第144話 ニンジャ・パーソナリティ

 闇の中にいた。

 どろりと体に纏わりつく、冷たく凍える闇の中に。

 手を伸ばしても、足をばたつかせても、どこにも届かない。目を開いているのか閉じているのかが不明瞭なほどに、眼前は漆黒に囚われていて、何一つ目視できない。

 ただ一つ分かるのは、自分が仰向けになって、遥か奥の空を眺めていること。

 いや、それすらも事実なのだろうか。

 己は上を見つめているのか、下を向いているのだろうか。そもそも上下の概念があるのか、浮いているだけでここには何もないのではないか。油断していると、感情が思考に呑まれてしまいそうだった。

 やがて、無限に続く虚空の中心で、彼は分かりつつあった。

 この空間は、どこか懐かしいと。何度か、何度もか、ここに来た記憶があると。


 ――違う。

 ここに来たのではない。ずっと、ここに閉じ込めていたのだ。

 思い出すまいとねめつけた感傷。喰らい尽くされかねない憎悪。我が根幹すら破壊する衝動。凡そ必要ではない闇と狂気の全てを閉じ込めてきた、魂の墓場。

 だが、墓場はもう機能しない。彼は解き放ってしまったのだから。

 誰にも制御できない悍ましき龍の権化を、真なる己を照らし出したのだから――。


「――――――あぁ」


 ――微かな呟きが、闇を祓った。

 彼は、フォンはベッドの上で目を覚ました。

 暖かく、柔らかい感触に全身を包まれている。首まですっぽりと掛布団に覆われている彼の視界に入るのは、見慣れない天井ではなかった。

 一度だけ見た覚えがある天井は、爆砕したこれまで泊っている宿ではなく、新たに取った宿であると、彼は思い出した。ついでに、肌の感触は布団でだけでなく、顔面以外は皮膚が完全に隠れるほど包帯に巻かれているのだとも気づかせてくれた。

 忍者の覚醒時の反射行動として、彼はまず、手足を先端から基部にかけて動かす。まだ虚ろな目がぱっと開くほどの鈍痛が体中に迸ったが、動かない部位はなく、微力ではあるがフォンの思い通りに可動した。

 自身の無事が保証されたならば、次に確認するべきは状況だ。開いた窓から差し込む陽の光が朝か昼だと告げ、転機は晴れだとも言っている。


 だが、何よりも気にするべきなのは、昨日の出来事だ。思案する能力が復活してくるのにつれて、フォンの記憶が鮮明に思い出されてくる。即ち、リヴォルとレヴォル姉妹を仕留める罠と死闘、その二つによって齎された結果だ。

 彼が覚えている範囲は、アンジェラが毒とレヴォルの暴走によって倒され、姉妹と一騎打ちをしている途中までだ。それ以降の記憶がなく、何をしたか覚えていない。

 敵を倒したのか。仲間はどうなったのか。結果を知るべく起き上がろうとしたフォンだったが、彼の無茶な動作を制するように、掠れた声が左側から聞こえてきた。


「――目が、覚めたんだね、フォン」


 視線だけをずらすと、彼が横になるベッドの隣に、クロエが座り込んでいた。

 震える声を絞り出す彼女の目の下には、暫く眠っていなかったのか、それとも不安と心配で圧し潰されそうになっていたのか、隈ができていた。服はいつも通りだが、まだ額には包帯が巻かれたままだ。

 そんな彼女と、フォンの目が合った。

 のそり、のそりとどうにかフォンが体を起こした。手にしたタオルや水の入った瓶から察するに、自分の看病をしてくれていた彼女に寝たまま声をかけるのは失礼だと思ったのだ。


「……クロエ、無事で……」


 無事でよかったと言いたかったが、彼の言葉は塞がれて出てこなかった。


「フォン、良かった……良かった……!」


 感極まったように涙を目に溜めながら、クロエが彼の胸に飛び込んできたからだ。

 暖かく柔らかい感触と優しい匂いに思わず戸惑ったフォンだが、直ぐにその感情は吹き飛んだ。自分の胸板に顔を埋めているクロエが、しゃくりながら泣いていた。


「もしかしたら、目を……覚まさないんじゃないかって……ずっと……このままじゃないかって……怖くて、あたし、怖くて……!」


 こんなクロエを、見たことがなかった。少し熱くなりやすいところはあるが、いつでも彼女はパーティの中で物事に達観していて、少なくとも他人に簡単に涙など見せなかった。


「……嫌だよ……フォンが、フォンが死んだら……あたしのせいで……!」


 今の彼女は違う。可愛い弟分が死に瀕しているかもしれないというのに、見ているしかできないもどかしさと、永遠に開かない目の幻覚すら抱きつつあった。何もできなかった自分への積もる念が、彼女を寝ずの看病へと駆り立てた。

 果たして、フォンは覚醒した。決して無事とは言い難いが、彼女の恐るべき最悪の妄想は、有り得ない夢へと変わって霧散した。その嬉しさたるや、言葉になどできない。

 首に手を回して泣きじゃくるクロエに驚いていたフォンだが、彼女の心境を悟ると、静かに頭を撫でた。ひと撫でする度に、クロエはしゃくりあげた。


「……死なないよ、クロエ」

「……リヴォルと……死ぬ覚悟で……戦うつもり、だったのに……」

「うん、そのつもりだった。必要なら刺し違えて、道連れにするつもりだった。けど、今はもう違うよ。ここまで愛してくれる人がいて、僕の命を蔑ろにはできない」

「……フォン……」


 クロエをゆっくりと離した彼は、目を赤く腫らした彼女に向き合い、言った。


「必要なら命を捨ててでも使命を果たすのが、忍者だ。でも僕は、これから忍者の掟を破る。皆の為に生きる――生きる為に、戦うよ」

「……本当に?」

「本当だ。僕だけの命じゃない、皆の命なんだって、クロエが教えてくれたから――」


 忍者らしからぬ新たな誓いをクロエに告げるフォンだったが、またも彼の発言は、想定外の第三者によって遮られてしまった。


「――ししょおおおおぉぉぉ――――っ!」

「おーまーえええぇーっ!」


 耳を劈く雄叫びと一緒に、残る仲間達が入口から荷物を放りだして走ってきた。

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