第一話 『長くつ下のピッピ』の幸せな幸せな日 8

 ピッピさんに、ハナちゃんを会わせてあげられると思ったのに……。

 昼休み。

 音楽ホールの来賓室のソファーでうなだれるぼくに、悠人先輩がハナちゃんについての調査結果を話してくれた。

「ハナちゃんの名前はぐちで、中学一年生のときにご両親が離婚して彼女は母親に引き取られて妻科の苗字に変わったらしい。ピッピさんが置き忘れられたあの駅は、離婚した父親が新しい家族と暮らすマンションがある駅だったようだね」

 その日、ハナちゃんは朝から元気がなくて心配だったのだとピッピさんは言っていた。

 お手製のクッキーと、友達みたいに大切にしてきた本を紙袋に入れて、普段は使わない駅で降りて、そのままベンチにずっと座って涙ぐんだりしていたというハナちゃんは、きっとお父さんに会いに行こうとしていたのだ。

 けれど電車から降りたものの、迷いが生じたのだろう。

 新しい家族と一緒に暮らしているところへ訪ねたりしたら、迷惑なのではないか?

 お父さんを困らせるだけなのではないか?

 それでベンチから動けなかった。

 そうして駅の改札を出ることなく、電車で引き返したのだ。

 クッキーとピッピさんが入った手提げの紙袋を、ベンチに置き忘れたまま……。

「もしかしたら紙袋は忘れたんじゃなく、置いていったのかもしれないね。本を買ってくれたのは父親だったというし、父親を思い出すものを持っていたくなかったという心理はじゅうぶん考えられる」

 悠人先輩の言葉を、ぼくは胸をひりひりさせて聞いていた。

 忘れたんじゃなくて、置いていっただって?

 それじゃあピッピさんはどうなるんだ?

 あんなにハナちゃんのことが大好きで、ハナちゃんに会いたがっているのに。


 ピッピさんにどう話したらいいのか思いつかないまま、放課後帰宅した。

 夜長姫を居間に置いたあと、階段をのぼって二階の部屋へ行く。

 いつもは浮気だとぼくを責めまくる夜長姫も、ぼくがひどく落ち込んでいることがわかったのだろう。なにも言わなかった。

「……ただいま、ピッピさん」

『おかえりなさい、むすぶくん』

 ピッピさんはまた少し、やつれたみたいだった。声が弱々しい。  

「一人で退屈じゃなかった?」

『ううん、ハナちゃんのこと思い出していたから……。小学六年生のとき、ハナちゃんは京都へ修学旅行に行ったの。ハナちゃんはとても怖がりだったから、京都の旅館にはお化けが出るって話を信じちゃって、前の晩までわたしを抱きしめて、ぶるぶる震えていたわ。それで、わたしをリュックにつめていったのよ……。幽霊は出なかったわ。ハナちゃんと旅行ができて……楽しかったなぁ……。ハナちゃんも、最初は怖がっていたけれど、途中からずっと笑っていたわ……』

 夢見るように、ゆっくり……ゆっくり、言葉をつむいでいたピッピさんが、話すのをやめる。

『……むすぶくん、どうしたの? そんなに目をこすって』

「ご、ゴミが入ったみたいで」

 今日は良い知らせをもってくると約束していたのに。

 きっとハナちゃんの行方もわかるはずだからと。


 ピッピさんはなにも訊かない。


 きっと、ぼくの様子からなにかを察していて、それでもぼくを責めたり嘆いたりせず、ひっそりと待ち続けている。

 どうして、こんなに優しいんだろう。

 三年間も、駅の通路でさらされて淋しく過ごしてきたのに、他人を思いやれるんだろう。

 ピッピさんにはもう、きっとそんなに長い時間は残されていないのに。

「ごめん……ピッピさん。ぼく、役に立たなくてごめん……」

 机に頭があたって、こつんと音を立てた。

 ごめんっ。

 ごめんなさい。

「謝らないで……むすぶくんは、わたしの声を聞いてくれたわ。わたしに近づいてきて声をかけてくれた……。そんなひとは、ずっと誰もいなかったから……とても嬉しかったし、希望が持てたわ……。むすぶくんはとてもいいひとで、優しいひとよ……」

 でも、ピッピさんの願いを叶えてあげられなかった。

 ハナちゃんと会わせてあげることができなかった。

 あんなにハナちゃんのことばかり想っていたのに。

「むすぶくん……お願いがあるの。わたしを読んでくれる? 恋人さんが嫌がるかもしれないけれど……一度だけ。……お願い」

 まるで、最後の願いごとを口にするみたいに。

 

 もうハナちゃんには会えない。

 

 ピッピさんがそう感じていることがわかってしまって。目の前がぼやけて。何度まばたきをしても、指でこすっても、ぼやけて。

 

「うん、わかった」


 回転椅子に座り、ぼくは長い靴下をはいた三つ編みの女の子の表紙をめくり、声に出して読みはじめた。


『スウェーデンの、小さい、小さい町の町はずれに、草ぼうぼうの古い庭がありました。その庭には、一けんの古い家があって、この家にピッピ・ナガクツシタという女の子がすんでいました』


『この子の年は九つで、たったひとりでくらしていました』


 変色してすっかり黄色くなってしまったかさかさのページに綴られた、優しい言葉の連なりが、ささくれだったぼくの心の中にすーっと入り込んでくる。

 これがピッピさんの物語。

 泣き虫で怖がりのハナちゃんを、何度も笑顔にしてきた——ハナちゃんが大好きだったピッピさんの……。


『おかあさんも、おとうさんもありませんでしたが、ほんとのところ、それもぐあいのいいことでした』


『というのは、ほらね、ピッピがあそんでるさいちゅうに、「もう寝るんですよ。」なんていう人は、だれもいないのです』


 猿のネルソン氏と、スーツケースいっぱいの金貨を持って、『ごたごた荘』に引っ越してきた長い靴下をはいた愉快な女の子。彼女はいつも楽しいことを探していて、元気でおしゃべりで、大胆不敵で、世界で一番強い女の子だった。

 山のようにこねあげた小麦粉を床いっぱいにのばして、ハート型のしょうが入りクッキーを作ったり、カシワの木の上にポットやカップを持ってのぼってお茶会をしたり、サーカスのステージに飛び入り参加して、見事に綱渡りをしてみせたり、暴れる雄牛を乗りこなしたり。


 ——ハナちゃんは、とても泣き虫だけれど、わたしを読むとどんどん元気になって、笑ってくれるの。


 ——ハナちゃんはわたしが大好きで、わたしもハナちゃんのことが大大大好きだったわ。


 ——ハナちゃんのことが心配なの。あの日は朝からずっとぼんやりしていて、哀しそうだったから。


 ——ハナちゃんを元気にしてあげたいの。笑わせてあげたいの。


 ——ハナちゃんに会いたい。


 駅の改札を出たとき聞こえてきた、活発な女の子みたいにきびきびした可愛い声。


 ——お願い、わたしをハナちゃんのところへ連れていって。


 ——ハナちゃんところに、どうしても帰らなきゃなの。お願い。


 立ち止まる人もいない駅の通路で、繰り返し繰り返し、同じことを訴えていた。

 胸がしめつけられるほど必死な口調で。


 ——ハナちゃんに会いたいの、お願いします。


 彼女が駅のホームにショウガのクッキーと一緒に置き忘れられたのは、もう三年も前なのに。


 ——ハナちゃんは、泣いていないかしら? 元気なのかしら?


 ——もうすぐハナちゃんに会えるかも。嬉しい!


 かさかさした黄色いページは甘い香りがして——背表紙とページを繋いでいる部分から、ぽろぽろと白い粉が落ちてきて——何度も目の下をこすりながら、ぼやける文字を追って……。


『ありがとう、むすぶくん』


『わたしもう……』


 喉がつまり声が出せずにいるぼくに、ピッピさんが儚げな声でお礼を言う。

 ぼくは懸命に声を振り絞った。

「ダメだ!」

 三つ編みの女の子が描かれた表紙を引き寄せ、真っ赤な目で訴える。

「ピッピさんが読んでほしいのは、ぼくじゃなくてハナちゃんだろう? ぼくがきっとハナちゃんを連れてくる! だから、もう少しだけ待ってて!」

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