第9話 大女将、危機一髪!

 

 テレビ取材に大女将の腰痛と、予想もしていなかったトラブルはあったものの、かき入れ時である紅葉シーズンの客足は期待通りの推移を見せて、連日の忙しさに私達はてんてこ舞いだった。


 腰の状態もあるのだからまだ無理はしないで欲しいとは言ったものの、動けるようになった大女将も到着したお客様の対応や配膳作業にと八面六臂の活躍をしてくれていた。特に今の時期は臨時で雇ったアルバイトの人たちへの教育や指導も必要で、どうにか手分けしながらではあるものの、それぞれが自分のことで精一杯で、他人のことを構ったり、気にかける余裕が失われていたことは確かだと思う。

 

 だから大女将の不調には誰も気がついていなかった。当の大女将自身ですら。

 

 おそらく唯一気がついていたのがお華ちゃんで、あとから考えると本人(?)は必死でそのことを私達に伝えようとしてくれていたのだけど、余裕がなかった私達はそれに気がつくことが出来なかったのだ。


♨♨♨

 

 お客様のお食事が終わり、空になった食器をまとめて乗せたお盆を抱えて、私は廊下をぱたぱたと急いでいた。


 ちょっと前までの旅館によくあったような、全部屋のお客様が宿泊されている個室でお食事を取っていただくというやり方から、お客様に大広間に来ていただいてお食事を提供するやり方に切り替えてから、配膳にかかる負担はだいぶ小さくなった。それでも一度に食事をする人数が多ければ多いだけ調理場・洗い場と大広間を往復しなければいけない回数は増える。

 昔は全個室に対してよくこれをこなしていたものだとも思うけど、そもそも宿に務めている人数の絶対数が違っているのであまり参考にはならない。一部屋あたりに一人の仲居さんがついている形にすればきめ細かくフォローが出来るのは当然なのだけど、人件費を抑えるために仲居さんの人数を昔よりも減らしてしまっている以上、お食事の提供の仕方は大幅に変更する必要があった。

 それに団体のお客様が少なくなって、空いていることが多くなった大広間をできるだけ活用するという意味合いもこのお食事提供方法の変更の背景にはあった。個室と違って大広間であればお食事をされているすべてのお客様のテーブルの様子が見えるから、少ない人数できめ細かくフォローが出来るのも利点だ。

 ただ広い部屋であるがゆえに一度の食事時間の間に配膳係が移動する距離は必然的に長くなる。配膳ダイエットができるんじゃないかと思うくらいには、毎日夕飯の時間になると私は走り回っていた。


 ぱたぱたと走る私の着物のそでが引っ張られる感触がした。


 やばい、どこかに引っかけでもしたかなと慌ててその袖の部分を見るけど、見る限りはなんともない。おかしいな?と思いながらものんびりと確認している暇も無いのでお膳を抱え直して再び走り出す。するとまた袖が引っ張られる感触がする。再びおかしいなと思って袖の方を見ると、今度は視界の端に赤い着物がちらりと見えた。

 私が視線で追いかけるようにして後を追うとそれは廊下の角へと消えていく。


 ははあ、お華ちゃんの仕業か。

 合点のいった私はみたび走り出しながらお華ちゃんに呼び掛ける。


「ごめんねお華ちゃん、構って欲しいのはわかるんだけど、ちょっといま忙しいの」


 聞こえているのかいないのかはよく分からないけど、こちらからはそう言うしかない。すると私の言っていることが聞こえていたのか、視線の先にある廊下の次の角に赤い着物を来た少女の姿が見えた。その女の子は足下に細身の黒猫を従えて、古風なおかっぱ頭を左右にぷるぷると振りながらこちらを見ている。その仕草の言わんとすることを計りかねて私は立ち止まって問いかける。


「どうしたのお華ちゃん。いまは遊んであげられないの。分かってくれる?」


 そう話しかけるけれど、彼女はかわらず首を左右に振り続けている。否定の仕草であることは分かるのだけど、なにを否定しているのかが分からないのが困った。

 遊んでくれないことが納得いかないということだろうか?しかし正直、私は普段からお華ちゃんとそこまでしっかりと遊んでいるわけではない。彼女の遊び相手といえばそれは継春なのだ。まあそれも彼がお華ちゃんと同じくらいの年齢の頃の話であって、今の彼はどちらかといえばお華ちゃんの親と言っても通じる位の年齢になっている。そういえば私達にはまだいないけど、もしかして子供でもいればもっとお華ちゃんの言わんとしていることが分かるようになるのだろうか。

 そんなことを想像はするものの、今の時点では関係のない話だ。分かるまで話しかけてコミュニケーションを取るしかない。うーん。忙しいんだけどなぁ。


「えーと、遊んで欲しいのかな?」


 変わらずぷるぷると首を振るお華ちゃん。遊んで欲しいわけではないようだ。しかしそうすると困った。選択肢は無限にある。

 私はしばし考え込むと、彼女に話しかける。


「なにか言いたいことがあるの?」


 そう言って彼女の様子を見るとこくこくと必死な様子で頷いている。言いたいことかぁ。言いたいことがあるならぜひ言って欲しいのだけど、残念ながら私は彼女が喋っているところを見たことがない。

 そもそも彼女は喋れるのだろうか? 仮に喋れないとすると、彼女の言いたいことを引き出すにはこのまま「Yes・No」方式で聞きたいことを探るしかない。うへぇ。それは莫大な時間がかかることが容易に想像できた。

 お華ちゃんはかわいいし好きだから、なるべくなら相手をしてあげたいところではあるのだけど、いかんせん団体客が夕食に入っている今はタイミングが悪い。私はいったんお膳を置いてその場にしゃがみ込み、彼女と目の高さを合わせ、面と向かって言う。


「ごめんねお華ちゃん、さっきも言ったけど、今はお喋りをしている時間がないの。お話があるならあとで聞いてあげるから、良い子だから静かにしていてね」


 そう言い含め、お膳を持って立ち上がり厨房へと向かう。厨房では板長を手伝いながら莉子ちゃんが必死に皿洗いをこなしているはずだ。これを運び終わったら、私もそれを手伝わなくてはいけない。

 廊下を急ぐ私のそでを、再び引っ張る感触を感じたけれど、私は立ち止まることなく廊下の先へと向かうのだった。

 心苦しいのは確かだし、あまり無下にするとよくないとは思うけど、いまは心を鬼にしないといけない。怒って祟らないと良いけど。



 無限皿洗い地獄とも思えた作業をどうにか終えて私が部屋へと戻れたのは日付も変わろうかという時間だった。なんだろう、私は莉子ちゃんともども前世で皿でも割ってしまったのだろうか? 前世は番町皿屋敷のお菊さんだったりしたのだろうか?

 それにしたって今日の作業はなかなかの苦行だった。人の割り振りもきちんと考えなくてはいけないなと改めて思う。人員配置に関することは以前まで大女将が采配してくれていたからこれまであまり考えなくてよかったのだけど、腰を痛めて以来あまり調子の良くない大女将に頼りすぎるのも良くない。そういったことも若女将である私がこれからは考えなくてはいけないのだ。仲居の人たちの人間関係も含めてそれぞれの思惑が複雑に絡むからあんまりやりたくないのが正直なところなんだけど、これは経営者側である私達の大事な仕事でもある。あまり逃げ続けるわけにもいかない。


 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、ちょうど大女将の部屋の前を通りがかった。従業員用のフロアの廊下は電気が暗めになっているのだけど、今日は妙に明るいなと思ったら、大女将の部屋のドアが半開きになっていて、そこから部屋の明かりが漏れ出しているのだった。いつも几帳面な大女将にしては珍しいなと思い、半開きの隙間からそっと中を覗き込む。


 そこで私が見たのはドアのすぐ内側で突っ伏して倒れている大女将の姿だった。私は頭の中が一瞬真っ白になり、体が硬直してしまう。心臓が早鐘を打つ。汗が一気に噴き出してくる。口の中が一気に乾く。何かしなくては、と思うのに、突然の出来事に脳がついて行かず、なにも判断が出来ない。「あ……」と掠れた声を出すことしか出来ない。


 そのとき、くいくいと服の袖を引っ張る感触がした。感触につられて振り向くと、そこにいたのは心配そうに潤んだ瞳でこちらを見つめてくるお華ちゃんだった。彼女の足下にはいつものように黒猫がいるが、普段みたいに泰然自若とはしておらず、落ち着かなさそうにお華ちゃんの足下をぐるぐると回っている。そこで初めて私はお華ちゃんがこのことを教えてくれようしていたことに気がついた。

 そうだったのか、ごめん。

 彼女が必死にこちらに訴えてくれていたのに気がつくことが出来なかった。申し訳なさに押しつぶされそうになりながら、どうにかごくりとつばを飲み込んで喉を潤し、固まってしまっていた体を無理矢理動かす。

 どうしよう、とりあえず継春を呼んだ方がいいのだろうか、それとも救急車?そもそも大女将に意識はあるのだろうか。急に触らない方がいいのか、でも意識があるかどうかは確認しないといけないし。

 私がぐるぐると考え込みながら大女将に近づいていくと、「うう……」と大女将が呻いた。よかった、とりあえず息はある。

 私は大女将の顔のそばに慌ててしゃがみ込むと必死で声をかける。


「大丈夫ですか、お義母さん、意識はありますか!?」


 私の呼び掛けに反応して大女将がうっすらとまぶたを開ける。焦点の定まらない目でしばらくあたりを見回してからようやくこちらの存在を認識すると、唇から言葉を漏らす。


「ああ、優菜ちゃんね……ごめんね、ちょっと意識が遠くなってしまって」

「大丈夫ですか、どこかぶつけたりしていませんか」


 私が大女将の体勢を直そうとして腰のあたりに触れると、痛みが走ったのかびくんと大女将の体が跳ねあがった。どうやら腰のあたりを痛めてしまったらしい。元々腰が悪かったのに、先日から無理を重ねてしまっていたからだろうか。しかしこれではまともに動けそうもない。これはやっぱり救急車を呼ぶ必要があるだろう。

 そう思っていたら、慌てた様子で継春が部屋のドアから飛び込んできた。私が呼んでいないのに、なんでこのことがわかったのだろう。思わず声に出してしまう。


「継春、どうして分かったの?」


 継春が答えを返す前に、彼の腰のあたりにお華ちゃんがしがみついているのに気がついた。それを証明するかのように継春がこちらに告げる。


「お華ちゃんが慌てた様子で袖を引っ張るから気になってついてきたら、こんなことになっててびっくりしたよ。母さん、大丈夫なのかい!?」

「意識はあるんだけど、腰を痛めているみたいで動けなさそうなの、私だけじゃどうしようもないし、もう救急車を呼ぼうと思って」

「ああ、じゃあ僕が119番に電話するから、その間、優菜は母さんを見ててくれ」

「うん、わかった」


 継春はそう言うとスマホで電話をかけ始めた。見ててくれと言われても下手に触っても痛みが走るだけのようだし、私に出来ることはほとんど何もない。

 唯一出来ることと言えば「いま救急車呼んでますからね。大丈夫ですよ」と大女将に声をかけることくらいだった。「私は大丈夫よ、心配しないでね」とむしろこちらに対して気遣った返事を返してくれる大女将に対してこういうときに何も出来ないのがもどかしかった。

 お華ちゃんも同じ気持ちらしく、大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら大女将をさすっている。正確に言うと大女将が痛がるかもしれないので直接触れずにさすっている仕草だけということになるのだけど、それでもお華ちゃんが大女将のことをとても心配しているのはわかった。あらためて、そんなお華ちゃんの呼び掛けに気づけなかったことが悔やまれ、私は拳を痛くなるほど握りしめる。


 ほどなく電話を終えた継春から救急車がこちらに向かっていると教えられたが、窓の外を見ると、空から落ちてくる白いものが見える。昼間はすっきりと晴れていたというのに、どうやら私が皿洗いの苦行をこなしている間に外では雪が降り出していたらしい。

 電気も水道も通っていて孤立しているわけではないけれど、もともと人里からはちょっと離れていて山の中にある竜泉閣までは救急車が辿り着くのに三十分以上はかかるとのことだった。普段から買い物には少し苦労するのが悩みではあったけれど、こういうときにも苦労するのかと改めて思い知った。


 雪が積もって滑りやすくなっている山道を苦戦して登りながら救急車はやってきた。救急車から降りてきた三人の救急隊員の人たちはさすがプロと思わせるがっちりとした体つきで、二人ががりでなんなく大女将を抱えると、痛みを感じる前にさっと素早く担架に乗せる。

 担架の頭側と足側に一人ずつ付くとぐいっと担架を持ち上げて可能なかぎり揺らさないようにしながら救急車へと運び入れてくれた。意識があるので大女将本人に倒れたときの状況を聞きながら、あわせて麓の病院と電話でやりとりをして、どうやらそこに向かうことが決まったらしい。


「ご家族の方、どなたかご同乗いただけますか」


 救急隊員の要請に対して継春と二人で相談した結果、私は明日のお客様への対応もあるということで救急車には継春が乗ることになった。

 継春が乗ろうとしたとき、「ごめんなさいね、ちょっと待って」と言って大女将が私を手で呼び寄せた。私が慌てて近づくと、「私のいない間、竜泉閣をよろしく頼むわね」と小さく告げる。「はい、分かりました」そう答えて私は神妙にうなずいた。大女将は私を見つめて優しくうなずく。私が救急車を降り、入れ替わるようにして継春が乗り込むと、すぐに救急車の後部ドアがバタンと閉まる。

 赤色灯を瞬かせながらサイレンを鳴らして救急車は雪の降りしきる中を去って行く。それを白い息を吐きながら見送る私の袖がくいくいと引っ張られた。そちらの方を見なくてもお華ちゃんが引っ張っているのが分かった。私はしゃがみ込んでお華ちゃんと目を合わせる。


「お華ちゃん、一生懸命私に大女将のことを教えようとしてくれてたのに、気がつかなくてごめんね」


 そう告げる私に対して、大きな両の瞳いっぱいに涙をためながらも、お華ちゃんはぷるぷると首を振った。私は「大丈夫、大丈夫だからね」と言いながら彼女を抱きしめた。温度がないはずの彼女の体が、なぜかそのときは温かく感じた。


 大女将の部屋をとりあえず戸締まりして、私は自分たちの部屋へと戻る。継春が飛び出してきたままだった部屋は扉が開け放されたままとなっていて、そそくさと着替えてからすっかり冷たくなってしまった布団に体を潜り込ませると、一気に疲労が襲ってきたのかまるで金縛りにでも合ったかのように体が重くなった。

 考えてみれば無限皿洗いをしてから大した時間は経っていないはずなのに、まるでそれがとても遠い日の出来事のように感じられた。

 結局まんじりとも出来ないまま布団の中で何度も寝返りをうっていると、明け方になって継春がタクシーで戻ってきた。私のことを気遣って電気もつけずスマホのライトを頼りにそっと部屋に入ってくる彼に、「足下危ないから、電気を付けていいよ」と声をかける。


「なんだ、まだ起きてたの。寝ててもよかったのに」

「うん、そのつもりだったんだけど、寝られなくて」

「それもそうか」

「お義母さんの状態はどうだったの?」


 寝間着に着替えている継春に、まず一番気になっていることを聞いてみる。


「うん、腰の状態が良くないからしばらく入院にはなるけど、それ以外は大きな問題はないってさ。忙しさのせいで少し疲れがたまり気味だったみたいで、一瞬意識が飛んじゃったときに、腰も打っちゃったみたいなんだよね」

「それならいいけど」

「幸子おばさんといい、よくよくうちは腰に問題ある家系だなぁ」


 大事ではないと知ってほっとしたのか、隣の布団に入りながら継春が軽い調子でつぶやいた。私は正直に告白する。


「それもあるからさ、腰って聞いたときけっこう心配したんだよね」

「そうだね。気持ちは分かるよ。でも大丈夫。幸子おばさんも心配しているみたいだし」

「?」

「診断が終わって病室まで母さんが運ばれたとき、見舞客用の向かいの椅子にちらりと幸子おばさんが見えたんだよね。凄く心配そうな顔してた」


 それもそうか。話を聞く限りなにしろ自分の死因に近いことが義姉の身に起こったのだ。それは心配くらいするだろう。


「だから大丈夫だよ。もしかしたらいまごろ二人でお喋りでもしているかもしれない。だからほら、もう寝なよ」


 そう言いながら継春が優しくこちらの髪を撫でる。私はそれでようやく緊張が解けて、ゆっくりと眠りに落ちていったのだった。  



 翌朝の朝礼で大女将が病院に運ばれたことを伝えると、さすがに皆がざわついた。私は継春と改めて腰のこと以外は大きな問題はないこと、ただししばらく入院となることを告げた。


「大女将の入院の間は、私が接客の責任者になりますので、なにかあれば遠慮なく私に言ってください。大女将と比べれば頼りないかもしれませんが、全力で頑張りますので」


そう言って皆に頭を下げる。


「私達はいつも通りやるだけだから、若女将こそ無理しないでね」


 そう心配そうに声をかけてくれたのは以前撮影の際に布団を敷いていた年配の仲居さんだった。未熟者の私はどうしてもベテランで歴の長い仲居さんから小言を受けがちになってしまっていて、つい敬遠してしまうのだけど、こういう非常時に経験豊富な仲居さんがいてフォローしてくれることはとても心強い。


 私はもう一度頭を下げて「ありがとうございます、よろしくお願いします」と告げた。そうしないと思わず泣いてしまいそうだったから。

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