第一章 好きなものを語ると早口になるような後輩 2

 居残り補習を告げられた放課後。

 登坂に言われた通り、教室棟から多少離れた美術室へ渋々ながら向かう。主に実習で使う教室が並び、廊下を歩けば歩くほど多種多様な文化部の活動が横目を通り過ぎた。吹奏楽部のパート練習が断片的に鳴り響く校舎内という不慣れな雰囲気を受け流しつつ、程なくして美術室の前に到着。出入り口の引き戸をスライドさせた俺が遭遇した光景は、怠惰な心情を一変させ、昼食後から続いていた眠気を吹き飛ばす。

 教室の中央に陣取る木製のイーゼルには木製パネルが立て掛けられ、素人には種類が判別できない大きめの画用紙がパネルに沿って貼り付けられている。

 俺が目を奪われたのは、イーゼルの対面に置かれた椅子に浅く腰掛けた女生徒。

 右手に添えた筆を巧みに操り、淡くぼかした緑系の混色を白一色だったであろう紙へ宿らせていく。口を真一文字に結んだ彼女が筆先でついばむたび、宿った色彩に生命の息吹を与える。森の木々を主役に据えた風景画なのに、緻密に何層も重ねられた描写が微風や森の匂いまで想像させてくれて、写真よりも生々しく、それでいて実写の風景には存在しない美麗な色使いが非日常感も鋭角に際立たせていた。

 脳がしびれるほどの衝撃と、どことない懐かしさ。感情が同時に交錯した俺は目的を忘れ、初対面だった女生徒の背後で、ただただ棒立ちするしかないのだ。

 女生徒は自らの世界観を筆先で築き上げることに没頭しており、美術室には創造主しか存在しないと信じて疑っていない。断固として振り向かない孤独な背中が、そう物語る……と第三者目線で格好良く語りたいが、部外者の存在に気付いていないだけだろう。

 ドアの開閉や歩行などの雑音を巻き散らしたが、女生徒の両耳は開放型オープンエアのお洒落しやれヘッドホンで防備され、耳を澄ませば音漏れが聴き取れる音量の楽曲に聴覚を浸らせている。

 どうりで背後に立っても、チラ見の一つすらしないわけだ。不要な環境音を完全に遮断し、全ての意識を画用紙に注いでいるのだから。

 俺はそこら辺にあった椅子に腰掛け、一心不乱に絵を描き続ける女生徒を見学しながら登坂が来るのを待つ。普段だったらスマホをいじってヒマ潰しをするはずなのに、このひと時に限っては触りたい欲求すら起きない。SNSのタイムラインを指でこすったり、おもしろい動画を見て簡易な快楽を得るよりも、画用紙を夢中で見詰める女生徒と同様の景色を共有するほうが充実していると思ったんだろうか。

 空っぽで物足りない俺の人生が欲していたものは、今この瞬間なのだとしたら──

 職員会議で遅れる登坂を待ち続けること一時間。

 もはや、登坂を待つというよりは女生徒を勝手に見守る方向に目的が傾き、筆と紙が頻繁にこすれる音や筆洗で毛先の汚れを落とす水跳ねの音が耳にんで心地よい。

 お互いに無言。奇妙な均衡が保たれていたのだが、ついに沈黙が途切れる。


「おじさん、ベタチョコ」


 ふいに女生徒が発した台詞せりふは、俺の頭上に数十個の疑問符を浮かべさせた。

 おじさんベタチョコ……とは、何かのおまじないですか? 意味不明すぎて思考回路が一時停止し、動作が硬直させられてしまう。女生徒は目の前に置かれた絵に相変わらず集中しているのだが、上履きに包まれた足の爪先がせわしなく揺れ始めた。

 戸惑いを隠せない俺は様子見を継続していたものの、数分後に再び……

「おじさん、ベタチョコ」

 紙に触れた筆先を小刻みに動かしながら、謎の呪文(?)を唱えた。一回目よりも語気が強まり、いらちが籠っているような。集中力も散漫になってきたらしく、紙の上で軽快に躍っていた筆が宙で止まる場面が増え、筆を置いた指がついにヘッドホンを外す。

「おじさん! ベタチョコ!」

 つつましやかな声を懸命に荒らげながら、唐突に立ち上がった女生徒はきびすを返した。

 驚いた拍子に起立した俺と視線が衝突し、向こうも瞳を見開いたまま、お互いに数秒の硬直を挟む。みるみるうちに女生徒のほおが恥じらいの朱色に染まり、

「…………っ!」

 俺から逃げる意図で美術室から飛び出していく。

 取り残された俺はぼうぜんと立ち尽くすしかなかったが、繊細な顔つきと小柄な骨格は安易に触れると壊れそうなぜいじやくさを印象付け、日焼けとは無縁そうな色白の美肌にはシミの破片すら見当たらない。物静かな風貌と、臆病を凝縮した瞳の奥。両者のたいは一瞬だったが、俺の記憶に根深く焼き付くには充分だった。

 ……約一分後、女生徒が開けっ放しにしていった美術室の扉に人影が現れる。

「はっ? どうしてはなびしがいるんだ?」

 きょとんとしている訪問者は、どこからどう見ても担任のさかだった。

「あんたが『美術室に来い』って言ったんじゃないですか……」

「あ~……そうだったかな。すまん、ど忘れ」

 ざっけんなよクソ教師が、こらァ。こちとら、律儀に長いこと待ってたのに。

「職員会議が長引いたし、とっくに帰ってると思ってたわ。正直、オレが来るまで残ってたのが意外だったんだよ」

 確かにいつもだったらしびれを切らし、とっくに帰っていただろう。もし遊ぶ予定が入っていたら、友情を優先していたに違いない。

「まあ……見ての通りヒマ人だし、他にやりたいこともないので」

 周りの同年代が目標を見つけたり、将来を考えて動き出している。ちりの焦燥が幾重にも積み重なり、能天気な楽観野郎の重い足を一歩……いや半歩、前進させた。

「待ち時間なんてあっという間でしたよ。絵描きの女の子がいたんですけど、興味本位で見学してたらつい見入っちゃって……それがバレた途端、速攻で逃げられました」

 たはは、と苦笑いしかできないな……。

 一人で集中していたところを邪魔してしまい、申し訳なさが罪悪感の気持ちを生む。

「そいつの絵はどうだった?」

 おもむろに感想を聞いてくるさかへ疑問を抱いたものの、

「専門的な感想は無理ですけど、俺が好きな作風でした。あの子が描く絵は……めっちゃ好きです。時間が許す限り、ずっと鑑賞していたいくらいに」

 本人はいないので、語彙力のない率直な感想を述べた。

 あの子とは初対面なのに、どこか既視感を覚える色合いやタッチが興味をくぎけにし、有意義だと誇れる放課後を分け与えてくれたのだ。

「……だってよ。良かったな、褒めてもらえて」

 突然、に語り掛けるような口ぶりで登坂がしやべり出す。

 それもそのはず。登坂の背後に隠れていたであろう女生徒が、遠慮がちにちょこんと顔をのぞかせた瞬間に理解できた。途端に恥ずかしいことを言った気になり、羞恥で顔面が沸騰していく。本人が聞いていると分かっていれば、玄人気取りの感想を言う努力をしたのに。

 なんだよ、めっちゃ好きって。小学生でも、もうちょいめ言葉を工夫するだろ……。

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