『雨女』

第1話『煮穴子』①



 ここは、錦町にしきまちに接する妖との境界。


 ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。


 たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。


 元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵らくあん』に辿りつけれるかもしれない。







「……おや、雨ですか」



 天気予報で台風の予報があったわけではないのだが、油断は出来ない。遙か昔、厄災の一端と恐れられていたの天災は、ヒトにも妖にも何かしら害を与えてきたのだ。


 とは言え、今の世となってからは、建物なども頑丈にこしらえられてきているので、猫人の火坑かきょうが地獄に召される以前の世とは違い、祈りを捧げる必要はない。


 だが、この雨の降り方には火坑も覚えがある。


 その証拠は、店先の掃除を簡単に終わらせてから、あらわれた。



「……ご無沙汰しております、火坑さん」



 日本傘を優雅にさしている一人の女性。


 ただし、髪や肌は日本人形のように整ってはいるが、眼だけが異質。眼球は黄色く、白目の部分は黒。まさしく、彼女が人間でないことを模っている証だ。


 だが、妖界隈の歓楽街にたたずむ小料理屋に、妖が訪れてよくない理由もない。それと、火坑と彼女との関係は、久しいとは言え店主と客で成り立っていた。



「おや、ご無沙汰してます。灯里あかりさん」



 妖の彼女の名を呼んだが、部類としては雨女あめおんなと言う妖だ。


 天気を左右する人間の呼称ではなく、妖としての雨女。産んだばかりの子供を雨の日に神隠しに遭って失った女性が雨女となり、泣いている子供のもとに大きな袋を担いで現れるとの説もあるらしい。


 が、土地神のように雨を降らす女神とも言われているそうだが、火坑も妖としては端くれでしかないので詳しいことは知らないでいる。それに、ヒトでないにしても妖のプライバシーを聞きすぎるのもよくないとされているので。


 とりあえず、久しい訪れに変わりないから、開けたばかりの店内に通すことにした。



三月みつきぶりかしら?」

「そうですね。前回いらっしゃったのは、春の前でしたでしょうか?」



 だから、夏なのでお手拭き用のおしぼりは、専用の消毒冷温機に入れていたのを手渡す。


 雨でも化粧をほんのりとしている灯里は、丁寧に手を拭ってから、これまた丁寧に折って手元に置いた。



「以前はてっさの時期だったかしら?」

「そうですね。今は夏ですから、猪も難しいですし」

「でしたら、今日は穴子か鰻はあるでしょうか?」

「穴子ですと、焼きか煮るどちらで?」

「……では、煮るで」

「味付けはいかがいたしましょう?」

「夏らしいのもいいけれど。気分的に濃いめでいいでしょうか?」

「はい」



 しっかり、食べたいのだろう。


 なら、少し時間がかかるが握りなどでよく食べられる煮穴子にすべきか。寿司職人ではないが、猫人の火坑は師匠らにいくらか教わった経験がある。


 無論、客に出せる技量になるまで仕込まれたものだ。なので、先付けの卯の花和えを出して、灯里に酒の種類を聞くことにした。



「そうですね……。冷やは穴子と一緒にしたいから。ひとまず焼酎のロックで。麦でいいでしょうか?」

「かしこまりました」



 最近は忙しいヒトの客らである湖沼こぬま美兎みう美作みまさか辰也たつやもめっきり訪れないが。ヒトの場合、年中無休の妖界隈とも違う忙しさにまみれて、夏も結構な繁忙期だそうだ。美兎の場合は、研修も終わり新入社員とは言え仕事の担当も増えたらしく、訪れも週から月に一、二度に減ってしまった。


 辰也の方も、お盆や夏休みがやってくるまでは忙しいらしい。職種は違うが、会社勤めに変わりない二人の訪れがないと、火坑にはいくらか寂しく感じた。


 火坑の主食である心の欠片の提供者としてもだが、若い顔ぶれが遠ざかると、妖とてしんみりしてしまうのだ。


 だが、手には今目の前にいる客の料理を優先して調理している。美兎とは違い、灯里は女性の妖でも生きた食材の調理に目を閉じることはなかった。



「元ヒトの子と言えど、成長ははじめヒトと変わりないから、大きくなるのも早いものです」



 まだ穴子を煮る前に、灯里が酒を半分ほど飲んだ辺りでぽつりとそんな言葉を漏らした。


 火坑は手を止めずに、彼女の言葉に耳を傾けることにした。



「……お子さんですか?」

「ええ。わたくしども、雨女の伝承はいくつかご存知でしょう?」

「多少は。……僕のような妖がお聞きしてもいいのですか?」

「少しばかり、聞いてくださらない?」

「あなたがよろしければ」



 今日の来店は、少し愚痴りに来たのかもしれない。


 だが、別段悪いことでもない。以前に、かまいたちの水緒みずおもそうだったように、妖にも意志があり個性もある。ヒトと変わりなく、愚痴とてするものだ。



「……少し前。あなたのお店に来た後のことだったんです。ヒトの子を、拾ったの」

「その口ぶりからですと、攫ったわけではなさそうですね?」

「ええ。ヒトでも多い虐待に遭った子だったんです。五歳くらいの男の子。当時は痩せ細っていたわ」



 雨女の雨を降らせた土地で、一人呆けていた男児を拾ったのがきっかけ。


 親から虐待を受け続けて、甘えも泣きもしないその子供を不憫に思った灯里は妖の界隈に連れて行き、引き取って育てることにした。


 しかも、その子供は名すらつけられていなかったために、灯里が母代わりとして『灯矢とうや』と名付けたらしい。


 そのあとは、妖の医者に頼んで傷などを癒して、ままごとかもしれない仮初の親子として生活し出した。


 そこまではよかったのだが、妖の世界での空気を吸う度に、灯矢は芽生えかけてた自我を持ち始めた。そこから、母代わりである灯里に色々聞き出してきたのだ。


 同じ目でないこと、この世界はヒトと同じようで違うこと。



「……良いことでは?」

「ええ。けれど、妖の大気を吸ったところで、同じ妖になるとは限らない。あなたもご存知でしょう?」

「はい。……まさか、それを?」

「あの子の場合、雨男にはならなかったのです。まだ不完全ではありますが、晴れ男の可能性が」

「ふむ。その差が出てしまったことにより、幼いながらも悩まれたと?」

「はい。……だから、どうしたものかと。せめて、気分転換に、と。あの子を今日だけ医者に預けて、ここに来ました」

「……僕の料理なんかで、あなたの心を癒せれるでしょうか?」

「ふふ。ご謙遜を。最近の噂も聞いてますのよ? 若くも活力のあるヒトから心の欠片を手に入れていらっしゃると」

「いいえにしがあったからですが」



 そして、話の途中で灯里ご希望の煮穴子が完成して。一緒に軽めのお茶碗に米を盛りつけてからカウンターの上に出した。

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