第72話 ニンジャ・トランス


 降りしきる雨と無数の魔物に囲まれたリングで、最初に動いたのは黄金獅子だった。


「ガルオオォォッ!」


 彼が両前脚を地面に叩きつけて吼えると、真上の雷雲が轟き、雷を放とうとする。どういう理屈で落雷を操れるのかは不明だが、雷を受けるフォンにとっては、どうでもいい。

 問題は、これから自分目掛けて落ちてくる獅子の裁きを回避できるかどうかだ。


「落雷を避ける訓練は受けてたけど、上手くいくかどうかッ!」


 過去に何度か訓練を受けたが、ほぼ直感がものをいう。

 雷雲が光る直前に、フォンは黄金獅子から見て左側に跳んだ。その刹那の間に雷が落ち、さっきまでフォンが立っていた地面を粉々に砕いた。

 姿勢を屈め、敵を見据える。獅子は雷が回避されたのに、少し驚いているようだ。


(避けられなくはない、殆ど勘だけど黄金獅子の予備動作を見れば何とか回避できる。けど、こっちから接近する為に動けば間違いなく落雷に撃たれる!)


 雨と汗が混同するフォンとしては、正直なところ回避で精一杯だ。そんな心境を見抜いたかのように、黄金獅子は雄叫びを上げながら、フォン目掛けて突進してきた。


「ガウゥ、ガルオアァァ!」


 雷とまではいかずとも、獅子の攻撃は速く、力強い。前脚を紙一重でかわすと、巨躯の突進が迫ってくる。これもかわすが、いずれも直撃すればフォンでも耐えられない。


「ちぃッ!」


 魔物達の視線を背中に受けながら、彼は黄金獅子と距離を取った。

 しかし、獅子は敵と離れれば即座に雷を落とす挙動を見せる。

 このまま戦い続けたところで、不利になるのはこちらだ。だとすれば、これ以上の交戦を避けつつ、尚且つ必要最低限の挙動で仕留めるほかない。


(仮に長期戦に持ち込まれれば、雷を操れる相手側に分がある! だったらやはり……)


 ただし、今のフォンにはそれだけの力はない。常に受け身であり、相手の動きを窺う、冒険者となってからのフォンの動きでは、黄金獅子に回避されてしまうだろう。

 ならば、手段は一つしかない。自分が冒険者となる前――忍者に戻るのだ。


(クロエ達は来てない……クラークしか見ていないなら問題ない。戻るしかない、昔に)


 彼は、人にその姿を見せたくはなかった。人間を捨てて道具となり、一切の感情を取り払った人間の闇の具現化。思い出したくない過去に、自分自身が成り得る状態。

 彼は極力、仲間の前でそんな姿は見せたくなかった。

 できれば永遠に封印するつもりでもあった。だが、もう彼の覚悟は決まっていた。

 獅子が唸り声を喉の奥から鳴らす眼前で、フォンはがくりと項垂れた。焦りや反応、何もかもを一瞬だけだが感じなくなり、獅子は雷を鳴らすのを止め、様子を窺った。


「――目標指定、入神状態突入」


 そしてそれが、黄金獅子の最大の過ちであると、魔物は背筋を奔る怖気で理解した。

 顔を上げたフォンの瞳からは、ハイライトが消えていた。表情からは欠片の感情も感じ取れず、雨で濡れた前髪の間から目を覗かせる姿は、まるで幽鬼のようだ。

 あの日に戻ったこれこそが、かつてのフォンである。忍者の里で修行を受け、任務の全てを確実に全うする者。闇に忍び、闇そのものと化して感情を殺した、完全なる道具。

 死を体現した彼の瞳を直視し、獅子は落雷の発生が遅れた。これもまた、過ちだ。


「忍法・水遁『棘雨とげさめの術』」


 フォンは窪ませた右掌に溜めていた雨水を、右手首のしなりだけで黄金獅子の両目目掛けて投げつけた。威圧した隙に溜めた水は、フォンが用いれば目潰しの凶器となる。


「ガル、グウオァッ!?」


 獅子は叫び声をあげ、目を瞑った。回復までは一瞬だが、一瞬あれば事足りる。


(目晦まし、成功。手足の機能制御解除、秘伝忍法準備、完了)


 普段は制御している身体機能、能力をフル稼働するべく、意識を向ける。全神経が滾り、敵を屠ることだけに特化した忍者としての肉体が取り戻される。

 彼はそのまま、両掌を水平にして、貫手の姿勢を取った。素人が真似をすれば指を折る構えだが、フォンの貫手は全力を出せば岩を砕き、貫通するのだ。

 この一撃で決着をつける。そう思い動いた時、彼の耳に声が入ってきた。


「――フォン!」


 クロエの声だった。フォンが想像していたよりもずっと早く来てしまった仲間達の前で、それでもフォンは自分の動きを止められずに、刷り込まれた通りの忍術を執行した。

 雨が降る。魔物達が瞬く。クロエやクラークが、一歩踏み込む。


「え?」


 あらゆる行動、事象の刹那、秒間の狭間。

 目をようやくかっと見開いた獅子は、声すら出せぬまま、喉を震わせて倒れていた。

 フォンは、その背後に悠然と立っていた。彼はさも散歩の途中のような雰囲気でありながら、クロエ達が一度も見たことがない――雷鳴のような迅速で、山の主を倒したのだ。

 剣を鞘に納めるように、フォンが冷たい目をしたまま手を軽く払うと、木々の間から口をあんぐりと開けたままのカレンの声が聞こえた。


「師匠、今のは? 何をしたのでござるか、動きが早すぎて、何も……?」


 見られていたか。

 未だに何が起きたかを理解していない、腰を抜かした様子のクラークならまだしも、彼女達に最も見せたくない姿を見られた。心苦しく思いながら、フォンは自分の中に潜んでいた邪悪を心に押し込めて、いつもの穏やかさを取り戻してゆく。

 魔物達のざわめきを受け流し、フォンはいつものフォンになる。


「……秘伝忍法・『八極八掌はっきょくはっしょう』。あらゆる生物に存在する頭部二箇所、手足四箇所、胴体二箇所の急所を貫手で突き、一時的に生命活動以外の全ての動きを封じた」


 貫手。フォンが最も得意とする、平手の指の先端に力を集中する打撃。

 つまり彼は、瞬きの間に八箇所の急所に攻撃を叩き込んだことになる。さも当然のように、人間離れした凄まじい奥義の説明をしてのけたフォンを、クロエ達やクラークはただ唖然と凝視していた。

 当の本人であるフォンは仲間に笑顔を見せてから、獅子に静かに向き直った。


「雌雄は決したよ、黄金獅子」


 フォンの茶色い髪から垂れる水滴が当たっても、幾ら雨に打たれても動かなかった。

 意識こそあるものの、獅子は石のような様子だった。

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