白衣の女神は試験管を持っていた

芦都朱音

第1話 初めましては試験管とともに①

 桜の花びらが舞う。所々緑の見え始めた桜の木はまるで祝福しているかのように花吹雪を舞わせている。


 着なれない真っ黒なリクルートスーツの集団は、新生活の始まりに期待や不安、それぞれを胸に秘め一様に体育館へと向かっている。


 入学式。経済学部に進学した春乃は入学式の会場である体育館を目指し、丘の中間地点を歩いていた。


「坂道長くね?」


隣を歩く光輝が言う。


「しょうがないだろ。この丘全部学校の敷地なんだから」


四月の晴れ晴れとした空は、入学式にふさわしい透き通った青色をしていた。


 髪を明るい茶色に染め、耳にはピアスが光る光輝とは高校からの友人で、彼は元高校球児だ。高校生の頃は坊主にしていた髪の毛だが、今はすっかり伸びて毛先を遊ばせた髪型は、憧れの大学生を謳歌しようとする彼の意志の表れかもしれない。


あんなに泥まみれになって野球をしていた彼はどこへ行ったのか。


「ハル、俺は大学生になったからには彼女を作ってキャンパスライフを楽しむんだ。なのにお前はどうだ!髪も染めない、ピアスも開けない、遊びの欠片も見えないじゃないか!ついでに言うと、左後ろ歩いてる子可愛くね?」


泥まみれになってボールを追いかけ続けていた元高校球児は、今では夢にまで見たキャンパスライフで脳内にお花畑が広がっている、ただのチャラ男になってしまったようだ。


「光輝、大学は勉強するために入ったんだ。多少のお遊びはいいとして、単位落とすなんてことにはなるなよ。あと、左後ろの女の子は普通」


「出たよ、真面目なハルちゃん。ってか、なんで入学式ってスーツなんだよ。動きにくい」


「スーツが大学生の正装なんだろ。それに運動するわけじゃないんだから多少の動きにくさは我慢しろよ」


不服とばかりに文句を垂れる光輝をあしらいながら春乃達は体育館へと足を踏み入れた。


 長い長い学長のありがたいお話と各自学部棟への移動アナウンスが終わると、ぞろぞろと出口へ向かう人の黒いスーツ集団の波。全学科共通で行われた入学式が終わった。


あとは学部のクラスごとで行われるホームルームを終えて解散の流れだ。


 それぞれの学部棟へ向かって人が流れていく様をぼんやりと眺めながら歩いていると、目の前にひょこっと現れた栗茶色ショートカットの女の子が言った。


「あ、やっぱり春乃だ!久しぶり!」


「は?」


思わずびっくりして、「は?」としか言えず立ち尽くしている春乃に対し、横を歩いていた光輝が目を輝かせた。


「なになに?ハルの知り合い?何ちゃんっていうの?」


光輝のチャラさに気を取り戻した春乃は目の前に立っている栗茶色ショートカットの女の子を上から下まで眺めて言った。


「…奈緒、なんでこんなところにいるの?」


奈緒と呼ばれた女の子は、仁王立ちのように両手を腰に当てるとため息をついた。


「なんでって、新入生だからに決まってるじゃない」


今度は春乃がため息をつく番だった。


「おいー、ハルってば!奈緒ちゃん?はハルの友達なの?」


 栗原奈緒くりはらなおは幼稚園からの幼馴染だ。母親同士の仲が良く、よく家族ぐるみで遊んでいた。中学校まで一緒だったが高校で別々になり、それ以来会っていない。春乃にとって奈緒はお節介な兄妹のような感覚なのだ。


「奈緒ちゃんはハルの幼馴染だったのかー!あ、オレ、小田桐光輝っていって、ハルの高校の同級生!しっかし、いいなー可愛い女の子の幼馴染とかオレも欲し…」


「可愛い?」


春乃と奈緒の声が重なった。春乃は怪訝な顔をして光輝を見つめ、奈緒はちょっと恥ずかしそうに視線を外した。


「…え?俺なんか変なこと言った?じいちゃんが可愛い子は素直に可愛いって言えって…」


春乃と奈緒を交互に見つめながら光輝は首を傾げた。どうやら、光輝のチャラさはおじいちゃん譲りらしい。


「…いや、何でもない。早く学部棟へ行こう」


足早に歩きだした春乃の後ろを二人がついていく。


「なんで奈緒までついて来てるんだよ」


奈緒は小首をかしげて不思議そうにしている。


「なんでって、こっちに学部棟があるからに決まってるじゃない」


「まさかお前の学部って…」


春乃たちが向かっている先に学部棟は一つしかない。


「経済学部だけど?」


奈緒の答えに春乃は今度こそ大きくため息をついた。チャラい光輝にお節介な奈緒が組み合わさった自分の学生生活を思い嘆く。これはせめてクラスだけでも別になっていてほしい。


しかし、神とは時に残酷な存在である。


「オレ一組~!」


「あ、私も一組だ!」


「…一組…」


見事に全員一組に集合したのだった。一クラス二十名程度、四クラスあるにもかかわらず、奇跡的に三人とも一組になっていたのだ。春乃はとうとう膝をついてうなだれた。


「なんだよ~!三人とも一組じゃん!楽しくなりそうだな!」


「そうだね!私、春乃と同じクラスなんて何年ぶりかなぁ」


「……」


 春乃は重い身体を持ち上げ、ついていた膝を払うと三人で一組の教室がある二階への階段へ向かった。経済学部棟は特別真新しいわけでもなかったが、きれいに磨かれた廊下と白い壁は新入生をお待ちしておりましたとばかりに輝いて見えた。


 教室のドアに手をかけた光輝が振り向いて春乃と奈緒の顔を見て言った。


「いいか?ここからオレ達の輝かしいキャンパスライフが始まるんだ!」


ガラガラガラ。


しんと静まり返った教室には、三人を除くほぼ全員と思われる生徒が間隔を空けて座っていた。その顔が一斉にドアを開けた光輝を見ている。


春乃と奈緒は視線から逃れるかのように一歩後ろに下がった。


「なんで二人とも後ろに下がってるんだよ」


振り向いた光輝が小声で叫ぶ。他人のふりをしたかった春乃だが、強引に腕を引っ張られ、ずるずると教室に入る羽目になってしまった。


その後ろを俯いたままついてくる奈緒はさらに距離を取っている。


三人が席に着く頃には周りの視線もなくなっていたが、春乃はひどく疲れを感じていた。


席は春乃と光輝が一番後ろの長机の端と端に座り、通路を挟んだ右斜め前に奈緒が座っている。


「これだから脳内お花畑は…」


小声で文句を言う春乃に対し、一つ席を空け座っている光輝は難しい顔をして言った。


「なんでみんなこんなに静かなわけ?」


春乃は本日何度目かになるため息をついた。


 しばらくして担任と思しき中年男性が教室に入ってきた。一瞬でその場の空気が緊張するのを肌で感じ、さすがの光輝も姿勢を正している。


担任は軽く挨拶を終えると記入書類があるとのことで、手際よく生徒に書類を配り始めた。


「なぁ、シャーペンもう一本持ってね?筆記用具なんて持ってきてねぇわ」


「持ってきとけよ」と言いつつ、あいにく、春乃も筆記用具は一本しか持っていなかった。すると斜め前に座っていた奈緒がさっと振り向き、小声で言った。


「私持ってるよ。貸してあげる」


光輝は小声で「サンキュ」と差し出されたシャープペンを受け取ると、春乃に「奈緒ちゃんって優しいな」と言いながらニカッと笑った。


「お節介なだけだよ」


春乃がため息交じりにそういうと、右斜め前からポキッとシャープペンの芯の折れる音がした気がした。


 担任は全員分の書類を集め、次に明日から始まるオリエンテーションについての説明をした。どうやら、わざわざ宿泊施設を借りて一泊二日でオリエンテーションを行うらしい。


 春乃には光輝も奈緒もいるためそこまで不安もないが、他の学生からしたら知らない人達といきなり一泊二日を共にするのは、なかなかハードルが高いのではなかろうか。そんなことをぼんやりと考えながら教員の話を聞きつつメモを取った。


「集合時間は朝の九時、正門前にバスが止まっているので、クラス番号の書かれた車両に乗り込むようにしてください。では、本日は以上になります。せっかくですので、校内の散歩でもしながら帰ってください。お疲れさまでした」


「ありがとうございました~」という控えめな学生の返事を聞きながら教員は教室を出て行った。


 教員が出て行ったのを確認すると数人の女の子たちがひっそりと塊を作り始めた。


どうやら、明日からのオリエンテーションに向けてコミュニケーションを図っておこうという意図らしかった。自然とその輪は広がっていき、奈緒も巻き込まれるようにしてその中に入っていった。


男の子はというと、小さい塊が数個出来ているだけで、女の子達のような勢力にはなっていなかった。


 すると、光輝のように髪を明るく染めた男子数人が女子の群れの中に入ろうとしているのがうかがえた。


「ハル、オレらも行くぞ!」


鼻息をフンフン鳴らしながら目を輝かせた光輝が言う。


「俺はパス。先に帰るわ」


春乃は帰り支度をしながら即座に答える。巻き込まれるのは御免だ。


「んだよ、つれねーな。一人っきりでどうやってあの中に入りゃいいんだよー」


目の輝きが急速に失われていく。春乃は今日ため息しかついてない気がした。


「奈緒にシャーペン返してないだろ。ちゃんと返しとけよ」


「その手があったか!」と光輝はシャープペンを握りしめ、女の子グループの中にいる奈緒のもとへ急ぎ足で向かった。


奈緒に話しかける光輝の声を後ろに聞きながら春乃は教室を出た。

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