第97話 弟と忍者

 男性の名前がここで出てくる理由は、フォンには一つしか思い当たらなかった。


「ベンって、まさか」


 彼から目を逸らし、はっと己の発言に気付いたアンジェラは、小さく頷いた。


「……私の弟よ。体が弱いけど正義感が強くて、優しくて……いつかは私と同じ騎士になってみせるんだっていつも言ってた。剣術で私に勝てたことは一度もなかったけど、それでも騎士になれるって、私は信じていたわ」


 アンジェラがベンの顔を、あどけない笑顔と温和さを、本のページをめくるように思い出せるのは、まだ死んで間もないからだろうか。それとも、死に対する極限の復讐心が、想いを心臓の奥から引きずり出すのだろうか。


「こんなことを言って気を悪くしたら申し訳ないけれども、フォン、貴方がとても似てるのよ、ベンに。顔も、雰囲気も、考え方も――生き写しなの」


 或いは、フォンとベンが、あまりにも重なって仕方ないからだろうか。

 他の者であれば、ともすれば弟が帰ってきたと喜びかねなかっただろう。アンジェラがそうならなかったのは、死を受け止めていたからに他ならない。


「初めて会った時から、僕を弟のようだと思ってたのかい?」

「いいえ、気付いたのはもっと後よ。もしかすると、私はベンの記憶を心の隅に押しやっていたのかもしれないわ。悲しみを忘れて、怒りに換える為に」


 フォンの顔をまともに見ていなかったのに自分自身が気づいて、アンジェラは彼に目をやった。虚しさを伴う、くしゃっとはにかんだ表情をする彼女に、フォンは言った。


「悲しみはいつか癒えるよ。永遠に残る傷なんてない、僕が保証する」

「誰かを失った人みたいな口ぶりね」

「何も失ったことのない人間はいない。アンジーほどじゃないけど、僕もそうだから」


 苦しみと痛みのマウント合戦をするつもりは毛頭ないが、フォンにも喪失はある。

 自ら失ったものもあれば、奪われたものもある。だからこそ、今のように思い出すだけに留めて残った傷を塞げるのだとも、彼は教えたかった。

 幸い、アンジェラは、何が分かるのかなどと怒らなかった。代わりに彼女は、取り繕ったような笑顔をぱっと浮かべて、フォンの手元からナイフを抜き取った。


「――さて、話はこれでお終いにして、とってもとっても美味しそうなディナーといきましょ! せっかくの料理が冷めちゃうわ!」


 そして、一番近くに並べられた肉にナイフを突き刺すと、大口を開けて食べ始めた。

 騎士としてのマナーの類など一切無視したワイルドな食事法に、フォンは彼女なりの誤魔化しが混ざっていると気づいた。ただ、そこを深く追求するほど、彼は女性の心境に疎いわけでもなかった。


「……うん、食べようか」


 彼もまた、静かにナイフとフォークを持つと、食事にありつき始めた。

 高級な料理が並ぶ中、こってりとしたソースのかかった蒸した肉料理にかぶりついても、フォンにはどうにも味を感じられなかった。


(弟の面影を持つ人が忍者だと完全に知ってしまったなら、アンジーはどうするだろうか。躊躇いなく殺すのか、それとも……)


 アンジェラがどこまで知っているのかはともかく、自分は嘘をついている。

 忍者としてすっかり慣れたはずの嘘が、料理の味を掻き消してしまうほど胸を刺すとは、思ってもみなかった。

 ――だからだろうか、二人の姿をじっと見つめている者達に気付かなかった。


「……フォンの野郎、アンジェラとディナーなんて洒落込みやがって……!」


 彼らが座るテーブルよりずっと離れた酒場の奥で、山ほどの料理と酒をあおっているのは、クラーク率いる勇者パーティの面々だ。

 アンジェラに大敗した彼らだったが、目立った外傷もなく、即座に復帰自体は可能だった。名指しの依頼を今日もこなし、酒と食事を楽しんでいた時に、アンジェラとフォンが酒場に入ってきたのだ。

 当然、自分があの麗しき橙の騎士の隣にいるべきだと考えるクラークは機嫌を損ねる。ついでに彼の隣にいる資格を得たマリィも、機嫌を損ねる。


「クラーク、ずっとあの騎士に夢中なのね。私が隣にいるのに」

「え、何だって?」

「……何でもないわ」


 そっぽを向いた彼女が愛情ではなく、立場の危機感から苛立っているのは明白だった。

 間抜けな三角関係を呆れて、尚且つ面白そうに眺めているのはジャスミン達三人だ。全員、クラークを敬愛している素振りこそあるが、中身を知ってからの本心は真逆だ。


「兄ちゃんってば相当面食いだからねー。ま、私達も人のこと言えたもんじゃないけど。この調子だとマリィの存在なんてあっさり忘れられそうだよね」

「じゃ、ジャスミンさん、そういう言い方は……」

「言わせときな。マリィも利益目当てで付き合ってたし、遅かれ早かれ破局するって」


 豪華な料理を頬張る三人の話など耳に入らず、クラークはただ憎悪の視線をぶつける。


「クソ……本当なら、フォンじゃなくて俺があそこにいるはずなのによ……!」


 結局、彼らは酒場を出ていくまで二人を見てばかりで、ちっとも気づけなかった。


「………………」


 少し離れたテーブルから一行を見つめる、赤黒いおかっぱ頭の女性に。

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