第9話 試練の間のマイナスイオン
大学生活が安定してきたと思える頃には、既に夏が間近に迫った六月の下旬だった。
梅雨というよりも夏を感じられる期間が長くなり、半袖を着ている人も増え、春乃達は初めての試験が目前に迫っていた。
必修科目も多い一年生はレポートの山と筆記試験の対策で大忙しである。
授業の合間やサークルのない授業の終わりなど、図書室や学食に集まる学生も多かった。
春乃達も例にもれず、いつもの四人で試験勉強をしていた。この日は経済学部近くの学食で四人席を取っていた。
「英語やべぇよ……」
春乃の隣に座っている光輝がテキストを前にうなだれている。
「でも、英語は自主提出レポートちゃんと出してれば、試験で点数取れなくても単位はとれるって先輩言ってたよー」
うなだれる光輝の頭をなでながら光輝の向かいに座る紗友里が慰める。
「コイツ、そのレポートほとんど出してないんだよ」
「あー……それは救ってあげられないー」
紗友里はペチンと光輝のおでこを叩いた。
「出せば単位保証だったのに何で出さなかったの?」
春乃の前からため息交じりの奈緒の声に春乃も頷く。
「だって毎週課題やるとかめんどかったんだもん……」
英語は体育に特化した光輝の苦手科目のうちの一つだ。何故、入学できたのかもわからないほどに英語アレルギーである。
「だってオレ日本から出る気ないしぃ……」
英語が苦手な人がよく言うセリフだ。光輝以外の三人はため息をついた。
そこで、紗友里は奥の手と言わんばかりに紙の束を出した。
「やる気ない子にはー、先輩からもらった過去問あげないよー?」
光輝の目に光が宿った。
「過去問!欲しい!やる気ある!」
「ホントにー?まあ、みんなでやろうと思ってもらってきたんだけどー」
紗友里はちゃんと人数分コピーした過去問の束で光輝の頭をポンポンと叩く。
光輝は「神様仏様紗友里様ぁ~」と紗友里のことを拝んでいる。
正直、春乃達も過去問は欲しいところだったので、ありがたく頂戴する。
そこからは過去問を解いて頭に詰め込む作業をした。さほど、英語が苦手ではない奈緒と紗友里は光輝の面倒を、春乃はとりあえず自分のできる範囲の勉強をしていた。
「ここの問題ってさ……」
春乃が奈緒と紗友里に質問しかけたとき隣から声が聞こえた。
「そこはitが何を指しているかを考えないといけないわね」
「あ、そうか……うん?」
隣を見ると微笑みながら足を組んで座っている雪子の姿があった。
「みんな勉強熱心ね。それは過去問かしら?」
「はい、紗友里が先輩からもらったそうです。雪子先輩はなんでこんなところに?」
ここは農学部棟から離れた経済学部棟近くの学食である。雪子は頬杖をつきながら春乃を見て微笑んだ。
「ちょっと事務棟に用があったの。今日はまだ実験をするつもりだから、早めの夕ご飯にしようと思って」
時計を見るともう五時を過ぎていた。
雪子の席にはサンドイッチとパックの紅茶が置いてある。
学食の閉店時間は五時半なのでそろそろ帰り支度をしなければならない。
「あー、もうこんな時間かー。せっかくノッてきたのになー」
光輝が残念なような、安心したような声を出す。
「光輝ー、まだ一枚目の過去問半分も終わってないけどー」
紗友里がため息交じりに言うと、光輝が「オレも頑張ってるんだって」と言い訳。そんなやり取りを見ていた雪子は思案顔になった。
「そしたらみんな研究棟のゼミ室使う?学生はみんな帰っていると思うし、私がいれば問題なく使えると思うけど」
農学部の研究棟は農学部棟よりも経済学部棟に比較的近い距離に建っている新しい建物だ。
「え!いいんすか?」
意外とやる気のあった光輝が食いつく。
「ふふふ。だってノッてきたところなんでしょう?私も今日は帰りが遅くなりそうだから」
「……じゃあ、お言葉に甘えて、お邪魔してもいいですか?」
奈緒がおずおずと聞くと、「ええ、もちろん」と微笑んでくれたので、四人は「やった!」と声を上げ、さっそく移動の準備を始めた。
研究棟は真新しいためとても綺麗で、セキュリティもしっかりしていた。入館証がないと入れないところが春乃達の気持ちをワクワクさせる。
雪子が入館証をタッチし中に入り、エレベーターで六階へ上がる。
畑違いもいいところの春乃達が入っても良いものなのか不安はあったものの、雪子がいれば大丈夫という安心感もあった。
六階に着くと静かなロビーと実験室がずらりと並んでいた。大型の機会も多く、実験室と言うと人体模型と顕微鏡のイメージが強い春乃達からすると、とても新鮮でついキョロキョロしてしまう。
「ふふふ。あなたたちにとっては珍しいものがいっぱいかもしれないわね」
雪子はそう言いながらドアを開けた。
「ここがゼミ室よ。誰もいないから好きに座って勉強して。元に戻しておいてくれればホワイトボードも使って大丈夫だから。私は実験に戻るけど、隣の部屋にいるから何かあれば呼んでね」
「ありがとうございます」
四人が頭を下げるのを見て、雪子は「勉強頑張って」と言って手を振って部屋を出て行った。
「雪子先輩優しいね」
奈緒が憧れの眼差しで雪子が出て行ったドアを見つめる。「そうだね」と言いながら春乃もドアを見つめる。
そんな二人を見て、光輝は「うんうん」と頷いて言った。
「先輩の優しさでオレ頑張れる気がするわ!」
右手を天井に突き上げ、やる気のポーズをとる光輝を見た紗友里が笑う。
「じゃあ、始めようかー」
「おー!」
四人は掛け声とともに勉強を再開した。
勉強を再開してから一時間くらいたったところで、春乃は気分転換にトイレを捜しに廊下へ出た。
静かな廊下を歩いていると、隣の部屋から雪子が出て来た。白衣を羽織り、試験管を手に持っている。
「あら、春乃君。どうしたの?」
「ちょっと気分転換にトイレにでも行こうと思って……」
ふと、雪子の持っている試験管を見て春乃は不思議に思った。黄色い内容物が斜めの状態で固まっているのだ。
「先輩、それなんですか?」
雪子は自分の持っている試験管を見て「これ?」と聞くと説明をしてくれた。
「これはスラントって言って寒天培地の一種なんだけど……簡単に言うと菌を育てるための土壌よ。ここには今、目には見えない菌が塗られてて、適温で育ててあげると土壌から栄養を取って育っていくの」
「へぇ…寒天でできてるんですね」
春乃は塗られている菌をよく見ようと試験管に近づいてみたが、寒天が綺麗に固まっているだけで何も見えなかった。
「今、私が持っているのは放線菌という種類の菌ね。聞きなれない菌でしょう?春乃君も聞いたことありそうな菌で言うと、大腸菌とかも培養しているわ。見てみる?」
「あ、はい」
春乃は特別興味があったわけではないが、雪子の楽しげな声から、つい答えてしまった。
雪子は「こっちよ」と言うと別の部屋のドアを開けて招きした。そこは、大小さまざまな機械が陳列されていて、春乃の少年心を揺さぶる新鮮な空間だった。
「これがインキュベータって言って、温度を一定に保つ機械なの。大腸菌は基本三十七度で活発に増殖してくれるから、ここに入っているんだけど……」
そういって、雪子が取り出したのは透明なお皿に先ほどの寒天培地が平らに固められており、蓋がきっちり閉められている容器だった。
「これはシャーレ。もしかしたら見たことがあるかもしれないわね。この中に大腸菌が育っているの。この丸い点々が大腸菌よ。この状態をコロニーって言うのだけれど、可愛いでしょう?」
先ほどの試験管培地では確認できなかったが、大腸菌のコロニーは肉眼でもしっかり確認できるサイズに育っていた。
春乃は可愛いかどうかは別として、とても面白いものを見せてもらっている気がした。
「先輩はこの菌を育てるのが研究内容なんですか?」
雪子は楽しそうに首を振った。
「いいえ、これは準備段階。ここから更にいろいろ加工をして最終的には放線菌が生成する特定の化合物……つまり放線菌が作り出す物質ね。それを作っている遺伝子配列を特定するのが私の研究内容になるわ」
春乃は頭が混乱して一瞬動きが止まったが、雪子は春乃を見てクスクスと笑った。
「ちょっとややこしかったかしら。私、研究の話になるとついつい話し過ぎちゃうの。ごめんね」
春乃は慌てて首を振った。
「いえ!僕の頭では追いつけなかったですが、先輩が凄い研究をしてるのはわかりました!」
雪子は「ふふふ、ありがとう」と言って微笑んだ。そして春乃は笑顔で言葉を繋げた。
「あと、実験が大好きなのも伝わりましたよ」
雪子はちょっと驚いた顔をした後、微笑みながら腕を組んだ。
「そうなの。私、実験が大好き。だから大学院に進学したんだもの。まあ、理由は他にもあるんだけど……それはまだ秘密。春乃君にはそのうち話しちゃうかもしれないわ」
含みを持った言い方と微笑みに春乃は首を傾げたが、雪子は微笑むばかりで続く言葉はなかった。
その時、「ハルー!どこいるんだよー!そろそろ帰るぞー!」と光輝の呼ぶ声が聞こえたので春乃は慌てて返事をした。
「トイレはいいの?」
「あっ……」
雪子の問いに春乃は、はっとした顔をして「忘れてました」と照れた笑顔で答えた。
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