手の力が弱まり、とうとう彼は呟いた。


「……お、れ……僕、は……」


 それが、彼の思考を途絶えさせる最後の声となった。

 彼は苦無を落とし、ゆっくりと仲間達にもたれかかった。力なく倒れた彼の姿は、つい先刻まで二人に分身して、腕力だけで竜巻を作り上げた男とは思えなかった。


「フォン!」


 クロエが声をかけても、フォンはまるで反応しない。


「大丈夫でござるか、師匠、師匠! アンジェラ、まさか……」


 彼の頬を叩き、必死に起こそうとするカレンがアンジェラに目を向けるが、彼女は猫の手をどかし、何度かフォンの頬を擦り、体を触ってから言った。


「安心しなさい、死んでないわ。過度のショックで気を失ったってところね、怪我も大したことはないし……怪我の酷さで言うなら、貴女達の方が重傷よ」


 アンジェラが言う通り、カレンもサーシャも酷い有様だ。

 どちらも試合の怪我がまるで癒えておらず、包帯をぐるぐる巻きにされただけで怪我が治ったつもりにでもなっているのか、動いているのが奇跡だと思えるほどだ。女騎士からすれば、彼女達が生きている方が不思議なのだ。


「これくらい、掠り傷。サーシャ、強い子、元気の子」

「拙者も同じでござる! 忍者はこの程度では倒れたりしないでござるよ!」

「ま、本人がそう言うならいいけど。クロエ、落ち着いた?」


 元気だけは有り余る二人を置いてアンジェラがクロエに聞くと、彼女はフォンを抱きかかえたまま、しかし安堵の涙を見せないように俯き、答えた。


「……あたしなら、ずっと落ち着いてるよ……」


 落ち着いていると言ってはいるが、落ち着いていないのは丸わかりだ。


「フォンからちっとも手を離さない格好で言われても、説得力がまるでないわよ。サーシャ、カレン、二人を連れて北西にある診療所に行って怪我を診てもらいなさい」

「サーシャ、痛くない」

「拙者も同じく!」

「ハイになって痛みを感じてないだけよ、死にたくなければ言う通りにしなさい。私はこの犯罪者と、もう一人を相手にしなきゃいけないの」


 すっくと立ちあがったアンジェラを見つめるように、クロエは顔を上げた。自分がさめざめと泣いたままここにいるのが、フォンにとって、加えて仲間にとって決して良くないことだと分かった。

 だから、彼女はフォンをに肩を貸すように担ぎ、仲間を見て静かに告げた。


「……分かった。行こう、皆」


 クロエがこう言うなら、元気だと思い込んでいても、彼女達が断るわけにはいかない。二人とも小さく頷くと、クロエとフォンを支えるようにして、広場の外に歩いて行った。

 彼女達が幾分不安ではあったが、アンジェラは自分が言った通り、やるべきことが残っている。クラークの細くなった腕を掴み、ずるずると引きずりながら、彼女は少し離れた瓦礫の近くへと行き、軽く小さな石畳の残骸を蹴飛ばした。

 そこにいたのは、ウォンディ組合長だった。

 彼は全身痣と砂塗れで、しかも右腕が折れてしまったようだ。左手で怪我を抑えながら悶絶する禿げ頭の組合長を見るアンジェラの目は、ひたすらに冷徹だ。


「さて、ウォンディ組合長? 随分痛そうで、苦しそうね?」


 わざとらしい彼女の口調に、ウォンディは怒りも、戸惑いも見せられない。ひたすらに自分の腕を抑え、呻くばかりだ。


「う、腕、腕の骨が折れたぁ……」

「人間には、えっと、何本も骨があるのよ。一本くらいで喚かないで」


 ふん、と鼻を鳴らしたアンジェラが右腕を軽く蹴ると、ウォンディが絶叫した。

 この調子なら、恐らく逃げられはしないだろう。念の為の確認で十分過ぎる結果を得た彼女は、自分の傷も構わず、毅然した態度で言った。


「貴方には山ほどの罪状があるわ。一つずつ説明してあげてもいいけど、陽がくれちゃいそうだし、結論から言うわね――貴方を拘束し、王都の収容所へと連行する」

「……くそぅ……」


 向かってくる自警団の姿が、地面を拳で叩く彼の破滅を意味していた。

 ――こうして、ギルディアを巻き込んだ決闘は終わった。

 結果はフォンパーティの勝利と言えるが、遺恨は、喪失は決して少なくなかった。


 勇者パーティの失墜。

 クラークの暴走。

 フォンの覚醒。


 全ての終わりではなく、始まりであるのは明確だった。

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