第二章 気が付けばいつも一人になっているような後輩 10

 物置き状態の踊り場より渡良瀬が引っ張り出してきたのは、イーゼルに乗せられた水張り済みのパネル。渡良瀬はリュックを降ろし、詰め込んでいた画材を取り出し始める。

「……机があると便利ですね。机があると便利なんですよ」

 独り言を装った圧力をかけられ、空気を読んだ俺も余剰の机を踊り場から屋上へ運び込む。渡良瀬が卓上に並べるのは、もちろん画材。持参していた筆や絵皿、ポスターカラーなどを使いやすい位置に配置し、美術室の作業スペースが屋上の一角にも複製された。

 わざわざ画材をまとめて持ち運ぶのも帰り際に手を洗わないのも、別の絵をすぐに描く予定が控えていたため。寒冷な屋上に隠れ、部活動の第二部にいそしんでいたのだ。

 屋上に存在する二つの星空。太陽が眠ったあとに人々を見守るほしくずの海と、長方形の画用紙に閉じ込められた。瞳に映る景色を忠実に描き写したものではなく、無数の光体が燃え盛る赤と瑠璃色の独創的な星空は宇宙の星雲を連想させた。

「……星空が広がる夜になったら、この場所でこつこつと描いていました。見たままを忠実に描写しているわけではないですが、やはり実物を前にすると想像力を刺激されますね」

 渡良瀬は椅子に着席し、語り掛けながら絵皿に色を取り分け、筆先で混ぜ合わせる。

 画用紙の大部分には多種多様な色彩が花開いていたが、紙本来の素材が露出している部分も少なからず見受けられた。

「……進捗は半分程度です。下校時刻まで一時間もないですから、毎日少しずつしか進まないんですよ」

「自分の家では描けないのか?」

「……星があまり見えないアパートの狭い部屋で窮屈に描くより、貸し切りの屋上で星を眺めながら描くほうがはるかに楽しいじゃないですか」

 口は止めても、筆を持つ手は休めない。わたのほうから話題を振ってくる機会はあまりないので、俺が積極的に話しかけないと会話は途切れてしまう。

 一週間前に出会ったときから時折抱いていた既視感。絵を描く渡良瀬の隣にいると、それが顕著に強く先鋭になっていくのが不思議で、まとわりつく困惑の正体を欲した。

「たまに音漏れしてるから、どんな楽曲を聴いてるのか気になってた」

「……子供の頃に叔父さんから譲り受けた音楽プレーヤーなので、少し前の曲が多いです。フジファブリックの星降る夜になったら、YUKIのほしくずサンセット、ELLEGARDENのスターフィッシュ、RADWIMPSのトレモロ、サカナクションのセントレイ、石崎ひゅーいの第三惑星交響曲……夜空を描くときは、この辺りを好んで聴きますね。素敵な曲ばかりなのでセンパイもぜひ聴いてみてください。なんでしたら、お勧めの楽曲が入ったCDも貸しますよ」

 冷え切った外気温と相反する熱量の長文を早口でまくてる布教。

 絵と同様、身近な音楽に関してはじようぜつになるのが、すこぶる可愛かわいいな。

「俺はりの曲しか知らないんだ……。PINK FLOYDの原子心母とかは聴くんだけど」

「……センパイは五十年くらい留年してるんですか?」

 だから気安く声をかける。渡良瀬を知りたいという欲求が、日に日に膨張していたから。

「たくさんの星はれいだけど、実際に描くのは大変そうだな」

「……いえ、そこまでは。絵の具を付けた筆を棒でたたくと飛沫しぶきになります。飛び散った色を絵の上に散布させて無数の星を演出しました」

 どんなことでもいい。渡良瀬が好きそうな話題を探し、質問を投げかけていく。

 二人きりの屋上で延長された部活動だから、もっとしやべりたい。

「この絵が星空だっていうのは分かるけど、中央で輝く白い流れ星は実在してるの?」

 磁力のごとく目を引き寄せる神々しい存在感。ハレーションで夜空を鮮烈に切り裂くすいせいは、実在の流星群や彗星がモデルだとしたら正式名称があるのかもしれない。

 そんな程度の気軽な質問だったのだが──渡良瀬は即答せず、作業の手を止め、ふいに夜空を仰ぎ見る。つられた俺も夜空へまなしを向けるものの、絵と酷似した星は流れていない。

 この現実離れした星空のモチーフは、もしかして──

「……センパイは〝スノードロップ彗星〟をご存じですか?」

 しばらく口をつぐんでいた渡良瀬が、ぽつりと口を開く。

「名前くらいは聞いたことがあるけど」

「……四年に一度、二月の間に夜空を流れるという彗星です。専門家でも正確な日付を予見するのは困難らしく、目撃できる人は本当にまれだと言われていますね」

 概要は知っているが、その名称を聞くと……ちっぽけな心残りが再燃しそうになる。

「……わたしはスノードロップすいせいを描き始めたんですよ。この絵は空想も混ざっていますが、こんな感じで光るのかな……とか、勝手に思い浮かべていました」

わたは見たいのか? その非科学的な彗星を……」

「……そうです。ただ待つのもヒマなので、夜空がれいな屋上で絵を描くことにしました」

 大多数の人間がスノードロップ彗星とかいこうすることなく一生を終えるというのに、後輩の少女は一人きりで真偽不明な自然現象を待ち焦がれている。理想の光景を思い浮かべ、それを自分の色で表現しながら、夜空という無限大のキャンバスに星の光が流れるのを。

「ヒマを持て余してる俺と同類だな」

「……センパイとはヒマ潰し仲間ですね。サボってばかりで、どうしようもないです」

 少しばかり、渡良瀬は声を躍らせてみせた。

「……この彗星が『スノードロップ』と名付けられた理由は分かりますか?」

「春が訪れる時季に流れて、スノードロップの花を咲かせるから……だったような」

 スノードロップ彗星の別名は〝春の訪れを告げる星〟だったはずだから。

「……それも由来ではありますが、星へ祈った者に〝希望〟と〝慰め〟を与えるからです」

 渡良瀬は夜空を見上げ、遠いまなしのまま物思いにふける。

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