『捏(こ)ねられた猫』亭

remono

あいさつ:宿屋『捏(こ)ねられた猫』亭について

 手に手を取り合って生まれた小さな海運貿易市の一角にその酒場兼宿屋はあった。少し外観を見てみよう。建物は木造の三階建てで看板には大きく“捏ねられた猫亭”と書かれている。古ぼけた看板もまた猫の姿を模している。また看板とは別に標語がある。もしかしたら誰かの落書きかも知れないが。そこにはこう書かれている。

“地獄を我と通るものここへ来たれ”

と。

 では、中に入ってみよう。何、恐れることはない。標語はただの標語でしかない。中に入ったかね? それでは改めて。ようこそ、わしの仕事場へ。今日はどんな御用かな?



“捏ねられた猫亭”の由来を聞けばみんな笑い出すし納得もするだろう。ここのパンは確かに臭い。それも黴臭いとか酒精の臭いがするといった類の物ではない。どこか腐った肉の臭いがするのだ。酒保の物は黙して語らぬ。しかしそれがやみつきになる人間もいる。かく言うわしもその一人だ。

「このパンは実に滋養に満ち満ちている!」

とのたまう老人さえもいる。実際その年になるまでこのパンを食べ続けてなおかつ健康でいるのだから的を射ているのかも知れない。


“捏ねられた猫亭”にはもう一つ奇妙な噂がある。誰もここの人間が穀物を仕入れるところを見たことがないというのだ。もちろん街で開かれる年一回の買い付けにもここの主人は現れない。

「遠方の大都市で大量に買い付けしているんだろう。どこか臭いのもそのせいさ」

というのが大方の見解である。しかしそんなことなどあるはずがないという者もいる。確かにこの店には仕入れ用の馬車がない。穀物以外――酒や肉、または旬の季節に限ってだが野菜――は街のそれぞれの店や商人がここに納品しているのは皆もわしも知っているのだが。


 そうしてもう一つ注視せねばならぬ真実がある。この界隈ではあの忌々しいネズミの姿が見えない。わしもここで働くようになってからとんと見かけない。野良猫だっていやしない。一時狂った野良犬がこの界隈に現れたときがあったが、すぐに姿を消した。またその次の日の話は傑作である。


「今日は良い仕入れがありましてね」珍しく上機嫌なここの酒保長がそういうのを確かにわしは聞いた。良い。仕入れが。ありましてね! 実に傑作ではないか! 確かにその日のパンは何よりも獣臭くそして何よりもうまかった。前出の老人などは涙しながら食べていたのを覚えている。


「魔術か何かさ」

 そう言う者もいる。だが冗談でも魔術の話はこの街で口にしてはならない。法王庁の直接管轄下にあるこの街で魔術の話は御法度であった。事実そう言った者はたちまち店には来なくなった。自業自得である。とはまあ、そんなこんなでこの店はだいたいにおいて平穏であった。


 平穏。平穏と言えばわしも平穏とそれから平和を愛する者である。隠者と呼んでくれても構わない。というわけでわりと平穏なこの店はわしのお気に入りなのだった。まあ、にぎやかで騒がしいのはいつものことであったが。


 そんなわしはまたこの店に雇われている身でもある。字が読めない人間にここで依頼されるさまざまな仕事や、領主(ランズ)や組合(ハンズ)、教会(チャーチ)からの通達などの文章をかみ砕いて読んで聞かせるというのがここでの役どころだ。そうでないときはここの一席を借りて酒を飲んでいるか――執筆をしている。内容は察しての通りこの文章である。一階がわしの仕事場、二階が寝所である。しかしここを住まいとするわしもここの厨房には入ったことはない。“捏ねられた猫亭”の真実は闇に閉ざされている。


 しかしここで臭いパンを食べ、酸っぱい酒を呑み、日がな一日過ごしていると、実に様々な人や物事に出くわすのだ。そう言った物を書き留め、後世に残すことがわしの終生の願いでもありまたささやかな祈りでもある。願わくばこの文章を読んでいる人間が、わしが生きた時代の空気なりを少しでも感じでくれたならば幸いだ。


 いま店の主人が手持ち鐘を三回鳴らした。それはわしを呼ぶ合図である。さてどんな仕事が待っているだろうか。どのような出来事が待っているだろうか。それを書き留めるのもまたわしである。


と。自己紹介はこの程度でいいかな。そうそう最後にわしの名前は――。特に書き記す必要はないだろう。本当に人に愛される物語ならば、そこに名は必要ない。もし本当に愛される物語――そうであればいいが! であるならばだが。


 では物語を始めよう。前奏は短く済ました方がよいだろうから。まずはこの話から始めよう。題名は――華の世紀。これがいい。これがいいだろう。では早速始めよう。最後に、これを読む諸兄らがこの話を気に入ってくれることを心から願う。もちろん、読み手が女性であってもわしは一向に構わないがね。

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