【第一章 志向と異常】02

        ■■■■

「-お――、お―い、白野君~起きて~ね~ったら!」

 誰かに頬をつままれて僕は寝ぼけまなこで歪む視界の中、机の横に立っている女性を見て、欠伸交じりに尋ねた。

「どうしたんですか?水瀬さん」

 視界が徐々に定まってきた。

 短い黒髪に無地の白シャツとハーフパンツを身にまとったラフな格好の女性。

 家政婦の水瀬さんだった。

「もお!勉強しているか見に来たのに寝ちゃ駄目じゃない!そんなんじゃお母さんとお父さんに怒られちゃうよ!」

「いたいれふよ~それにしっかりとへんきょうはやひましたよ~」

 机の横に置いておいた漢字のワークと算数ドリルを渡して水瀬さんにそう言った。

「本当だ・・・・・・それにちゃんと全部合ってる、この~!生意気だぞ!」

 笑いながら水瀬さんは僕の顔を腕で包みながら頭をわしゃわしゃと触ってきた。

「苦しい――それにあたってるから!」

 両親が居ない日が多い僕はいつもこうして家政婦の水瀬さんと一緒に二人で過ごすことが多かった。

「お?ませたガキめ!」

「いや僕だってもう七才だよ、子供扱いはやめてよ」

 水瀬さんの腕から離れようと無理やり頭を引っこ抜いたがその反動で後ろにあったベッドに椅子ごと倒れてしまった。

「あちゃあ~悪乗りが過ぎたか~ごめんよ白野君」

 水瀬さんから出された手を掴んで立ち上がる。

「水瀬さんの方こそ彼氏さんつくらないの?まだ二十代でしょ」

 僕の家に家政婦として来てから約二年ずっと僕の傍で水瀬さんはまるで家族の様に僕に接してくれていた。

「彼氏ねえ~今は良いかな~」

 焦った様な表情をしながら水瀬さんはそっぽを向いてそう答えた。

「水瀬さん可愛いいんだから彼氏つくらなきゃ損だよ」

 子供ながら僕は生意気にもそう言うと頬を赤らめながら

「ばっか!子供に可愛いって言われても嬉しくないかんなないんだぞ!まあ今日はビーフシチューにしようかな」

「やった!水瀬さんのビーフシチュー!」

 ご機嫌よく水瀬さんは鼻歌まじりに出ていこうとしようとしたところで何か思い出したかのようにこちらに振り向いて聞いてきた。

「あぁ、そうだ!もうそろそろで白野君お誕生日だよね!お母さんとお父さんはどうだって?」

「・・・・・・お父さんとお母さんは仕事で家に帰れないって言ってた・・・・・・・」

 この時は両親が忙しく休日ですら帰るのが難しい日も多々あり、誕生日は平日だったのでなおの事休むことができない状況だった。

「そっか・・・・・・ならさ!遊園地に行こうよ!私、良いとろ知ってるんだ!」

 寂しさにしょんぼりとしていた僕を見兼ねた水瀬さんがそう口にした。

 その言葉に心が踊り、僕は歓喜のあまり大声で

「行く!」

 と言った。

 一年前は水瀬さんも用事があって一人で迎えた誕生日なだけあって今回は水瀬さんも一緒にいてくれるというだけで嬉しいのに遊園地にまで誘ってくれてとっても嬉しかった。

「よし!決まりだね!じゃあそれは置いといて、今からご飯作るから白野君も手伝ってくれるかな?」

 水瀬さんは抑揚の付いた声で僕に尋ね、その言葉に僕は大きな声で

「やる!」

 と気持ち良いほどの声で返事して水瀬さんの後をついて自室からキッチンへ水瀬さんと手をつないで陽気に向かっていった。

                 □□□□

【誕生日当日】

 僕と水瀬さんは予定通り遊園地に向かってバスに乗っていた。

 だが、予定はたった一人の男性の乗車によって全てを狂わされた。

「お前ら!動くんじゃねえ!いいか、死にたくなきゃ絶対に動くじゃねえぞ!」

 途中のバス停で乗車してきた焦点の定まらない眼をした中年の髭が濃くヨレヨレのワイシャツとスラックスを着た男性が猟銃を構えて大声でバスの中にいる全ての人に向けて怒鳴った。

「彼奴ら・・・・・・ふざけやがって、俺の、俺の手柄を盗みやがって・・・・・・絶対に許さねえ!」

 男性は僕と水瀬さんが座る二人席の近くでウロウロとしながら身体を震わせて何かをブツブツと呟いていた。

「大丈夫だからね、ごめんね・・・・・・怖い思いさせて」

 僕の左手をギュッと震えた手で握り、水瀬さんは震えた声でこちらに言ってきた。

 その時の僕は状況を把握できていなく、何かの催し物なんだと勘違いしていた。

「運転手!ここに向かえ!」

 前方に歩いて行き、男性は怒鳴りながら手に持っていた地図を運転手の前に放り投げた。

「ここって!無理ですよ!なんでそんな――」

「つべこべ言うんじゃねえ!死にてえのか!それと、信号で止まるんじゃねえぞ、こっちは急いでいるんだよ、もっとスピードを出せ!もしも止まったらどうなるか分かるよな?」

 男性は猟銃を頭上で発砲し、運転手を無理やり黙らせて指示通りの場所に向かわせるように仕向けた。

「わ、分かりました」

 バスは赤信号なんてお構いなしに次々に無視していき、瞬く間に速度を上げて男性の指示した場所へと向かっていた。

 バスに響き渡った銃声に鼓膜が振動し、泣きそうになる程に耳鳴りが酷かった。

 何分経っただろうか・・・・・・

「まだつかないのかよ!」

 苛立ちながら右往左往する男性は今にも発砲しかねない様子だった。

 そんな緊張感が充満した重苦しい雰囲気の車内では乗客たちがタイミングを見計らって男性を抑え込もうと視線を交わしてその時を待っていた。

 外を見てみると覆面パトカーがバスの右斜め後ろで走行をしながら男性にバレないように車内の状況を確認しようとしていた。

 それからバスの前方に目を向けてみると先頭の席に座る男性が運転手に何か言っているのがここから見えた。

 猟銃を持った男性は前と後ろを行ったり来たりしてせわしなく動き続けていた。

「おい!まだか―――って!」

 しびれを切らして男性がもう一度大声を上げた次の瞬間にバスは急カーブしながらブレーキを掛けて車体を左側に傾けた。

 水瀬さんと僕の反対の空席に勢いよく倒れる男性を目にした瞬間前方と後方から男性たちが続々と彼を抑えようと突っ込んで行った。

「ふざけやがって!邪魔ばっかりして・・・みんな死んじまえよ!」

 怒りが最高潮に達した男性は猟銃をこちらに向けて引き金を引いた。

「白野君!」

 水瀬さんは僕に覆いかぶさる様にギュッと抱きしめて銃弾が当たらない様に庇った。

「水瀬・・・・・・さん?」

 猟銃から放たれた弾丸は水瀬さんの心臓部分を打ち抜き僕の頬をかすめて窓ガラスを割っていった。

 呆気に取られていた僕は水瀬さんから出血した血が僕の顔にだらりと垂れていくのを見ていることしか出来なかった。

「え・・・・・・血、・・・・・・水瀬さん?水瀬さん!返事をしてよ水瀬さん!」

 過呼吸になりかけていた僕は水瀬さんの血が呼吸と共に口に流れ込んできてこれが催し物でも何でもない残酷な現実であると認識し、ぐったりと僕に覆いかぶさって離れない水瀬さんに大声で声を掛けた。

「ごめん――ね、白野君、――本当は――こんなはずじゃなかったの――」

 ブツブツと切れながらも僕の頭を撫でながら耳元で水瀬さんは力を振り絞って言葉を吐いていく。

「ごめんね――ごめ――」

「何だよそれ!僕の家政婦さんだろ、しっかりしてよ水瀬さん!遊園地連れていってくれるんでしょ!水瀬さん!ねえ・・・・・・返事してよ・・・・・・一人にしないでよ・・・・・・」

 揺さぶりながら水瀬さんに訴えかけるが返事は返ってこなかった。

 いろんな感情が混濁しながら僕は泣きじゃくりながら動かない水瀬さんをゆする事しかできなかった。

「水瀬さん・・・・・・」

                ■■■■

「白野君!大丈夫かい!」

 身体を強く揺さぶられて気がつく。

「飯塚さん――」

 安心したのかほっと一息ついてから飯塚さんは

「到着して後ろを振り向いたら苦しそうな顔して「水瀬さん」って呟いてたから心配したよ・・・・・・何か悪い夢でも見たのかい?」

 と尋ねてきた。

「まあ―――そんな感じです」

 僕は額からダラダラと流れる汗を拭いながら思考の回らない頭でそう口にしてから

「お会計お願いできますか?」

 と言った。

「あぁ、そうだったね」

 飯塚さんは運転席に戻りメーターの額を読み上げる。

「5400円だよ・・・・・・でも――」

「お釣りは結構です・・・・・・」

 何かを言おうとする飯塚さんを遮るように僕はポケットから母さんからもらった一万円を取り出してトレイに出してタクシーを出た。

「いいって、大金だよ?本当にいいのかい?」

 戸惑いを見せながらも飯塚さんはこちらに尋ねてきたがそんなのどうでもよかった。

「お話に付き合ってくれたお礼です。受け取ってください」

 それっぽい事を言葉に貼り付けて言うとどうやらこちらの意思を察したのか観念して飯塚さんは貰うことにした。

「そうか、ならありがたく頂戴します。また今度タクシーを呼ぶ時は連絡しな、今度は私の方からお礼がしたいからね」

 と気さくに笑いながら言ってきた。

「それじゃあ・・・・・・またよろしくお願いします。おやすみなさい」

 そう言って僕がマンションに戻って行くと後ろから「元気出せよ!」と飯塚さんが一言声をかけてからタクシーを奔らせ始めた。

 住戸のあるフロアに到着すると一番奥の自殺現場の前には既に規制線が貼られ、警官が二人、外で誰も入らないように見張っていた。

 自分の住戸のドアの鍵を開けて中に入って閉めると電気も点けずにトイレへ向かった。

 気持ち悪さがピークを迎えて嗚咽と共にすべて吐き出した。

 泣きながら吐くも朝から何も食べていない空っぽの胃からは何も出てこなかった。

「いつぶりだろうな、こんなの・・・・・・」

 いつの間にか心に鍵をかけて忘れ去ろうとしていたバスジャックの記憶。

 あの日僕は始めて事件に遭遇し、それを機に一ヶ月に一度事件に遭遇するようになった。

 最悪で災厄な日の出来事を何故今になって思い出したのだろうか?

 答えは見つからないままだ。

 トイレを出て洗面器で顔を洗ってから自室へ向かった。

 吐き疲れた身体は疲労困憊で電源が落ちる様にしてベッドに横たわると共に眠りに着いてしまった。

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