第27話 兵部尚書


 不老長寿の仙薬などと。

 今、雪花シュエホアの頭の上には、フワフワ雲に乗ってフォッフォッと笑う、白髭のお爺さんの幻影が浮かんだ。


 (仙人って、だいたいこんなイメージよね。あれ?不老長寿なのになんで歳取るんだろう?ああ、その歳まで修行したからか…… 何も、ヨボヨボになってから長生きしなくても。人生果てしなそう)


 「嘘だ」

 

 雪花は手で自分の頭の上を払った。

 幻影仙人は去った。

 

 「……だろうと思いましたよ。そんな物、この世に存在しませんもの。五毒の一つ、大抵は辰砂しんしゃ。古代の君主の遺体からは、致死量の水銀が検出されるとか。つまり、変幻自在の水銀を、インチキ道士に唆されて飲んだに過ぎません。その先に待ってるのは永い苦しみだけです」

 

 「ほう、よく知ってるな。その通りだ…… お前、意外と博学なんだな」


 「いや~照れますなぁ。で、本当は何作ってるんですか?」

 

 「常備薬だ。もうじき避暑ゆえ大都を離れて遠く高原に行くことになる。もちろん、医者も同行するが、ほとんどが町医者、下世話にヤブという者だ。優秀な者は御殿医として宮中に召し抱えられているからな」

 

 (なるほど。軽いケガなら自分で治せっ、てね)

 

 雪花はこの時代に来た日――膝を擦りむいた時、トクトアがチドメグサを摘み、その場で治療してくれたことを思い出した。

 

「まあな…… 武官ゆえ生傷が絶えん。薬草の知識は、もしもの時に役立つ……」

 

 無意識に、あの日のトクトアの言葉が、口からついて出た。


「はあ?お前…… 誰の口真似をしておるのだ?」

 

 「いえ、なんでもありません……」

 

 今はもう、懐かしい思い出となったが、あの日のことは生涯忘れないつもりだ。

 

 「お前…… 兵部に行ったことあるか?」

 

 「え?兵部?」

 

「なんでもない…… 早く寝ろよ」

 

 「はい」

 

 妙に思いながらも部屋を出る前、そっと後ろを振り返った。

 気のせいだろうか?彼が持つ薬研が、悲鳴をあげているように見えた。

 

 *∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*

 

 「これではお小遣いもらえなくなる…… なんか良い考えはないものか」

 

 雪花は中書省の書庫本棚の隅っこにうずくまって悩んでいた。

 最近兵士達の識字学習の成果が思うように上がっていない。

 決して王禎ワン・ジョン王子の教え方が悪いのではないが、この場合教材の選び方に原因があると思われた。

 

「基礎を学んだ貴族のお子様じゃあるまいし。庶民よ庶民」

 

 いきなり『千字文せんじもん』とは、やっぱりハードルが高かったようだ。

 王子もそう思っていたらしく教本探しを提案した。

 「そこでだ。大都の十一全ての城門前で、隊商らが定期的に開いてるらしい市場バザールってのに行ってみんか?きっと良い手習い本が見つかると思う!彼らを良い兵士にするために!な!行こうぜっ!」と、いかにもリアルっぽい感じに言ってるが、どう考えたって教材探しにかこつけた、下心みえみえデートの誘いだった。

 市場バザールは本日開かれるという。

 けれど雪花は二人のお守り役、金さん・銀さんによる密告を恐れた。

 この二人のお守り役は、お嬢様に至極当然忠実に仕えるが、お嬢様の不貞となると話は別らしく、自分達が見聞きしたことを至極当然忠実に上司トクトアに報告するのであった。

 気難しい上司の機嫌を損ねると後々面倒だ。

 言うまでもなく、すぐさま最上級の笑みを顔を張り付け、「嫌で~す」と、丁重に?お断りした。

 今日二人の従者はバヤンに共して宮城に参内している。

 しかし、だからと言って姿が見えないから安心して良いとは限らない。油断大敵、火が亡々だ。

 

「それに昼間は軍事訓練で疲れてるし…… やっぱり夜学は無理なのかな」


 頭を抱えていると背後から低い美声がした。

 

 「君どうしたの?そんなセンザンコウみたいに丸まって」

 

 振り向けば、あのトクトアに似た香扇子の男。

 

 「センザンコウ…… それはまた微妙なたとえですね」

 

 キモカワな珍獣にたとえられて少し気分を害した雪花だったが、この優美な男からお茶の誘いを受けた途端、自分は仕事で来ていることを忘れた。

 

 (これは休憩時間、休憩時間よ。アドバイスを受けるためなんだから)

 

 この後、男の執務室を訪れた雪花は仰天する。

 

「あのう。前回お邪魔した部屋とは様子が違う感じがしますが……」

 

「ああ。あの部屋かい?あれは私専用の休憩室さ」

 

 そこは六部の一つ、兵部だった。

 兵部は武官の人事・兵馬・武器庫などを管轄する。

 現代でいう国防省・防衛省(国によって違う)とイメージすればわかりやすいかも。

 しかも男は、この部署では一番偉い。長官に相当する尚書しょうしょだった。

 その時、トクトアがした妙な質問を思い出した。

 

 ――お前…… 兵部に行ったことあるか?

 

 あの時は、正直気にもとめなかった言葉の意味を考えていると、自然と視線が部屋の入り口付近の一ヶ所に釘付けになった。

 そこに掛かっている木札には、この部署の管理者、香扇子の男と思われる名前が記されていた。

 ――馬札児台マジャルタイと。

 相似した美貌の二人は――実の親子。

  

「どうしたんだい?遠慮せずにお入りよ」

 

 「あ、はい。お邪魔します!」

 

 (トクトア様はバヤン家の養子。でもあの様子じゃ、何か他に事情が?触れてはならない何かがあると?)

 

 これまで親子の事は、家人達から一度も聞かされたことはなかった……

 

 国の防衛ともなると、さぞかし清冷な雰囲気が漂う場所と思われたのだが。

 まずはエロゲ・ファロス・セクストゥスという、きわどい名前を持つ次官から挨拶を受けるところから。

 

(名前からして、ご先祖様はギリシャ系か?にしても、なんて微妙な…… うん?書斎での会話に出てたエロ侍郎って、たぶんこの人ね。名前間違って覚えられてる……)

 

 そこで頭の中の情報整理を一旦停止した。

 尚書がわざと咳払いを始めたからだ。

 

 「欧陽おうよう郎中…… 今は、そんなモノを見てる暇はない筈だが?」

 

 尚書が投げた扇子が、漢人の若者の頭を直撃した。

 若者は決まり悪そうに頭を掻きながら立ち上がった。

 

 「美香郎メイシャンラン長官、随分とお早いお帰りで……」

 

 「ほう?いつもは美尚書メイしょうしょと呼ぶのにな。まあ良い、それよりお客人に茶をお出しせよ」

 

 「はい!」

 

 若者が客人に一礼したその直後、懐に隠し持っていた本がバサッと床に落ちた。

 ぱらりとめくれたページからこちらを覗くのは、しなやかな柳腰の半裸の美女。

「イヤ~ン」という、女の嬌声が聞こえたような気がした。


 「おいおい……」


 尚書ちょうかんは手で眉間を押さえて呻いた。

 一方、この惨事から目を背ける雪花だった(本当は必死で笑いを堪えていた)が、その内容の程度がどうしても知りたくなったため、遠慮がちにこっそり盗むように、目線を本に戻した。

 この時、雪花に知恵の女神が微笑んだ。

 内容はともかく、面白ければ食いつくかも知れない。

 手習い相談を兼ね、尚書に書庫で一番人気の面白い本を尋ねた。

 

「そうだね。じゃあこれなんかうってつけだ……」

  

 渡された本は『古典』ぽい。

 

 「あの、古典はちょっと……」

 

 「まあそう言わずに。桃源郷に行った官吏の話、と言った感じかな。王子に朗読を頼むと良い。気晴らしになるだろうから」

 

 尚書は彼方にある虹のように美しく微笑んだ。

 すぐさまこれが『桃花源記』と同じ内容だ、とピンときた。

 

 ところが、この本を手習い所で朗読させたことが問題となり、一時手習い所閉講かという危機に!?

 

 



 眠眠の豆知識(=^ェ^=)

 こんにちはニャン。時路宮姫ときじくひめの使いで、昼寝好きの猫、眠眠ミンミンだニャン。

  六部りくぶとは。

 隋から始まって以来清まで、政府の行政実務を分担し、吏・戸・礼・兵・刑・工と各部署に分かれる。

 吏部りぶは官吏の選任実務。

 戸部こぶは主に戸籍、財政の実務。

 礼部れいぶは祭祀・教育を司る。

 兵部へいぶは武官の人事・国防。

 刑部けいぶは司法・裁判に関する。

 工部こうぶは土木工事。

 

 ふーむ、国を担う人達なんだニャ。

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